黄昏の星

千葉ヒロト

第1話

黄昏の星

 千葉ヒロト


 流石に早く来すぎた。駅を降りた先にある偉人の銅像の下で、僕は携帯に映し出されたデジタル時計を見て思った。彼女と待ち合わせたのは四時。携帯を弄りながら数十分の時間を潰していたが、まだ待ち合わせの時間まで十分もあった。

 彼女と会うことに、僕は多少なりとも嬉しさを感じていた。高校を卒業して八年。突然「久しぶり。突然だけど会って話がしたいんだけど」と綾乃ちゃんからメールが来た時は驚かざるを得なかった。

「明宏くん」

真後ろから聞き馴染みのあった声と共に、ツンツン背中を突かれた。見ずとも分かった。綾乃ちゃんだ。

「久しぶり、待った?」

振り返ると、僕は少しだけ言葉を忘れた。高校時代にトレードマークだった彼女のポニーテールはショートヘアに、眼鏡はコンタクトになっていた。うっすらとメイクもしているのか、顔だけでも見違えていた。セーラー服がブラウスに、スカートの色が深くなって丈が長くなっただけなのに、それだけでも、記憶に類のない彼女の情報が新鮮だった。時が経っていることを含めても、だ。

「いや、待ってないよ」

だが、思考がそう上手く言葉として出て来るはずがない。彼女の言葉に常套句を返すだけで精一杯だった。

「そう、それなら良かった」

彼女は特に気にする様子もない。そういうところは変わらない。

「そうだ、話するんだった。近くのファミレスでお茶でも飲みながら話そう」

僕の返事を待つことなく、彼女は歩き出した。


 ファミリーレストランについても、彼女は肝心の「話」に触れる様子はない。ついて間も無く二人共注文を済ますと、「久しぶりだよねぇ」から始まり、思い出話や自分、又は当時のクラスメイトの近況を話し話されの連続だった。特に不平がある訳ではない。ただ、痒いところに手が届かないもどかしさというか、気にしてしまうから気になってしまう心地悪さが離れないのだ。

「あ、でも成人式の時に会ったよね」

「そうだね。それももう六年前だけど」

僕が話している間に、ウェイターがコーヒーを運んできた。カップを覗き込むと、真っ黒い液体の表面に、揺れる僕の姿が映り込んだ。

「もう六年も経ったのかあ」

彼女はしみじみとカップを眺めてぼやくように言った。

「なんだか不思議だね。昔は約束なんてしなくても毎日のように会ってたのに」

「……そうだね」

学年が進むにつれて、いつからか彼女と話す機会は減っていった。特に三年生になってからはめっきりと減っていた。確かに、両者が受験を控えていたこともある。だが、一番の理由はそこではない。

「そうだ、凄いニュースがあるんだよ!」

綾乃ちゃんは何かを思い出したらしい。明るく弾んだ声で言った。声から察するに、暗い話ではないだろう。

「私ね、結婚するの」

今、目前で起きた衝撃と、長年押さえつけていた沈静が僕の頭の中でスパークした。

「……裕翔と?」

出てくる言葉を繕えない。

「うん」

短く返事をした彼女は、僕を不思議なものを見るように見つめていた。「知ってたんだ」と目が言っていた。

「……おめでとう」

不自然を埋めるように、自然な言葉を造った。

「全然驚いてないね」

彼女は自身が呆れていることすらおかしく感じたのか微笑んだ。「ごめん」と反射的に僕の口が動く。

「もうちょっと驚いてくれていいじゃん。両親以外にはまだ誰にも言ってないトップニュースなんだよ」

「いや、あまりにも驚きすぎて……言葉がね、出てこなかった」

愛想笑いを浮かべながら、僕は建前を話した。

「驚いてくれたらなら良いけど」

 綾乃ちゃんはわざとらしく頬を膨らませた。

「そうか、結婚するのか」

僕は事実を確かめるため、繰り返すように呟い呟く。耳の奥で彼女の告白と僕の確認が静かにこだました。僕は諧謔だろうという馬鹿げた思考をを流すようにコーヒーを飲んだ。

 裕翔と彼女が付き合っていたことを思い出したのではない。知っていたのだ。ずっと。



夕日が綺麗な日だった。霧よりもはっきりとした光が空を鉛筆で塗ったような穏やかな色で染めていた。沈みかかった夕焼けを見ていると、何とも不思議な気分になった。雲の端のように、心の端を焦がすようなセンチメンタルな感覚。夜の色が世界を覆う中で薄っすらと明るいノスタルジックな感覚。夕空が鮮やかな橙色に染まるほど、胸懐するものは深さを増す。

