第3話 『I love you』の訳し方。

台所で、ガラスが割れる音がした。文乃が覗いてみると、柊花がコップを片付けているところだった。何かのはずみで落としたのだろう。しゃがむ柊花の元で膝をつき、ガラスの破片を奪い取った。

「…貸して。」

「これぐらい、平気だよ。」

「手、血が出てる。」

かちゃかちゃとガラスが引っかき合う音が響く。柊花が自らの手を見下ろしてみると、確かに指先に血液が滲んでいた。力の加減が分からず、思わず必要以上に握ってしまったようだ。普段、何も弊害がないだけにこのような場面に困る事態に陥る。柊花は溜息をつく。

「後で、手当てするから。」

「…これぐらい平気。」

先とはまた違う意味で使った同じ言葉。柊花は指先を舐めた。舌のぬる、とした温かい感触意外、何も感じない。口の中に鉄の味が広がった。少し、塩辛い。

「雑菌が入るからダメ。」

手首を掴まれ、大人しく指を口から出す。まだ血が滲んでいた。残念だと思う。いっその事、雑菌でも何でもいいから傷口を腐らせ、壊死させて、激痛を伴って破壊されればいいのに。

その思考も恐らく、文乃には筒抜けだ。柊花がそんなことを考えているとき、文乃は恐ろしく死にそうな顔をする。柊花の想像がまるで文乃自身に現実として映ったかのように。

「文乃。」

柊花は両手を広げる。その胸の内に文乃は収まり、ぎゅう、とどちらかともなく抱きしめるのだ。それがいつの間にか、全てを許すための暗黙のルールとなっていた。

「もう寝よう。」

「…うん。」

深く、深く呼吸をすると文乃の香りが肺に満ちる。吐き出すのがためらわれるほど、その香りに溺れていたかった。好きだと思う。でも、依存だとも思う。


寝室に移動して、ベッドに潜り込む前にすることがある。

「柊花、服を脱いで。」

甘い誘いではない。眠る前に致命傷を負っていないか身体をチェックするのだ。当に恥ずかしいという感覚は失われている。面倒ではあったが、自分一人ではどうしても見落としてしまう所もあった為に、文乃に見てもらっている。

前、後ろと、頭から爪先までを丹念に調べる文乃の手付きは優しかった。

「今日は、指ぐらいかな。消毒するから、待ってて。」

ぽん、と頭を撫でられて、服を着る。その間に文乃は救急箱を用意して柊花をベッドに座らせた。消毒薬をコットンに浸し、そのコットンで指を清めていく。見ていて鮮やかなほど手際よかった。最後に絆創膏を巻かれ、ようやく解放される。勢いよく枕の上にダイブすると、文乃に「こら」と怒られた。

「また最初から見ることになるけど、それでも?」

「ごめん。悪かったって。でも大丈夫でしょ?こんなにふかふかなんだから。」

そう言って猫が甘えるように、ごろりと横になる。隣には文乃が眠るスペースを開けながら。

文乃がそのスペースに横になると、いよいよ猫のように擦り寄って見た。文乃は目を細めて、柊花の頭を抱く。そしてその長い指で髪の毛を梳く。柊花は文乃の甘やかす行為が大好きだった。


眠る柊花を見て、いつも思う。

文乃は柊花を抱いたまま、眠りの淵に居た。とろとろに蕩ける前の静かな時間。

―…あの時、落ちるあなたを捕まえられていたらもっと事態は変わっていた筈なのに。

痛覚がないと聞いて、ほっとして、ぞっとした。もう痛みを感じずに済むのだと思った反面、痛みのない彼女は生きているのかと。死んでしまったも同然なんじゃないかと、思ってしまった。

柊花は死のうとするだろう。不器用に、死にそびれて、また「殺してくれ」と頼むのだろう。次に頼まれて、自分が柊花を殺さない自信がない。初めて、自分が恐ろしいと思った。

