第5話 基本中の基本

 ガソリンスタンドではいろんな業者さんの出入りもあり、他店の情報などはこの共通した業者さんから入ってくることが多い。例えば、タイヤメーカーや洗車機メーカーの営業マン、そしてオイルやその他の商品を扱う部品メーカーやカーディーラーの営業マンなどだ。この人たちはいろんな近隣のガソリンスタンドに頻繁に出入りをするため嫌でも情報が入ってくるし、それを知っているガソリンスタンドのスタッフ達は、商品を仕入れる“見返り”的な雰囲気で彼らから情報を仕入れるのだ。もちろん私のいた店にもたくさんの業者が出入りしていた。ほとんどは時間つぶしのように店長が率先して対応をするので、私はあまり関わってはいなかった。


 しかし斎藤さんが来て2日目。今では恒例となった“声出し”を行っているときに、ある部品メーカーの担当者がやってきた。いつもは店に来ると在庫をチェックし、店長と話しをし、さらっと帰っていく、特に愛想がいいわけでも、よく話すという印象もない担当者だった。その日も同じように流れ作業をこなして帰ろうとする担当者の前に、斎藤さんがトイレを済ませてすっきりしたような表情で現れた。

『あっ、斎藤さんじゃないですか!』

担当者はこれまで聞いたこともないような明るい声を出した。そんなに明るい表情も初めて見るものだった。

『おぅ、久しぶりだな。相変わらず儲かってそうだな。』

『いやいや、そんなことないですよ。それよりいつからこの店なんですか?』

『昨日からだな。これから立て直すとこだから、よろしくな。』

『こちらこそ、よろしくお願いします。』

担当者があんなに流暢に楽しそうに話すところを見たことがなかったので、その変わり様に驚かされた部分も確かにあったが、そうさせた斎藤さんという人物の力を見せつけられたような気がした。部品メーカーにとっては、たくさん部品を販売し、仕入れてくれるお店こそ大切なのだ。もちろん店ごとに販売数が多い少ないなんてすぐにわかる。だからこそ売り上げを上げている店に対しては必然的に担当者の対応もよくなる。まさに、斎藤さんに対する、担当者の対応はそれだった。たった30秒ほどのやり取りだけで、この斎藤さんという人物が前の店で相当な売り上げと影響力をもっていたのかがはっきりとわかった。

(この人やっぱりすごい人なんだ、きっと。)

私は独り言のようにつぶやいた。自分がまだまだ未熟だと改めて感じさせられた。


 

そうして、斎藤さんがやってきて10日が過ぎたころだった。ようやく私たちに“声出し”以外の指示が出されたのは。それまで、斎藤さんがスタッフに対して指示をしたのは、大きな声で、笑顔で『いらっしゃいませー』と声を出す練習をしなさいということだけだった。接客や洗車等の作業の方法などには全くなにも言われていなかった。それをみな心の中では、なんだか不自然に感じていただろう。


『じゃあ、1回みんな集まってください。』

お客さんの途切れたタイミングを見て、斎藤さんがスタッフを集めた。

『みなさん、笑顔と『いらっしゃいませ』はだいぶ出来てきましたね。あまりに出来が悪かったので、一度に言っても無駄だと思ったんで言いませんでしたが・・・』

相変わらず口が悪いというか、嫌味が強い。みなそう思ったはずだ。

『この時間もずっと赤字経営は1日1日続いているわけですから、あまりゆったりもしていられません。なので、今日から本格的に店を立て直すための次のステップに進みたいと思います。』

ようやくスタンドマンらしいことが教えてもらえるのかと若干ワクワクした。いらっしゃいませーと叫ぶだけではさすがに楽しくない。できることなら、お客さんとたくさん接して、売り上げをあげたい。私は、いつしか自分の中で“日本一のスタンドマンになる”という夢のような目標を本当に実現したいと思うようになり、以前に比べると何に対しても前向きに捉えられるようになっていた。まぁ、スタッフ全員が同じような気持ちでいるわけでは無さそうだった。それは誰が見ても明らかだった。


 斎藤さんはスタッフの表情を一周ぐるっと見渡して言った。

『では、今日から行うことは、店の掃除と片づけです。』

みな、無言だった。何が起こったのかわからないような顔でみな黙っている。冗談だろと思いたいが、斎藤さんはいつもの本気の時の顔をしている。

『この店は汚過ぎます。整理整頓ができてません。店をきれいする、整理整頓する。この2つは基本中の基本ですが、この店は全くできてません。0点です。今は。なので、今日から、それぞれに担当区域を言いますので、私の指示に従って片づけと掃除を行って店をきれいにしてください。それが出来て準備が整ったら、実践的な業務に入っていきましょう。質問はありますか?』

 すると、副店長が口を開いた。

『みんなで掃除したら、誰が接客するんですか?』

だれが聞いても、明らかに反抗的な態度と口調である。斎藤さんは呆れたような顔で、ふっと一息ついて

『お前バカか。お客さんがいない時間にやるに決まってるだろ。普段スタッフ同士で世間話してる時間が1日何回もあるだろ。お客さんがいない時間でも給料は発生してるんだ。お客さんがいなくても、ちゃんと仕事はするのが当たり前だろ。・・・じゃあ、担当区域を発表します。 副店長・・・』

誰も何も言い返せなかった。口は悪いが斎藤さんは間違ったことは何も言ってないからだ。正論だった。

 

 その日から毎日、店の片づけと掃除を徹底的に行う日が続いた。斎藤さんは1日に何度か店のあらゆるところを回り、仕上がりをチェックしている。不要な物は容赦なく捨てるよう指示し、店の模様替えにも独特な感覚とセンスでどんどん取り組んでいった。少しづつきれいになっていく店の様子を見ると斎藤さんは上機嫌になった。元々きれい好きなのだろうか。反対に誰もが通るような場所にゴミが落ちていたり、掃除に夢中になりすぎてお客さんの対応が疎かになったりすると、容赦なく怒号が飛び交った。店にはなんとも言えない殺伐とした空気が流れ始めていた。


しかし、私はこんなところで負けられなかった。


ある日、オイル交換等の作業を行うピット周辺を私が掃除をしているときに、斎藤さんがやってきた。いつものように、にやりとしながら言う。

『北村くん、なんで店をきれいにすると思う。』

『それは、、、お客さんの印象をよくして、また来てもらう為だと思います。』

毎度のことだが、不意に質問されるとありきたりな答えしか出て来ないのだ。

『まぁ、それも確かにそうだな。だけど俺はな、“自分を汚したくないから、店の中をきれいにしておく”んだ。わかるか?』

『は・・はぁ。』

まだまだ斎藤さんの感覚にはついていけていないようだ。

『お客さんの前にでるのに制服が汚れてたらダメだよな。基本だよな。だけどな今のこの店みたいな汚い環境で仕事すると、自然に制服も汚れるんだよ。悪循環だよ。だから、自分の制服を汚したくなかったら、まず自分の店や使う道具を毎日きれいにしておくことだ。』


・・・私は、無言でうつむいていた。自然に目に入った私の制服は、一部が黒く汚れていた。日本一・・・悔しくて、情けなくて、逆に笑ってしまいそうだった。遠い、あまりにも遠い。私はまだ、“スタンドマン”ところか社会人としての入口に立ったばかりのようだ。

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