第39話【不思議な香り④】B面

「ありがとうございます!私も欲しいです!」


古村はもはやこの部屋に俺が居ることすら忘れているかのようにどんどん母親の方に前のめりで近付いて行っていた。俺は、小さくため息をついたが、古村がそれに気付くことはなかった。


 母親は嬉しそうだ。さっきからニコニコ顔が止まらない。その顔は俺の心が穏やかではないことに気付いてそれを面白がっている笑顔と、古村の純粋な気持ちが嬉しいって言う笑顔の両方だった。『くそっ!』と俺は思ったが、もちろん古村には何も届かなかった。


「ちょっと待ってて♪今、持って来るから。沙希ちゃんはまだ新村の人間じゃないから地下には行けないのよ。なんか色々ルールがあるみたいでね♪なくなったら佑希に言えばすぐに渡せるから安心して。」


相変わらず楽しそうな笑顔のまま母親はそう言うと部屋から出て行った。


 母親が部屋から出ていくと古村が急に俺を意識した。ようやく俺の存在が戻って来てくれたと喜んだが、古村の心の中は恥ずかしさでいっぱいになっていた。


「何?なんでそんな照れてんの?」


俺は思わず尋ねた。


「いや…なんとなく…」


古村は言葉ではそう言っているが、心の声、駄々洩れだ。さっき自分で言った言葉が頭の中でプレイバックしている。自分で言った言葉にものすごく照れていた。


そんな照れまくるほど俺を思ってくれた言葉を言ってくれた古村に今度は俺がちゃんと答えるべきだと思い、


「俺さ、今回知らなかったことをたくさん知ることが出来た。時期が来れば分かるって言われてずっと今日まで来たけど、改めて物事には順序があって、時期があるんだなぁって思った。沙希がずっと母さんの話を真剣に聞いてくれてた間、ずっと嬉しかった。ホントにバカにしたり疑ったりしないで聞いてくれるんだな」


『いやいや、新村くん!私の心の中が分かってて普通に話さないでよ』


古村は照れながら心の中でツッコんできた。俺だって恥ずかしいけど、古村がちゃんと声に出して言ってくれたんだから俺だって同じように声に出して言おうと思ったんだからそこはツッコまないでくれ。


『ん?今、〈沙希〉って言った?』


古村は、動揺している割には意外と冷静に俺の言葉を聞いていた。


「あ、いや、ほら、母さんがずっと沙希ちゃん、沙希ちゃんって言ってたから…つい…て言うか、なんて言うか…つられた感じ?」


どさくさに紛れて名前で呼んでみたことをツッコまれた俺は、顔から火が出そうなくらい熱くなっていた。そんな俺を見て古村は急に大笑いしながら楽しそうに俺を叩いてきた。笑われたのも驚いたし、笑いながら俺を叩く古村にも驚いた。


「えっ?そこ、笑うとこ?呼び捨てにされて怒ったんじゃないの?」


俺が完全に意表を突かれた。


「笑うとこでしょ?なんでそんなに呼び捨てしたくらいで動揺してるの?ピュアかよ!って思っちゃった」


古村はまだ笑っている。目に光るものも見える。えっ?涙出るくらい笑ってるの?俺は驚きっぱなしだった。古村ってこんなキャラだったっけと過去を思い出したが、今までこんなに笑っているところを見たことがなかったかもしれない。


「いいのか?下の名前で呼んでも」


俺はなぜか恐る恐る聞いてみた。


「いいに決まってるでしょ?嬉しかったし。ただ、急だったから違和感があっただけ」


古村は相変わらず笑いながら言った。でも呼び捨ては嬉しいと言ってくれたことが嬉しくて、


「そっか。…じゃあさ…」


勢いに任せて俺のことも下の名前で呼んでいいと言おうとして言葉に詰まった。もちろん、言葉に詰まったって今こうして思ってしまっているのだから古村には駄々洩れだった。


「私もいいの?佑希って呼んでも」


完全に古村主導で会話が進んでいる。目の前にいるのは母さんかと思うくらい、俺の動揺を楽しんでいる古村が居た。


「いいよ…て言うか、なんか俺も嬉しい。家族以外に下の名前で呼ばれたことがなかったから変な感じはするけど。でも嬉しい」


俺はそう言いながら意味もなく部屋のあちこちに視線を飛ばした。もう古村…いや、沙希を直視できないくらい恥ずかしかった。


普通、恋人同士はいつから呼び方が変わるのだろう?


付き合おうと言った時?


好きだと言った時?


付き合っている間に自然に?


沙希からどんどん聞こえてくるこれらの言葉に俺もいつから何だろうかと考えてしまった。沙希同様俺にも経験がない。むしろ、家族や親戚以外に下の名前で呼ばれた経験がないのだからいつからと考えたところで答えなど出るわけはないが。


 廊下でしばらく部屋に入って来ないで様子を伺っていた母親がこのタイミングで今、戻って来たようなフリで部屋に入って来た。


「おまたせ~♪」


母親は俺をチラッと見てニヤリと笑った。そしてすぐに沙希の方を向き、


「これね♪私が独身の頃に使っていた小瓶なんだけど良かったらこれ使って。小瓶って言えるか分からないけど。」


そう言いながら沙希に栄養ドリンクくらいの大きさの瓶にスプレー式のキャップが付いた瓶を渡した。


「お借りしてもいいんですか?」


沙希はそれを受け取りながら尋ねた。


「お借りするのはダメね。プレゼントしたいのに返されちゃうのは悲しいわ」


母親は悪戯っぽく笑って言った。


「えっ?もらっちゃっていいんですか?」


沙希は驚いていた。


「いいのよぉ。沙希ちゃんに使ってもらいたいの。私ね、小瓶を持って来いって言われたのにすっごく不安でこの瓶を持って来たのね。そしたらお義母さんに大笑いされちゃって。『そんなに大きなもの持って来るなんて、しばらくこの家に来ないつもりなの?』って」


スプレー瓶を俺たちに見せながら、母親は笑いながら言った。


「でも、あの当時はとにかくこの香りの効果がなくなったら主人ともう逢えないかもしれないとか思っちゃってて。今考えると私も純粋だったんだなぁってね♪沙希ちゃん見てるとあの頃の私みたいだなぁって思っちゃうのよ。だから、この瓶は是非沙希ちゃんに使ってもらいたいの。途中で飽きちゃったら別の容器にすればいいし。今はこれを使っててもらいたいなぁって思って。どうかしら?」


母親は当時を振り返りながら『懐かしいなぁ♪』と何度も心の中で楽しそうに思い出していた。


「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」


沙希は受け取った樹液をすぐにカバンにしまった。


 沙希がカバンに樹液をしまうのを見た母親は、自分が焼いたというケーキがあるとキッチンへ行き、紅茶と一緒に持って来た。それを食べながら俺たちは…(いや、主に母親と沙希ふたりで、だが)いろんな話をした。

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