WORLD END.

真崎いみ

第1話 世界の終わり。または、果て。

演奏が鳴り響き、演技が生まれる。スケートリンクにコンパスを用いたかのような弧を描く。

たった4分の恐ろしく短い。そして、長い旅がもうすぐ終わる。


―5

私を見て。

――4

最後まで、ちゃんと。

―――3

愛しい。

――――2

全てを込めて。

―――――1

ああ、

―――――――0


終わってしまった。



しんと静まり返るスケートリンク。照明が落されて、空気は透き通りひんやりと肌を刺す。日中はスケートやフュギュアに興じる人で溢れかえり、とても賑やかで愛しいこの場所。

桐嶋柊花は最後まで居残って競技の練習をしていた。曲が終わり、最後のスピンがゆっくりと止まった。柊花は一瞬呆けたように空を見つめ、ふ―…、と深い呼吸をした。手の指先から、じんわりと熱が放出されていく。

このまま体温全てが無くなってしまったら、私は―…どうなるんだろう。

妙に感傷的なことを考えながら荷物をまとめ、着替えるためにリンクを去る。最後に少しだけ振り返って見ると、リンクは白々としてまるで海中の砂浜のようだった。

管理人に礼を言って、柊花はロッカールームへ向かった。

私服に着替えながら、七海文乃の事を考える。確か、文乃はこの施設内部で今後の競技生活について話し合いをしている筈だ。柊花はスマートホンをタップし、メールを打つ。忙しいだろうから、なるべく短く簡潔に。


『一緒に帰ろう。ロッカールームにいるから、終わったらメールください。』


メールを送信して、数十秒後には返信が来た。

早い。


『了解。もう少し待ってて。ごめんね。』


返信を確認して、柊花はスマートホンをリュックの内ポケットに納めた。シャツやシューズを鞄に押し込んで、手持無沙汰になった柊花はロッカールームの窓を開ける。小雪と共に風が舞い込んで、カーテンを揺らした。ただ、ぼうっと眼下の風景を見守る。柔らかな小雪降る中、街灯の下では微妙な距離の男女のペア。思い出すと、男の子はいつもあの女の子を目で追っていた気がした。

「…これから告白、なのかな。」

俯く女の子。

緊張している男の子。

もどかしい時間が過ぎて、やがて二人は手を繋いで帰っていく。

「おめでとう。…恋が実ったんだね。」

青春の1ページを見た気がして、柊花は微笑ましい気持ちで見送った。


頬を片手について、静かだな、と。そう思う。

柔らかい月明かりと、木々のさざめきが絶妙な子守歌になって、柊花はとろとろ眠ってしまった。

温かい。

どの位眠っていたかわからないが、ただその心地よさに目が覚めた。ふと気が付いたら、肩にはジャージの上着が掛けられていた。どうやらこの温度は上着によるものらしい。柊花はそっと隣の気配を探る。

手を伸ばせば届く距離に、文乃が静かに本を読んでいた。真剣な表情で、本のページを捲る文乃をずっと見ていたくて敢えて、寝ているふりをすることにした。

柔らかな月光が差し、文乃の栗色の髪の毛が濃く見える。横顔は凛々しい。

ぱら、ぱら、とゆっくりページをめくる音が響く。それは写真で切り取ったかのような光景だった。

そして、ふと名前を呼びたくなった。

「…あ、やの…。」

「起きたの?柊花。」

文乃はぱたんと本を閉じて、柊花を見た。そして柊花の髪の毛を優しく梳いた。

「起こしてくれて、構わなかったのに。」

「勿体ないよ。」

はは、と文乃は笑った。

「せっかく柊花が無防備に寝てるんだから。」

そう言いながら、文乃は柊花の柔らかい髪の毛を撫でつける。優しく慈しむその手付きに思わず甘えてしまいそうになる。

外を見れば、星が零れて街を白に染めていた。昇降口、建物屋内から誰の声も聞こえない。まるで、文乃と柊花の二人だけが世界に取り残されたかのようだった。

「皆、帰ったんだね。」

「うん。」

「私たちも帰ろうか。」

「そうだね。帰ろう」

立ち上がる際に、不意に視線がぶつかる。徐々に近づく文乃の顔。彼女の前髪が睫毛にかかり、思わず目をつぶってしまう。そしてその刹那、唇に温かく柔らかいものが当たった。