 車の通りも少ない細い道に足音が二つ響く。僕は高校の帰り道を友人である裕翔と歩いていた。

「なあ明宏」

いつもよりほんの少し低い裕翔の声が僕の意識を傾かせた。

「綾乃ちゃんって良い奴だよな」

僕は心に細い針をぷすりと刺されたような驚きを感じた。綾乃ちゃんというのは、少し波の立った長い黒髪のポニーテールが似合う僕らの同級生だ。

「ああ」

僕は頷く代わりに短く相槌を打った。僕と裕翔は小学校から高校まで全て同じで、住んでいる地域も近い。だから互いの気心は知れ渡った仲だった。それ故に登下校を共に行動するのは珍しい話ではない。僕は長い慣習の中でも、今日ほど夕暮れの帰路が闇夜よりも暗く見えた日はなかった。

「お前、綾乃ちゃんと仲良いよな」

裕翔は相手に構わず気を遣う美徳があった。だが、彼には他者から向けられた感情に疎い悪癖もあった。僕から言わせて貰えば綾乃ちゃんと仲が良さそうなのは裕翔の方に見える。だが、そう言えば彼もまた謙遜とともに言い返すだろう。彼が言うなら僕も言う。互いに遠慮という意地を張り合ったところで待っているのは水掛け論だった。だから僕は「そうかな」と言葉を濁した。

 裕翔のことで一つ、僕だけが知っていることがある。裕翔には好きな人がいる。その相手は綾乃ちゃんだった。先程も下の名前を呼ぶだけだというのに、裕翔の声は気恥ずかしさを隠せていない。(それにも関わらず、周囲に事態が知られていないことは奇跡に等しい。)綾乃ちゃんは数字の二のような配慮と親しみやすさを持ち合わせた子だった。僕と裕翔はその彼女の聡明さに心を奪われたのである。そう、僕と裕翔。僕だけが知っていること。裕翔が好意を抱いている人は僕の意中の人でもある。

 彼が綾乃ちゃんに好意を抱いていると分かったのはつい最近のことではない。

 裕翔は感情が態度に現れやすいというか、行為が好意を顕著にしているのだ。例えば僕が彼女と共にいれば、裕翔は大抵は隣にいようとするし、僕と綾乃ちゃんが話してていたら、僕の話に入るフリをしてアニメの悪役のように彼女をさらうのだ。

 分かっている。僕と裕翔は友達だ。長い間一緒にいて、沢山遊んだし、沢山喧嘩もした。親に話したことがないような悩みだって彼に打ち明けたことだってあった。だから、家族のような存在なのだ。その彼の好きな人。それが僕の好きな人。僕は少し長めに息を吐いた。いざその課題を目の前に置いてしまうと、壁のように聳え立つ難題に頭を悩ませざるを得ない。


 しかし、僕は何もわかってはいなかった。聡明な自分が勝手に思い込んで作り描いた相関図はガラスよりも惨めに割れ去った。

 次の日の帰り道に、裕翔と綾乃ちゃんは帰路をゆっくりと、時を慈しむように、見せびらかすように、夕日の沈む方角へ歩んでいたのだ。

 重苦しい空気とよく言うが、まさか帰路の空気が固まり、詰まり、胸を苦しくさせるとは思いもしなかった。

「そんなことで大丈夫なのかよ」

「大丈夫だよ、裕翔君は心配しすぎ」

彼らの背中から漏れる言葉が耳に残ることをやめない。照れ臭さを隠しきれない二人の睦言。教室にいる時よりも楽しそうに話す綾乃ちゃんの明るい声。

 まず初めに飛び込んできたのは衝撃。目の前で数千の風船が破裂したような衝撃だった。遅れて来たのは困惑。周囲を絶壁で囲まれたような圧倒的な困惑だった。僕は親友への憧憬と彼女への恋心を抑え込むことが正しいと思っていた。だが、僕は重要な当然を忘れていた。自制心というのは限界があり、抱え込むものを無理矢理押さえつけてしまえば反発してしまうのだ。堰を切ったように流れる濁流がじわじわと心を汚く染めて行く。

