第8話 夢への入り口
翌日、目覚めは悪くなかったが、今日からまた新たな試練が始まるのかという期待と不安が入り交じり朝から少々吐き気がした。朝食もそこそこに、いつもより少し早めに家を出た。店に着くと店長がのんびり仕事をしている。
『おはようございます。』
『おはよう。今日はやけに早いね。』
そんなやりとりの後、私は店の中の清掃の状態をいつもより念入りに、しかもスピーディーに行った。店内のテーブルや椅子の並び具合、ゴミ箱の中のゴミ、トイレの清掃、ガラスについた指紋たった一つでも見落とすと今日の『特殊技能』の習得がまた遅れてしまう、そんな気持ちで素早くチェックしていった。毎日清掃することがスタッフ間にも定着してきたようで、店はとてもきれいな状態が保たれている。しかも出勤すると毎日その一連の行動を行うのでもう体が覚えているのだ。
『よしっ、完了』
店内のチェックを終え、時計を見る。なかなか手際よくなったと自分で思った。齋藤さんが出勤する時間まではあと30分ある。少しだけ気持ちに余裕のできた私は、休憩室に入り一服することにした。これまでであれば、なにも考えずに椅子に座ってたばこを吸っていたが、もう今はそれすらも変わった。休憩室の壁や換気扇は長年のヤニ汚れがキレイに清掃され、いつも灰と吸い殻でいっぱいだった灰皿は今では灰がたまっているところを見たことがないほどに、定期的にスタッフ自身で掃除し、キレイに洗っているため、キラキラ光っている。特に朝一は、汚すのをためらうほどだ。
そんな事を考えながら換気扇の下で、ゆっくりたばこを1本吸った。気持ちが随分落ち着いた。灰皿の灰を片付け、テーブルをキレイに拭く。これも当たり前かもしれないが、ようやくスタッフ達の習慣となった。
いつもと同じ時間、齋藤さんはやってきた。昨夜の上機嫌な様子が嘘のように今日は暗い顔をしている。
『おはようございます!』
私がいつものように大きな声で挨拶をすると、齋藤さんは
『おぅ。』
とこれまたいつも通りの返事をする。しかし、今日はやはり機嫌が悪い時のトーンだ。理由は推測できる、なぜなら・・・
前にも書いたが、齋藤さんはシフト制では無いため、帰る時間も一定ではない。ある程度仕事が片付くと休憩室で荷物をまとめながら一服する。そして休憩室を出ると、
『なら、後は頼んだぞ』
と一言スタッフに声を掛けて店を出る。だが駐車場には行かず、店の目の前にあるコンビニに行くのだ。律儀に横断歩道を渡り、気付いて停車してくれた車がいれば、笑顔で軽く会釈する。その後コンビニで買い物をしてから帰るのだ。齋藤さん自身のルーティンなのか、いつも買う物は決まっている。タバコ1箱と缶ビールだ。重要なのはここから。缶ビールが2本なのか3本なのかということだ。通常2本の日が多く、その次の日は機嫌が良いとは言えないが、表情は明るい事が多い。しかし、その缶ビールが3本だった場合、次の日は必ずと言っていいほど機嫌が悪い。おそらく齋藤さんにとっての適量は缶ビール2本なので、1本多く飲んだ日は寝起きが悪いのでは無いかと私は推測していた。 -そして昨夜は3本だった。
(やっぱりか・・・)
私が齋藤さんの返事を聞き一人でそんなことを考えていると、
『よし、今日から本格的に始めるか。北村!俺の車を持ってきてくれ!』
齋藤さんは急にはつらつとした表情でそう言うと、車のキーを渡しに向かって投げた。
私が車を取って戻ると、斎藤さんが店の中で一番奥のレーンに誘導した。私は誘導されるがままに車を停め、車を降りた。すると斎藤さんが口を開いた。
『では、これからいよいよスタンドマンとしての仕事の仕方を教えていきます。』
『はい。』
みな期待と不安の入り混じった表情で返事をする。
『まずは、スタンドマンとしての基本ですね。お客様の車を誘導し、停車させる。給油の注文を聞き、給油する。窓ふきをし給油を終える。清算してお客様を送り出す。という通常の仕事の流れです。これをやります。』
全員がぽかんとしていると副店長が声を出した。
『それだけですか。それじゃあ、売り上げ上がらないですよね。』
やはり副店長は相変わらず斎藤さんのやり方に納得いっていないようだ。さすがにその口調にはその場の空気がピンと張り詰めた。
『ふぅ。』
斎藤さんはうつむいてゆっくり息を吐くと、鋭い目つきでスタッフ全員を見渡した。
『その通りです。それだけでは売り上げなんてあがりません。』
意外な答えだった。副店長も予想外の答えに返す言葉がないようだ。
『それでは売り上げは上がらない・・・だからこそやる意味があります。ガソリンスタンドは昔から、サービス業の中では下に見られている業種です。ホテルマンや高級レストランの店員と同じようにお客様にサービスを提供しているのに。なぜなのか。これまでのスタンドマンは基本的な接客の“質”は意識せずに、どうやって売り上げ目標を達成するかだけを考えてきたからです。どんどん洗車やオイル交換を勧めて売り上げをあげよう、みたいなことしかしてこなかった。現に今もほとんどのスタンドマンがそうです。』
なんだか、いちいち胸が痛かった。まさにこの店のやっていたことそのものだし、お客さんの対応を振り返ってもその通りだった。
『だからこそ、接客そのものの“質”を上げることで他の店と差をつけることができれば、おのずと売り上げは上がります、必ず。“モノ”を勧めるのはその後です。そのためのベースとなるのがきれいな店です。みんなの頑張りでベースはだいぶ出来てきましたので。次は接客の“質”です。いいですか?』
『はい!』
スタッフはみな話に聞き入っていた。そんなこと正直考えたこともなかっただろう。私自身も完全に図星だった。ホテルマンと同じレベルの接客・・・あまり想像はつかなかったが、確かにそう考えただけでもスタンドマンという仕事が誇らしく思えたのと同時に多少の不安が込み上げた。
『では、とりあえず一人ずつやっていきます・・・北村!お前から行くか?』
『はっ、ハイ!』
正直なところ、とりあえず誰かがやるところを見てから・・・なんて卑怯な考えを見透かされたかのようだった。
『お客さんが入ってきて誘導するところから一通りやってみろ』
斎藤さんはそう言うと、停めてある自分の車の横に立ち腕を組んでこちらを見た。とてつもないプレッシャーだったが、なんとか平常心を保とうとした。言っても、1年間は自分なりに他のスタッフに負けないように努力したつもりだ。少しはできると思わせてやるぞ、そうやって自分を奮い立たせ、
『いらっしゃいませー』
精一杯の声と笑顔で言った。
『こちらどうぞ―。オーライ、オーライ。はい、OKでーす』
いつも通り流れで誘導し、接客に入ろうとしたその時。
『はい。ダメ』
斎藤さんが制した。
『えっ、まだなにも・・』
私は驚いてつい言葉が出てしまった。これからが接客というところだし、いらっしゃいませの練習はずっとやってきたので間違ってないはずだ。だとしたら何だ、何が悪かったんだ。恥ずかしさもあり、私は焦って自問自答していた。そんな私を見て、斎藤さんはいつもと変わらない厳しい表情で言った。
『“OKです”って、お客さんは友達か?』
―そこからか・・・。夢への道のりは険しそうだ。
スタンドマン 三糸 理一 @k-24
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