第2話 私を見て。

文乃が柊花に出会ったのはキンと空気が冷え、身体の芯から凍えるような真冬の頃だった。ちかちかと花火が舞うように光の炎を伴って、指先からラインを描いていた。ジュニアらしいしなやかな体躯に相まって、演技が柔らかく見えたことを覚えている。

柊花はフュギュアクラブのエースで誰よりも高く美しく氷上で飛んだ。スケート靴の刃とリンクの氷が削れる音を聞く度に、彼女が舞っているんだと思い胸が熱くなった。軽やかにマッチをこすったような音は段々重みを増していく。

集中力と共に緊張感が高まっていき、柊花はどんどん新しいテクニックを吸収していった。その成長は目覚ましく、さなぎが蝶に羽化するかのようだった。


「…綺麗。」

文乃は鼻の頭を紅くして、氷上を滑る様子を見守っていた。そして柊花の練習を見届けると、今度は文乃が氷上に躍り出た。

柊花が天才なら、文乃は感覚も、勘も全てを練習で補う努力の人だった。音楽が身に沁み込むまでひたすらに練習に打ち込み、身体で表現できるまで追及した。何度転倒してもめげず、立ち上がりすぐさま挑んでいく姿は勇敢そのものだ。

柊花もまた、文乃を見つめていた。

「文乃。そろそろ休憩しないと、筋肉に乳酸が溜まるよ。」

「うん…。もうちょっと。」

「ダメ。疲れが取れなくなる。」

そう言って柊花は氷上を滑ると、文乃の手を引いた。そしてゆっくりとアイスリンクを周回し、無理矢理アップを始める。手袋越しの柊花の手は温かく、柔く、思いの外小さかった。

「柊花は割と強引だよね。」

「そう?それなら文乃は割と頑固かな。」

前を滑る柊花の長い黒髪がなびく。ポニーテールにまとめた髪の毛は、足の動きとは逆に左右に揺れた。欧米人のようなブロンドでウェーブのかかった長髪もゴージャスですてきだが、アジア人の真っ黒でストレートの髪の毛ははっとするほど清楚で美しいと思う。フュギュアを始めて海外の選手と交流することも度々あり、文乃は髪を伸ばすきっかけとなった。

「ねえ。このあと、暇?」

ふと思い出したかのように、柊花が振り向いて文乃に問う。文乃はスケジュールを脳内に浮かべる。

「練習のあとは市立図書館に寄ろうと思っていたけど。」

「何の本を借りるの?」

「うん。今度使うプログラムで流す曲の物語の本を借りようと思って。」

「何だっけ。『蝶々夫人』?」

「そう。よく覚えてるね。」

文乃は自分自身のプログラムを習得するのに精一杯で、他人がどんな曲で滑るかまでは気が廻らなかった。

「覚えるよ。いつも、文乃が滑っているところを見ているんだから。」

前を向き、小さな声で柊花はぽつりと呟いた。

「? 何か言った?」

「ううん、何も。ねえ、それなら私の家にあるから持ってきてあげるよ。あと一日待って。」

「あ、嬉しい。返却期限までに読めるか心配だったから。延長してもいいけど、手続きが面倒だし。」

「練習の合間だと、読まずに寝ちゃうことなんてざらだもんねー。」

「疲れるからね。それで?柊花は何の用事?」

「うん、えーっとね。」

えへへ、と柊花は照れたように笑う。

「競技用メイクの化粧品を選ぶの、手伝ってほしいのだー。」

ああ、と文乃は頷いた。

「柊花、メイクだけは苦手だよね。」

「細かい作業が苦手なんだよ。アイラインとか、つけまつげとか。手が震えちゃって無理!だから、あまり興味がない。」

興味のない物の買い物は確かに難しい。誰かに意見を聞きたくもなるだろう。

「ね、お願い。付き合って。」

柊花が立ち止まって、文乃を見る。自然、文乃も足を止めることになる。柊花は真直ぐと目を見つめ、唇を結ぶ。まるで恐れを知らず、赤子が大人をじっと見つめるようだった。

「いいよ。付き合う。」

文乃の返事を聞いて、柊花はぱっと花がほころんだように笑顔を浮かべた。

「やった!ありがと!」

そう言うと、エッジを利かせて前を滑るとダブルアクセルを決めた。ふわりと髪の毛が舞って、着地する。全身を使って喜びを表していた。

「大袈裟だよ。ほら、他にも練習してる人がいるんだから急なジャンプは控える。」


クラブの練習を終えて、帰り道。季節は秋。はらはらと木の葉が木々から離れ、舞っていた。

スケート靴から、スニーカーに履き替えた瞬間いつも若干の違和感を覚える。それを柊花に話すと、「私もそう思ってた」と同意を得られたのできっと大体の人が抱く感想なのだろう。

スニーカーでザクザクと落ち葉を踏みしめると、香ばしくて、少し生臭い。乾燥した植物独特の香りが立った。

「柊花はプログラム、何で滑るの?」

「『白鳥の湖』だよ。演じるのは、黒鳥だけどね。」

映画、『ブラック・スワン』が公開されてから悪役の黒鳥を演じる選手が増えた。ならば、恐らく衣装の色は黒だろう。

「じゃあ、全体的に濃い目のメイクがいいんじゃない。アイメイクばっちり、唇には真っ赤な口紅。」

「お母さんの化粧品借りてもいいんだけどね。」

「ダメ。若さがちがう。」

柊花の案を文乃は即座に却下した。文乃の母親は化粧品の美容員の仕事をしている。そんな縁もあって、文乃はメイクに関しては厳しい。社員割引で化粧品の購入もできるため、随分と仲間から頼られていた。

話しをしながら歩き、駅前のデパートに入った。化粧品コーナーにいる母親に、他のお客さんがいなかったので声を掛ける。

「お母さん。お仕事お疲れ様。」

「あら、文乃。柊花ちゃんも。いらっしゃい。今、帰り?」

「こんにちは、小雪さん。」

文乃の母親はおばさんと呼ばれることを嫌がり、名前で呼んでね、と文乃の友達に言っている。おばさんはおばさんじゃないかと思うが、そういうわけではないらしい。

「今日は、お客さんとして柊花を連れてきたの。柊花に合うお化粧品、見てもらってもいい?」

文乃の言葉に、母親は嬉しそうに手を叩いた。

「いーわよー。じゃあ、そこに座って。イメージとかある?」

「白鳥の湖の、黒鳥。」

「ブラック・スワンね。すてき。スパイシーな魅力のある柊花ちゃんにぴったりだわ。」

それからあれこれと化粧品を見繕い、柊花はアイシャドウと口紅を購入した。化粧品が入った袋をぶら下げながら、店を出る。

「ありがと、文乃。助かっちゃった。」

「ううん。こちらこそ、お買い上げありがとうね。」

駅前で、二人は別れる。日が暮れるのが随分と早くなった。

「明日、忘れずに蝶々夫人の本持ってくるね。」

「うん。じゃあ、また学校で。」

柊花が改札口を通り、駅構内に吸い込まれていく。その様子を、文乃は見送った。姿が見えなくなったところで、文乃もまた家路につくために踵を返す。ふと空を見上げた。

低く、大きい月が出ていた。


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