二章、トモダチ
1、慣れる
まだ夏休み前だというのに、ここ数日は夏日が続いていた。
(朝なのにもう暑い……今日の体育嫌だなぁ)
ハルは暑さ対策で結うようになったポニーテールを揺らしながら家を出る。
通い慣れた通学路を歩く姿は一見すると堂々としたものだ。
ある道に差し掛かった時、彼女はハッと息を呑んだ。
前方に設置された駐車場の看板の陰に居る、ひっそりと
顔があるべき所には何もなく、喉元に小さな目がポツポツと付いている。
(また居る……)
知らん振りを決めて横を通ると、泥土のような嫌な臭いが鼻を掠めた。
以前の彼女だったら悲鳴を上げて逃げ出していただろう。
黒いモヤはハルの事など気にした様子もなく、ただそこに居た。
(竜太君の言ってた通りだな……)
以前会った不思議な少年、竜太のアドバイスを律儀に守っていた彼女は身を持って
あの日を境に落下する男は姿を消した。
しかし喜んだのも束の間の事で、彼女は度々人には見えないモノを視るようになってしまったのだ。
それが霊なのか、妖怪なのか、彼女には分からない。
それ等は基本的に、人に関心が無いように見受けられた。
ただ佇んでいたり、同じ行動を繰り返していたり……彼等には彼等の世界観があるのかもしれない。
こちらが気付かぬ振りをして関わりを持たなければさして問題は無かった。
先日の事だ。
ハルが家のトイレを使おうと扉を開けた時に、真っ黒な人影と鉢合わせてしまった。
「ひゃっ!」
鼻先がぶつかりそうな距離で、影は鳥類のような目玉をギョロつかせる。
ハルの悲鳴を聞いたその黒い影は不思議そうに彼女の様子を伺い、近くをうろつき回った。
かなりしつこかったが、二時間ほど無視を続けると影はいつの間にか居なくなっていた。
慣れない内こそ卒倒しそうな彼女だったが、今では大分ポーカーフェイスが板に付いてきた。
何事も慣れである。
(そろそろ、大丈夫かな)
駐車場の黒いモヤから距離を取ったハルは徐々に歩くスピードを早めた。
いくら平気な振りをしていても怖い物は怖い。
気付けば彼女は何ともない顔を貼り付けたまま駆け出していた。
学校が近付き生徒の数が増えてきた所で、ようやく歩みを緩める。
「おっはよー、宮原さんっ」
急に肩を叩かれ、ハルの体が大きく跳ねた。
肩を叩いたのはクラスメイトの
北本は人懐っこい笑顔でハルの隣に並ぶ。
「お、おはよう。北本さん……」
「宮原さん、ビビりすぎー。ってか何で息上がってんの?」
北本は明るい性格で誰に対しても友好的に接するクラスの中心人物だ。
ハルが完全に孤立せずに済んだのも彼女の存在による所が大きい。
「最近あっついよねぇ。今日の体育嫌だわー」
(北本さんも同じような事、思うんだなぁ……)
ニコニコと話す北本につられ、自然と笑みが浮かぶ。
(こんな風に、私も喋れたらなぁ……)
彼女はいつも表情豊かで可愛らしい。
北本の明るさと優しさに、ハルは強い憧れを抱いていた。
「あ、明里、おはよー」
教室に入るとすぐに北本はクラスメイトに囲まれた。
隣にいたハルは挨拶だけして、そそくさと自分の席へ向う。
彼女達との間には見えない壁がある。
会話はするが、親しくはない。
北本に限らず誰に対しても、ハルは付かず離れずの関係を保っていた。
(……良いなぁ……)
昨日のドラマの話で盛り上がる彼女達の声を聞きながら、ハルは暇潰し用の文庫本を開いた。
その日の放課後。
帰ろうとしていたハルの背に「待って」と声がかかる。
引き止めたのは北本だった。
「宮原さんさ、今日ヒマ? 皆でカラオケ行くんだけど、良かったら来ない?」
思わぬ誘いを受けたハルは間の抜けた顔で固まる。
彼女なりに友人の少ないハルに気を遣ったようだった。
(ど、どうしよう……誘ってくれたのは嬉しい、けど……)
人見知りの人間にいきなりカラオケとはハードルが高い。
答えあぐねている間に、北本はペラペラと参加メンバーを口にしていく。
半数が知らない名前だった。
「ご、ごめんなさい。今日は、ちょっと……」
「そっかー残念。んじゃ、また今度ね」
「う、うん。またね」
それだけ交わして北本は友人の元へと戻っていく。
あっさり引き下がられ、ハルはホッとする反面、寂しさを感じた。
(私って、勝手だなぁ)
自己嫌悪に陥りながら廊下に踏み出すと、再び「ねぇ」と声をかけられる。
まだ何かあるのだろうか。
ハルは「何?」と振り返った。
すると北本は少し離れた所から不思議そうに顔を向けた。
「え? どうかした? 宮原さん」
「あ、ごめん。聞き間違いだったみたい」
それじゃ、と今度こそ廊下へ出て、それとなく周囲を見回す。
掃除の行き届いたリノリウムの床が光を反射している。
特に怪しいものは見当たらない。
(何だ、本当にただの聞き間違いか)
最近、ひどく怖がりになってしまったと、ハルは一人自嘲した。
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