きらきらと星が散ったように瞼の裏に光が散った。

ちゅ、と離れていく体温が名残惜しくて、柊花は手を伸ばす。そして文乃を抱きしめた。呼吸をすると文乃の香りが肺一杯に満ちていった。

この安らぎと愛しさは、今でこそ得たものだった。



柊花は建物の窓に近付き、錠を外した。カラカラカラと軽やかな音を立てて、窓を開け放つ。そのまま外に向かって、柊花にしか見えない何かを掴むように腕を伸ばした。

「柊花!!」

文乃も手を伸ばす。だけど。

手は宙を描き、柊花はすり抜けるように地面に落ちていった。

ビルの建物5階から落ちた柊花は頭部を強打し、気を失った。文乃の通報により救急車で病院に運ばれ、手当て、精密検査を経て、今に至る。それまで世界はまるでスローモーションで、モノクロだった。

ただ、柊花の流した血液の赤だけが鮮烈に脳裏に焼き付いた。



運び込まれたのは都内の小さな病院だった。ふと、その病室から僅かな声が聞こえた。小さな声で、確かに文乃の名を呼ぶ柊花の声だった。

「…文乃。」

柊花は立ち上がって、そっと扉に手をかけた。面会謝絶の札を無視して病室に入った。

「…文乃…。」

「柊花…?」

「文乃…。」

「私なら、ここにいるよ。」

柊花は自傷を防止するために、手を拘束され行動が制限された痛々しい姿だった。

泣きそうになってる場合ではない。私が泣いてどうする。

文乃は胸にこみ上げる感情をぐっと押し殺して、柊花のもとに訪れた。ぼんやりしていた柊花の視線が文乃を定めた。

「文乃、これ、外してくれないかな。」

「ごめんね、柊花…。その拘束は、今の柊花の命綱だから。外してはあげられない。」

「あなたはいつも、私の傍にいてくれるんだね。」

「…。」

「ありがとう。嬉しいよ。」

「…っ。」

「文乃。」

「何?」

「私を殺してくれない?」

真っ白な壁に、点滴の滴が落ちる音。少々開け放たれた窓から風がそよぎ、カーテンをはたはたと泳がせる。病院のとある一室。穏やかな宵だった。

「―…。」

言葉を失くす文乃に、柊花が甘えるように囁く。

「殺して…、」

「…。」

柊花が少し首を傾げて見せた。

「…何故、泣いてるの?」

「え、」

文乃の瞳から大粒の涙が零れていた。思わず手で触れてみると、それは熱くサラサラしていた。


意識が回復したところで、医師による問診があった。柊花は何の反応を見せずにいたが、徐に医師の白衣に留めてあったボールペンを手に取る。そしてペン先を下に躊躇なく手の甲に突き立てた。血が、ぱたぱたと肌を伝い吹き出した。

「何を…っ!?」

絶句する医師の目の前で柊花は再度、肌にペン先を突き刺す。

「止めなさいっ、」

「痛くないです。」

柊花はその時、確かに


笑ったのだ。



無痛症。

検査を重ねた結果、柊花は頭を強く打ち、痛覚の電気信号が上手く受信できない身体になり、痛覚が途切れてしまっているという。

触覚こそあるけれど、痛覚は完全に失われた。生きるために危険を伝える痛みがないということは、致命傷を負っても気づかないということ

朝夕と身体の隅々の検査を怠ってはならない。精神的の落ち着きが必要。死を選べば、苦痛なく死んでしまうから。

柊花は肉体的にも精神的にも、死にやすい体質になってしまった。


最初こそ病院での治療を試みたが、何せ前例がないために一向に治療は進まない。徐々にあきらめの色が濃くなり、完治よりも対処策の方に重きを置かれるようになった。

それから今までの数年。柊花は痛みを無くしたままだった。

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