3、見られる
「はぁ……」
あの恐ろしい体験から一週間。
ハルはすっかり弱りきっていた。
教室に向かう足取りが重いのは、本日が月曜だからという訳でも、未だに友人が出来ないからという訳でもない。
彼女が教室の扉を開けると近くにいた生徒達が視線を送った。
そしてすぐに生徒達の興味は他へ移される。
それだけだ。
これがクラスの日常になっていた。
(見ちゃ、駄目……)
極力窓の方を見ないようにしながら席へと向かう。
朝だというのに外は雨雲のせいで薄暗い。
「……はよ」
左隣の男子生徒が社交辞令か気まぐれか──素っ気ない声を投げかけてくる。
面食らったハルは数拍おいてからどうも、と会釈した。
それがいけなかった。
視界の端に何かが落ちる影が映る。
彼女の細腕は総毛立ち、
(あぁ、また見ちゃった)
悪天候にも関わらず、それは妙にはっきり見える。
彼女は乱雑に鞄を漁って恐怖を誤魔化した。
この一週間、男は毎日あのマンションから落下していた。
その回数は日ごとに増し、嫌な視線まで送られるようになっていく。
クラスの誰も男の存在に気付かず、またハルの異変に気付く者もいなかった。
(……気持ち、悪い。もう帰りたい……)
男の存在を感じるのは教室にいる間だけである。
だが真面目な彼女に学校をサボるという選択肢は無かった。
(今日は一段と酷いな……)
四時限目の授業中。
さすがのハルも苛立ちを覚えていた。
数えた訳ではないが一時間に十回は落ちているだろう。
男の意図は分からないままだが「慣れ」というものが彼女を奮い立たせた。
(私を怖がらせて楽しんでるの? そうじゃないなら何なの? 一体何がしたいの!)
勢いに任せて窓の向こうを睨み付ける。
小雨が降る中、マンションの屋上に人影はない。
「……っ!?」
教室の窓の外をあの笑顔が通り過ぎた。
男は真っ直ぐにハルを見つめ、音もなく下へと消えていく。
学校の屋上からの落下は流石に予想外だった。
(やだ! 近付いてきた……!?)
教師の声を遠くに聞きながら、彼女はこれ以上は身が持たない事を悟る。
(やっぱり、どうにかしよう。いや、どうにかしなきゃ)
至近距離であの視線に耐え続けられる程強い心を持ち合わせてはいない。
一体何をどうしたら良いのか。
散々悩んだ末、彼女はある決意を固めた。
ハルは帰りのHRの終了と同時に教室を飛び出した。
引き留めてくる友人が居ないのは今の彼女には好都合だった。
(このまま家に帰りたくない。もしあの男の人が家にまで来たら、耐えられない)
泥水がはね返るのも気にせず歩みを早める。
(行きたくない、けど。何か、分かる事があるかもしれない……)
打開策となるヒントがある事を願いながら例のマンションへと向かう。
雲行きはかなり怪しいが、雨は止んでいた。
(……で、どうしよう……)
勇んで来たは良いものの具体的な策は何も思い浮かばない。
彼女はマンションの少し手前から進めずにいた。
以前来た時と違うのは、通りにちらほら人の姿がある事位である。
スーパーの袋を下げて歩く主婦。
待ち合わせをしているのか常緑樹の近くに立つ少年。
自転車で駆け抜ける高校生数人。
──自分一人じゃない。
たったそれだけの事が彼女に強い安心感を与えた。
「あ、あのぅ、すみません」
「はい?」
ハルは自分に向かって歩いてきた主婦に声をかける。
ふくよかな主婦は「何かしら?」と立ち止まった。
「あ、えっと、あのマンションなんですが……その……」
「マンション? あそこが何か?」
「えと、あそこで過去に何か、事故、とかそういうの……ありませんでした?」
「事故ぉ? さぁねぇ……」
覚えがないのか主婦は不振がりながら眉をひそめる。
「あのマンションは出来てからまだ一年くらいしか経ってないし、そんな話は聞いた事ないねぇ」
「そ、そうですか。ありがとうございました」
物言いた気な主婦から無理やり話を切り上げ、ハルは逃げるようにその場を離れた。
主婦も深くは追及せず、そのまま去っていった。
(やばい。歩き出す方向、間違えた。マンションに近付いちゃった……)
慌てて立ち止まり、思考を巡らせる。
(引き返す? それとも、マンションの中に入ってみる……? いや、無理だ。新しいし、きっとオートロックで入れない。中に入るには、誰かの後に続くしか……あ)
彼女は常緑樹の近くに立つ青いTシャツの少年に活路を見出した。
十二、三才くらいだろうか。
マンションに向かって立つ彼は、右手の傘を持て余しながら左手でスマホを弄っている。
(もしあの子がここの住人なら、中に入れるかもしれない。もし違ったとしても、何か噂話が聞けるかも……)
次はもっと上手く話さねばと彼女が意気込んだ時だった。
「何」
スマホに目をやったまま、少年が声をあげた。
二人の距離は会話をするには遠いが周囲に人はいない。
「何か用」
少年は再び抑揚のない声で問いかける。
一瞥もくれずに話しかけてくる姿にハルは言葉を失った。
沈黙が続く。
やがて無視されたと思ったのか、少年は小さく舌打ちをした。
(ど、どうしよう。早く、何か、何か言わないと……)
見た目に反した不遜な態度につい萎縮してしまう。
「あ、の……」
「何」
「ここ、に住んでるんです……か?」
「何でそんな事聞くの」
少年はスマホから目を外す事なく淡々と答える。
確かに見ず知らずの人間に教えるような内容ではない。
慌てて質問を変える。
「えと……ここのマンションで、何か変わった話、知りませんか?」
「例えば?」
「えっ」
少年の一言一言は素早く素っ気ない。
そして次の言葉を急かすような威圧感がある。
(この子、苦手なタイプだ)
再び黙り込むハルに興味を失ったのか、いや、元々興味など無かったのだろう。
少年はスマホをしまうと、今度はイヤフォンを取り出して耳に装着した。
自分の存在に一切の興味を持たない彼の姿がクラスメイトの姿と重なる。
(何でこんな年下の子にまで、無視されなきゃならないの!?)
ハルは自分の口下手さを棚にあげ、少年に抗議の視線を向けた。
(どうして、私ばっかりこんな目に合わなきゃいけないの? 何で誰も私の異変に気付いてくれないの? 何で……誰も助けてくれないの!?)
「あ」
少年はゆっくりとした動作で空を見上げた。
ズドンッ
「ひっ」
ハルのすぐ右隣に、大きな何かが落ちた。
おぞましい光景を想像してしまい、彼女は少年の方を向いたまま固まった。
慣れた筈の嫌な視線が纏わりつく。
少年は無表情のまま、ただじっと地面を見つめていた。
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