6、一転と前進

「無視、出来るかな……」


「出来なきゃハルさんが困るだけだね」


 さて、と竜太は傘を掴んで立ち上がった。

唐突な話の切り上げ方に彼女は面食らう。

慌てて鞄と傘をひっ掴み、店の出口に向かう彼に続いた。


 会計の際、財布を出す素振りも見せずに「ご馳走さまでーす」と言ってのける少年の図太さに小さく脱力する。


(ちゃっかりしてる……まぁ別に良いんだけど)


 外はすっかり暗い。

雨足は相変わらず激しかったが、雷は遠退いたようだ。

特に話すこともないまま二人は傘を開いた。


 竜太の後について歩いていくと、やがてハルの見知った道に着く。

高校の近くの明るい大通りだ。

あのマンションの前を通らなかったのは彼なりの気遣いだったのだろう。


 別れ際に彼は「ま、頑張って」とだけ言い残し、振り返る事なくマンション方面へと去って行った。


(変わった子だったな……それより、明日からどうしよう)


 多くの情報は得たものの、状況は何一つ変わっていない。

どしゃ降りの中、ハルはトボトボと家路についた。




 翌朝。

目覚めてすぐに、嫌な一日の始まりを予感する。


(あの男の人、今日も学校の屋上から落ちるんだろうな……気が重い。学校、行きたくない……)


 用意された朝食を適当に胃に詰め込む。


 ハルの母親は非常に鈍感な性格で、娘が思い悩んでいる事に全く気付かない。

父親の方も仕事が忙しく、家族に気を遣っている余裕はない。

そもそも彼女の父親は超現実主義者で、オカルトめいた話をしようものなら馬鹿にされるか怒られるのがオチである。


 そんな事情もあり、ハルは親に相談しても意味はないと口を閉ざし続けていた。


(でも、あの子には頑張るって、言っちゃった)


 昨日出会った少年、竜太の顔が頭に浮かぶ。

ここで逃げ出したら彼に冷たい目で見られる気がしてならなかった。


(……頑張ろう)


 唯一話を聞いてくれた人物に嘘を吐く気になれず、結局いつもと同じように家を出る。

そしていつもと同じように生徒の群れに混じって教室へ向かった。


(舐められないように、か……)


 教室の中に入ると、これまたいつもと同じように生徒の視線が一瞬だけ彼女に集まる。

僅かに怯むが、深い意味が無い事は分かっている。


(落ち着いて。窓の方は見ないように。でも言いたい事は、ハッキリ……)


 徐々に激しくなる心臓の音を聞きながら机の上に鞄を置いた。


「お、はよう……」


「……はよ」


 消え入りそうな声で挨拶するハルに、隣の男子生徒が間をおいて返す。

その後からやって来た前の席の女子生徒にも、ハルはか細い声をかける。


「お、おはよう……」


「おはよ、宮原さん」


 思っていた以上に普通に返され、ハルは胸を撫で下ろした。

どうやら日常を変えるという事は彼女の想像以上に簡単な事だったらしい。


(大丈夫、落ち着いて。あの男の人が落ちても、無視、無視……)


 賑わう教室の中、ハルは黙々と鞄を漁る。

自然と体が強張っていくのを感じながらきたる男の嫌な視線に備えた。


 しかし、この日はいつまで経ってもあの落下男が現れる事はなかった。



(おかしい……)


 男が現れなかった翌日の昼休み。

ハルはおそるおそる窓辺に近寄った。

今までの彼女なら、まずあり得ない行動だ。


 明るい曇り空が梅雨明けを予感させている。

茶色いマンションは風景の一つとして他の建物に紛れており、依然として男の姿は見当たらない。

窓から入ってきた弱い風が彼女の重たい髪をそっと撫でた。


(どうして急に居なくなったの? 諦めた? あんなにしつこかったのに……)


 ふと、マンションの方へ立ち去って行った小さな背中が頭をよぎる。


(もしかして、あの子が……何かした?)


 しかし彼は自分にはどうにも出来ないと言っていた筈だ。


 いずれにせよ、彼女の全く知らない内に何故か問題は解決したらしい。

どこか腑に落ちない思いを抱きつつ、ハルは心に刺さったままの言葉を思い出した。


──察しろなんて無理な話だよね。

──こっちから構ってやる義理なんて無いのに。

──言いたい事があるなら、直接ハッキリ言えって感じ。


(……頑張るって、決めたじゃない)


 ハルは「よしっ」と気合いを入れ直して弁当を手にする。

一人でマンションに向かった時の緊張感を思えば、どうという事はないはずだ。


 彼女は少しはにかみながら、近くで弁当を広げていた女子生徒達の元へと歩み寄った。

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