「ズルい」と、まず先に裕翔に対して思った。綾乃ちゃんと会ったのは僕の方が先なのに。後から好きになったくせに。僕の方が彼女のことを考えているのに。「なんで」と、次に彼女に思った。自制心という蓋を打ち破ってしまえば、押し込んだものが溢れ出すことは当たり前で容易なことだった。

 もう一度、彼らを見た。裕翔の隣には僕ではなく、綾乃ちゃんがいる。綾乃ちゃんの隣には僕ではなく、裕翔がいる。二人のことは誰よりも知っている自信がある。裕翔のことは友人として時に誇らしいほど良い奴だ。綾乃ちゃんのことは誰よりも愛してるという自信もある。だが、最も親しい友人と最も愛しい少女が、最も楽しそうな表情を浮かべている姿を見て、僕は何も言うことも、二人の仲を引き裂く度胸もなかった。あの場所には、いられない。あの楽園に、きっと僕はいらないのだ。誑かされたような心地悪さが、砂を噛んだ時みたく心の表面を覆い尽くして固まって行く。

 僕は今更になって気付いた。先程、自身が抱いた憎悪に近しい心の染みが毒のように姿を変えたのだ。

 彼が憎い。奪われた。彼女が憎い。奪われた。彼が憎い。僕の気を知らないで。彼女が憎い。僕の気を知らないで。彼が居なければ、綾乃ちゃんは僕のものだったかもしれないのに。彼女が居なければ僕が裕翔と共にいることに悩むことなどないのに。

 嫌悪、憎悪、嫉妬、嫉妬。それらに身体が染まるのに時間はそう要さなかった。これが僕の心の底に押し込めていた気持ちなのだろうか。これが僕の本当に言いたかった言葉なのだろうか。裕翔ならまだしも綾乃ちゃんにまで。いや、裕翔にもその感情を持っていたのだろうか。僕はずっと。彼は何もしていないのに。彼女は何もしていないのに。現状を超えるために、僕は何もしていないのに。

 何かがおかしいことに僕は気付いた。何かは明確にはわからない。だが、数秒前の僕の根底に築かれていた心の城の形にどうも疑問が出てしまう。誰も、何もしていない。なのに、やれ嫌悪や憎悪に身を焦がされる。それはおかしいことなのではなかろうか。誑かされた。そう思っているのは、僕だけだろう。

 僕はここに居ることが急に恥ずかしく思えた。全てが全て支離滅裂。その支離滅裂な思考が数分のうちに何度も裏返ることに脳と身体がついていけなくなったのだ。僕は前を歩く綾乃ちゃんと裕翔に声をかけることができなかった。それどころか二人が視界に入ることすら息苦しい。

 何もしていなければ、何もできてきていなかった僕はこの苦しみを耐える術を知らなかった。僕は何に苦しんでいるのか。その実態すら分からない。狂乱に身体を任せ、叫び倒したい衝動が心身から溢れ出る。だが、誰しもが秘めているであろう狂気の先へ安易に踏み込める程、僕の心臓は強くなかった。

(弱いな、僕は)

僕は衝動を飲み込み、目の前に映る彼らの奥に広がる夕焼けをじっと見つめていた。雲の端がスチールウールのように燃えている。僕は雲の灯火に目を橙色に染めていた。黄昏の時を迎えてもなお、彼らの笑みは快さそうに見えた。裕翔にこれ以上側にいたとしても、僕の平静を保てる自信がなかった。もう、会うことはやめよう。心に決めた。