だからこそ、一緒に居ようと決めた。離れた反動なんて考えたくなかった。反動がないぐらいに一緒に居て、表面張力の力を借りて生を結ぼう。

そう、思った。



柊花の希望で海に訪れていた。今日は暖かく、波と戯れるには絶好の日和だった。

「水着を持って来ていないから、足を浸すだけだよ。」

「わかってる。」

そう言って、柊花はスカートの裾を捲り、海の中にざぶざぶと入っていく。膝下までの水深の続く遠浅の海だった。

「…少しは気が晴れたかな。」

柊花は笑っていた。貝を拾ったり、小さな岩ガニを捕まえたりと海を堪能しているように見えた。

「文乃も来ない?」

「うん。」

柊花がいる海に向かう。波の輪が広がっていった。穏やかに寄せては返す細波は温かく、二人の足を包んでいく。

「文乃。」

「?」

柊花は手で器を作り、海水を滴らせながら文乃に差し出した。文乃が手の中をのぞくと、そこには小さな魚の赤ちゃんがいた。

まだおびえるということを知らない様子の幼魚は、大人しく収まっている。

「かわいいね。」

「うん。」

「お母さんが探しているんじゃない?」

「そうかも。」

「ありがとう、柊花。返してあげて。」

そっと柊花は手の器を海に浸す。幼魚は海に帰り、仲間の元へ戻っていく。

「…命が続いてる。」

「え?」

「いや、私たちも海から生まれてきたんだなあって。」

文乃は、朱由香の言葉の続きを待つ。

「…守られて、まだ何が怖いとかわからなくて。生きているうちに、段々生きる知恵が付いていって、そして自然にかえっていく。」

「…。」

「一緒なんだな、と思って。」

「何と?」

「私たちと。文乃…。」

「何。」

「私が死んだら、泣いてくれる?」

柊花と海岸との距離が半分ほどになって、気が付いた。柊花の足もとが紅く染まっていることに。

「…! 柊花っ!」

「え?」

服が濡れるのを厭わずに柊花に駆け寄った。柊花はきょとんと首を傾げている。

「足!」

「ん?…、うわ。」

指摘されて、柊花はようやく気が付いたようだった。慌てて、足を交互に見渡す。そして、右足に切り傷があることを見つけた。どうやらガラスを踏んでしまったらしい。きらりと光るガラス片が足元に転がっていた。

「あー…。やっちゃったか。」

「上がろう。早く。」

浜辺の岩に辿り着き、柊花を座らせて文乃はペットボトルの水を傷にかける。傷口を洗うと、文乃はハンカチを裂き包帯代わりに巻いた。

「文乃。いつもごめんね、面倒掛けて。」

「…いいよ。わざとじゃないのはわかってる。」

あれから海に入ることはもちろん禁じ、車に乗って、家へ帰る途中だった。文乃は早く家に戻り、ちゃんと手当てをしたかった。

「それにしても、慣れないものだね。」

「うん?」

「柊花が傷つくところを見るのは。他人なら、まだいいのに。」

もう、他人ではないだからだろう。家族とも、友人とも…、恋人とも言えなかったが。

やがて、雨がぽつぽつと振ってきてすぐにスコールのように強い雨となった。車内はとても静かだった。

「…ねえ、文乃。」

「何?」

「私を突き放しても、いいんだよ。」

「…。」

「自殺未遂とか、殺してほしいとか。普通に考えて、迷惑でしょう。」

「迷惑だと思えるんなら、今後一切頼まないこと。」

「それは無理。私はあなたには甘えてしまうから。」

「…それが柊花の甘えなの?」

「最大級の、ね。」

それは、なんて悲しいことだろうと思った。傷つけることでしか要求にこたえられないとは、どれほど苦しいことか。柊花は痛覚を失くして、それ故に傷を求めるようになってしまった。それが自分の痛みでも、自分以外の痛みだとしても。



海から帰ってきた日の夜の事だった。足の手当てを終え、いつも通りほかに傷ついたところがないかを確認して、ベッドに入った。

深夜。

文乃は隣で聞こえる泣き声で目が覚めた。

「…っく…ひ、」

「…柊花?どうしたの?」

「ふ、ぅ―…。」

「柊花…。」

柊花は眠りながら泣いていた。ぽろぽろと涙を零し、文乃のシャツの袖を握っていた。そして柊花は謝るのだ。

「ごめんなさ…、ごめ…。」

こうしてまるで幼子のように夜泣きをすることも、少なくなかった。きっとまだ精神的に不安定なのだろう。ズタズタになった心は悲鳴を上げて、柊花を苦しめている。

「柊花。あなたが謝ることなど、何もないよ。大丈夫。」

文乃は柊花の頭を優しく、優しく撫でる。

「大丈夫。…大丈夫。」

柊花がやっと目覚めると、文乃に猫のように甘えだした。

「あや、の…。」

文乃の足を自身の両足で挟み、胎児の様に身を丸め、柔らかい胸に顔を押し付けた。そして文乃の手を握り、人差し指を甘噛みするのだ。

そんな時、文乃は思い切り柊花を甘やかす。ただただ柊花の身体を抱いて、ゆらゆらと揺りかごのように優しくあやすのだ。そして再び眠気が襲ってくるまで、ずっと待つ。柊花は完全に安心しきったような顔で、文乃に身を委ねる。



・・・突き放していいだなんて、本当は怖いくせに。

独りになったら、死を選ぶくせに。

喜んで、恐ろしく痛い方法で死に逝くくせに。


そんな柊花を、どうして突き放すことができるだろう。

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