第7話 職業病、いや特殊技能だ

 2週間、3週間と時は流れた。今だに店にはピリピリした空気が漂っているのだが、私たちスタッフが取り組んでいるのは売上を上げることよりも専ら店の掃除と整理整頓、そして模様替えだ。それ以外に関しては、齋藤さんからの指示はない。これまで、たまにスタッフを集めて指示を出してきた店長、副店長は、齋藤さんの登場以来ほとんどスタッフに指示を出すことは無くなった。特に副店長に関しては以前の様な元気も無く、ただただ惰性で仕事を続けているといった感じだ。笑顔もない。しかし、今の現状では、スタッフそれぞれが自分がやるべきことで精一杯、他のスタッフを気遣う余裕は皆無だった。


 今日も齋藤さんはいつもの時間に現れた。

『おはようございます。』

『・・・おぅ。』

これもいつもと変わらない流れだ。この瞬間から、齋藤さんが退社するまでの時間、店の雰囲気は張り詰める。

『おい、北村!』

『は、はい。』

いつもなら、そのまま休憩室に入る齋藤さんが、今日はその前で立ち止まった。そして、清々しい表情で店を見渡した。とても満足気だ。

『なんだか、見違えるようにきれいになってきたな。』

『そうですね・・最初よりはだいぶ・・・ですね。』

私自身、もちろんスタッフみんなが元の店に比べて“超”がつくほどきれいになった事を実感しているだろう。これまで貴重な休憩時間も削り、残業をしてまで掃除に取り組んでいるのだから、そろそろ多少なりとも認めて欲しいと全員が思っていることは重々分かっていた。しかし、調子に乗るなと一喝されそうだったので自然に控えめになっている自分がいた。

『まぁ、まだまだだけど、最初に比べればお客さんを呼べる店にはなったな・・・そろそろ本気出して “立て直し” 始めるか!』

珍しく朝から大きな声を出した斎藤さんに少し驚いた。スタッフには複雑な気持ちが渦巻いていただろう。ようやく少し認めてもらえたうれしさと、それに勝るとも劣らない、これからが“本気の立て直し”なのかぁという底知れぬ不安だ。


 そんな時、斎藤さんの携帯が鳴った。どうやら電話の相手はオーナーのようだ。手短に電話を終えると、斎藤さんは手招きをして私を呼んだ。もちろんダッシュで行かないとまた怒号が飛ぶ。

『俺、今日はオーナーと外出になったから。しっかりやっててくれ。明日から本格的に“立て直し”やるからな、気合入れとけよ。』

『はい。わかりました。』

この時ばかりは、オーナーに感謝した。明日からまたさらに厳しい戦いが続くと思うと気が重かったので、今日ばかりは少し、気持ちを休ませてもらおうと正直思った。自分を正当化するつもりはないが、みなきっと本心ではそう思ったはずだ。しばらくするとオーナーが迎えに来て二人は仲よさげに店を出て行った。その瞬間みなの表情が少し緩むのが分かった。しかし、私自身例外ではなかったので、今日だけはみんなで心を休めようと思った。


 その日、私は遅番で閉店までの勤務だった。もちろん1日忙しかったので疲れたのだが、日頃の疲れとは明らかに違っていた。ちょうど閉店まで1時間ほどになり、通常であれば2人のスタッフで閉店までの時間は勤務するのだが、副店長が急用だということで、残り1時間弱は一人で勤務することになった。まぁ閉店前の1時間はお客さんも少なく、仕事量としては1人で事足りてしまうのが現状だ。その日もお客さんはほとんど来なかったので、自分のペースで片づけを進めていた時だった。1台の見慣れた車が入ってきた。・・・ん、オーナーの車だ。

『おつかれー』

オーナーの車から斎藤さんが降りてきた。どうやら機嫌はいいらしい。

『お疲れ様です。』

『おぅ、頑張ってんな。明日からまた気合入れていかないとな。』

『わかりました。』

いつもの仕事中の斎藤さんとは雰囲気が違う。担当者が話していたことが頭に浮かんだ。斎藤さんは仕事のために“鬼”になっているのだと。

 すると斎藤さんが突然、にこやかな表情のまま言葉を発した。

『カローラ』

『えっ・・・カローラ・・・』

私は突然に意味不明な言葉に動揺して、返事に困った。斎藤さんは店の目の前を走る道路を見つめたままだ。

『鈍いなぁ、“左” だろ “左”。』

何言ってんだこの人は、と思っていたが、不意にひらめいた。そんな遊びしてる大人をあまり見たことないので、まだまだ不安もあったがスタンドマンであるところを少しはアピールするチャンスだと思ったのだ。

『レガシー』

斎藤さんは同じように車の名前を言った。これは賭けだった。

『右です。』

正解なのか、それとも全く違うのか。答えを求めるように斎藤さんの顔を伺う。

『・・・ほぉ、ならタント』

『左です。』

どうやら間違ってはいなかったようだ。ホッとしてついつい笑ってしまった。斎藤さんも私が思い通りの答えを返したのでうれしかったのかニヤリとしながら、まだ時折車が通る道路の方を見つめている。

 “スタンドマンあるある”なのかも知れないが、車種ごとにガソリンの『給油口』が左右どちらにあるかを自然に覚えてしまうのだ。お店に入って来た車の『給油口』を見て確認してから誘導しているようでは、まだまだだということかもしれない。私も元々車好きではあったが、この店だ働き始めてからの約1年でほぼ頭に入っていた。

『ジムニー』

『右です。』

『ヴォクシー』

『左です。』

『エクストレイル』

『初代は左、それ以降は右です。』

斎藤さんは、ほぉ~という表情でこちらを見ている。なんだか楽しそうだ。

『ポルシェ カレラ』

『右前です。』

『1年でよく覚えてんな。職業病か。』

『そうですね、特殊技能みたいなもんですかね。』

『いい風に言うな。まぁ明日からビシビシ本当の特殊技能は教えてやるから、今日は帰ったら早く寝とけよ。じゃあ俺は先帰るな。お疲れ。』

『お、お疲れさまでした。』

 斎藤さんはいつになく柔らかい表情で、うれしそうに帰っていった。これまでの斎藤さんのイメージが大きく変わった10分間だった。私もつい最近『日本一のスタンドマン』になるという目標を掲げたところだが、斎藤さんもやはり“超一流”のスタンドマンを目指して来たのだろう。なんだか通じる部分を感じてしまったのだ。

 

 これからの本当の戦いに向けて少し明るい兆しが見えたような気がした。その日の帰り道、私は自然に、すれ違う車の給油口の位置を呟きながら思い出し笑いを必死にこらえていた。


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