 夜に染まり、燃え尽きた雲は綿埃のように空の上に舞っている。耳の奥まで伝播する彼らの笑い声が止まない。

「まだ、好きでごめん」

僕は誰かに言っているのか分からない言葉を空気の中に溶かすように呟いた。


 *


飲み込んだブラックコーヒーの苦味が、頭の奥底に隠していた思い出を掻き出した。砂糖かミルクを入れた方が幾許かマイルドになったのだろうか。

「そうだ、そういえば私、明宏君に聞きたいことがあったんだった」

彼女は何かを思い出したらしく、カップを掴んだ手を止めた。

「へえ、何?」

僕は流すように相槌を打つと、彼女は少し逡巡したのちに口を開く。

「明宏君ってさ、私に気あった?」

僕はちくりと指先に棘が刺さったような痛みが心を駆ける。

「……いや、なかったよ」

沈黙が僕の代わりに答えることを防ぐために、答えなければと頭の中て一番に浮かんだ。

「そうなんだ。なら良かった」

良かった。僕はその言葉の意味がよく分からなかった。好意を寄せられてなくて良かったのか、彼女の勘違いだったことが嬉しかったのか。考察を見えない正解に入れ込もうとも、当てはまるものはなかった。どれも当てはまって欲しくなかった。

 綾乃ちゃんと裕翔が付き合ってる姿に嫉妬していた。

 喉元まで競り上げる言葉を流し込むように、僕はコーヒーを多めに飲んだ。

 親友と想いを寄せる人を同時に奪われたような気がした。

 他の言葉がまだ絡みついているから、もう一口。

「そんな風に見えた?」

ようやく言える言葉が出てきた。僕は腕を組んで、過去を顧みるフリを見せた。わざとらしくないだろうか。焦りは祈りを強くさせた。

「裕翔君がね、言ってたの」

「へえ、なんて?」

「明宏は私のこと好きかもしれないって、高校の付き合ってる時に」

昔の話だから、何度か今日、想いを伝えようと思った。言わなければ身体の奥底でグルグルと蠢いた感情が永遠に留まってしまいそうな気がしたから。それと同時に、今更だから想いを伝えようとも思わなかった。伝えてしまえば僕の気持ちが恋であったことが画一化してしまうから。

「裕翔の思い違いじゃないかな?」

質問を質問で返すのは肯定しているようにも思えた。だが、伝えなければ彼女を混乱させることもない。僕は自分にそう言い聞かせて合理化させた。

「本当に?」

「うん」

炭酸が抜けたソーダのように気の抜けた言葉が口から溢れた。

 そこから先は、何を話したのかはあまり覚えていない。どうやってボロが出ないように話し通すか。それにばかりに気を遣っていたからだ。ただ一つ言えることは、ずっと緊張していたのだろう。隠し通さねばと心底から思っていたのだろう。店を出る頃には、手のひらが汗ばんでいた。


「今日はありがとう」

結局、そこから先は取り止めのない思い出話と互いの今の話を少し交わしてお終いだった。

 僕には大切にしている想いがある。宝物のように心の奥底にしまっている、大切な想いが。

「まだ、好きでごめん」

僕は最後に言いたい言葉すら、心の奥底にしまった。きっともう、全て取り出すことはないだろう。

「バイバイ、綾乃ちゃん」

恐らく永遠に。心の中で言い足した。

「うん。じゃあね、明宏君」

彼女は手を振って帰り道へと進んで行った。駅で裕翔が待っているらしく、僕はその空間に居合わせようと思えるほど精神的なゆとりはない。むしろ、二人の揃った空間の居た堪れなさに身が焦がれてしまいそうな気がして、近寄ろうとは思えなかった。

 別れて数秒。振り向けば彼女は多くの人の中に埋もれていた。

 きっと僕はこれから何年生きようとも、このことを忘れないだろう。叶ったことよりも、叶わなかったことが多かったこの想いと、それを取り巻く思い出も。

 正面に広がる藍色の空は西へ西へと夕焼けを蝕んでいる。僕は闇の尾を追いかけるように、真反対に振り返って歩き出した。

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黄昏の星 千葉ヒロト @Hakase1610

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