4、救い

(……いる。あの男が、私のすぐ横に……)


 足元から送られる強い視線──ハルは息を飲んで堪えた。

迂闊に動こうものなら足首を掴まれるのではという恐怖が彼女の頭を支配する。


 生ぬるい風が木の枝を揺らす。

足元の気配は暫くして消えた。

少年はずっと地面を見ていたが、やがてとんでもない事を口にした。


「あいつ、お姉さんの事しか見てなかったね」


「え……え?」


(この子にも、あの男の人が見えていたの?)


 ハルは自分以外にも男の存在を視認する者が居た事に驚く。

同時に、あの光景を目にしても眉一つ動かさなかった少年の神経も疑った。


(この子、何か知ってるの……?)


 僅かな可能性に胸が高鳴る。

しかし彼は用は済んだとばかりにクルリと背を向け立ち去ろうとしていた。


「ちょ、ちょっと待って! お願い待って!」


 藁をも掴む思いで少年を引き留める。

彼は意外にもすんなりと振り返った。


「何」


 ここで手掛かりを逃す訳にはいかない。

ハルは言葉を選ぶのも忘れて切実な思いを吐き出した。


「わた、私、困ってて。あの、前に人が落ちるの見て。男の人が、何回も落ちて、それで……」


 支離滅裂な言葉が溢れ出る。

一息に捲し立てられた後、彼は「話、終わり?」とだけ呟いた。

その対応に幾分か冷静さを取り戻した彼女は赤面しながら小さく頷く。


(まずい。取り乱しすぎた……)


「結局、お姉さんは俺にどうして欲しいの」


 何とも思っていなさそうな少年に、今度こそ言葉を選ぶ。


「……どうしたら良いのか、分からないの。だ、だから、知ってる事、あったら教えて下さい」


 少年は何かを思案した後、初めてハルの顔を見る。

そして何事も無かったかのように歩き出した。


「あ、待って!」


「……別に、置いてかない。場所変える。雨降りそうだし」


 ここで初めて遠くで雷が鳴っていた事に気が付く。

厚い雲の流れも早い。

ハルは慌てて少年の背中を追った。




 三分程歩いて辿り着いた先は普通のファミレスだった。

天候のせいか客は殆どいない。

少年は店員の案内を待たずに奥の席に向かい、ハルの着席を待たずにドリンクバーを注文した。


(は、早い……)


 子供だけでファミレスに入る事自体初めてのハルには今の状況は目まぐるしい。

何から話そうかと考えながらドリンクバーで冷茶をつぐ。

少年は早々についだコーラを片手に、ハルを観察しているようだった。


「お姉さん、この店知らなかったみたいだけど、この辺の人じゃないの?」


「は、はい。先週、東京から転校して来ました」


 少年は「あっそ」とだけ返してさっさと席に戻っていく。


(冷たい、というよりマイペースな子なのかな)


 彼の言動や態度は気にしても無駄だと判断し、ハルも慌てて席に向かった。



「っていうか、お姉さん、誰」


 今更な質問をされ、互いに名乗っていなかった事に気が付く。

ハルは小さく頭を下げた。


「世与高校二年、宮原ハルです」


「は?」


「え?」


「……別に。……俺は天沼竜太。世与東中の三年」


「え!? 中三?」


 竜太にも思う所はあるのだろう。

ジトリと睨まれたハルは首をすくめる。

こんな所で彼の機嫌を損ねる訳にはいかなかった。


「ハルさんは何で、こっちに来たの」


 早く本題に入りたいハルの思いをよそに、竜太は話を広げる。

ストローをかき混ぜる音がカラカラと小気味良く響いた。


「おじいちゃんが、世与に住んでて。今年の一月に、亡くなっちゃいましたが……丁度、父の転勤先がここの近くで……」


「要は空き家になったじいさん家に越してきたって訳ね」


 どこか冷めた目を向けられ、ハルは何か不味い事を言ったのかと不安になる。

雷が近くに落ち、彼女の不安は更に煽られていく。

一々ビクつくハルを無視して彼は急に本題に入った。


「先に言っとくけど、俺、あいつが何なのかは知らない」


「そんな……」


「あいつが俗にいう幽霊って奴なのか、集団で見る幻覚なのかは、知らない。でもあいつ、前は色んな所から落ちてた」


「ちょっと待って……色んな所?」


 あの男は元々あのマンションから落ちていたのではないのか。

彼女の予想では、あのマンションで転落死した男性の霊が自分に取り憑いた、というものだった。

ハルは自身の知る男の情報との食い違いに疑問を抱く。


「色んな所だよ。うちの学校の屋上から落ちてるのも視た事あるし、電柱からってのも視た事あるよ」


「じゃあ、何で、今は……」


 竜太は言葉を選んでいる様子でコーラを飲んだ。

強い雨が窓を打ち付け、不快な音を立てる。


「……一人で延々と落下し続けるって、どんな気分だと思う?」


「はい?」


「誰にも気付いてもらえずに同じ事を繰り返すって、どんな気分だろうね」


 ハルは目を閉じ、想像する。


 誰にも存在を認められず、落ちる苦しみ。

誰にも気付いてもらえず、繰り返す苦しみ。

苦しみを止めてくれる者がいない孤独。


 それはどこかハルの立場に似ていた。

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