2、見られる

 ハルは帰りのHRが終わるとすぐに教室を去った。

気分は最悪としか言い様がない。


 気を使った数名の生徒がハルに別れの挨拶をしてくれたが、彼女は曖昧に会釈を返すだけで精一杯だった。

これでは明日からは挨拶すらされないかもしれない。


(なんで上手く話せないんだろう)


自己嫌悪と不安で胸が痛んだものの、すぐに彼女の意識は他に移る。


(さっき落ちた人、大丈夫かな……)


 とても大丈夫とは思えない高さだったが、最悪の考えを振り払う。

彼女の足は自然と人影が落下したマンション方面へと向かっていた。


(多分あの辺、かな?)


 知らない道だったが、件のマンションは茶色いレンガ調で割りと目立つ建物だった。

ハルはこの辺で最も背の高い建物を方角の頼りにしながら歩みを進める。


 この近辺は似たような戸建て住宅やアパートが建ち並び、どこも比較的新しい。

世与市は十年ほど前に三つの町が合併して大きくなった区域である。

勿論合併だけが理由では無いが、この近辺はここ数年で一気に住宅地として栄えた場所だった。


 ある程度迷う覚悟でいたハルだったが、十分程で件のマンションを見つける事が出来た。

茶色い壁のその建物は七階建てで、周りと比べてみても大きくて新しい。

入居者を募るのぼりが弱々しくはためいている。

玄関口の横にはマンションのシンボルと思われる、二メートル程の常緑樹が一本立っていた。


「あ、あれ?」


 予想外の静けさだ。

現場は騒然となっていると思い込んでいた彼女は首を傾げる。


(何も、ない……)


 「何か」が落ちていてもそれはそれで困るが、マンション前の道路には人が落ちたような形跡は何も無かった。

念の為にマンションの裏側も確認するが、やはり異常は見当たらない。


 場所を間違えたのかとも考えたが、すぐにその可能性を否定する。


(確かにここだった。この屋上から、人が……)


 ハルは腑に落ちない顔で常緑樹の横に立つ。

マンション前の道路は広めの一方通行で見晴らしが良い。

時間帯のせいか人通りは無く、たまに彼女の横を車が通る位だ。


(……もう良いや。きっと落ちた人なんて、最初から居なかったんだ)


 慣れない環境によるストレスが見せた幻覚だろうと無理やり自分を納得させる。

趣味の悪い幻覚を見たものだと彼女は小さなため息を吐いた。


 ズドンッ


「ひゃっ!?」


 背後に響いたもの凄い衝撃音に、ハルは体ごとはね上がった。

咄嗟に振り返るが異変は何も無い。

ひと気の少ない道が続いているだけだ。


(な、何? 今のすごい音。まるで重たい物が落ちたような……)


 何の変哲もないこの場所が、急に不気味に感じてくる。

彼女の呼吸は自然と荒くなっていた。


(帰ろう……! 今、すぐに!)


 スクールバッグを握りしめ、足を踏み出す。

無意識の内に何かを感じたのか、ハルはふと頭上を見上げてしまった。


(──え、)


 そこには満面の笑みを浮かべた男の顔が視界いっぱいに迫っていた。


「きゃあぁっ」


 理解より先に身体が動く。

頭を庇いながら尻もちをついた彼女は来る筈の衝撃に凍りついた。

しかし何かが起きた気配も、衝撃音もない。


 ゆっくりと目を開く。

しかし、彼女の周りには相変わらずの風景が広がっているだけだった。


(今、今、人が! 男の人が頭の上に……!)


 涙目になりながら地を這うように立ち上がる。

外聞など気にしている余裕は無い。


(逃げなきゃ、ヤバい!)


 教室から見えた光景が可愛く思える程の衝撃に、彼女は夢中で足を動かす。

自身に向かって真っ直ぐ落ちてきた中年男性の顔が頭から離れない。


(怖い怖い怖い! 気持ち悪いっ!)


 男の顔を見たのは一瞬であったが、嫌に生々しいものだった。


 白髪混じりの短髪と無精髭。

痩せこけた頬骨。

青白い顔にギラギラと血走った奥二重の目。

歯並びの悪い少し黄ばんだ歯。

そして実に嬉しそうな、満面の笑顔。


 何より恐ろしかったのは自分の存在をあの男に認識されているという事だ。

教室の時も、先程も、彼は真っ直ぐにハルを見つめていた。


 マンションから十メートル程離れた辺りで再び「ドンッ」という音が響いたが、彼女には振り返る勇気など無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る