第37話【不思議な香り②】B面

 家に向かっている時、LINEのメッセージが入った。母親からだった。


〈沙希ちゃんはまだ大丈夫かしら?明日、休みが取れたから沙希ちゃんに伝えておかなくちゃいけないことがあるの。まだ一緒だったら、沙希ちゃんに予定を聞いてもらえる?〉


伝えておかなくてはいけないこと?と俺は疑問に思ったが、もう一度古村の家に行くより、自宅に戻った方が早い位置にいた俺は、


〈もうすぐ家に着く。古村にはあとで聞いてみる〉


とだけ返信した。母親からは可愛い女の子がOKと指で作っているスタンプが送られてきた。


 帰宅すると母親は居なかった。職場から送って来たのだろう。俺はキッチンに行き、小腹を満たすものはないかと探して、母親がもらってきたであろうスポンジ生地の洋菓子とコーヒーを持って自分の部屋に向かった。


我が家は両親ともに医者で、業者や患者からの差し入れがとにかく多い。父親はほとんど病院で寝泊まりしているからこの差し入れはすべて母親がもらって来たものだ。母親は料理も菓子作りも大好きなのに、差し入れを食べきらなくてはと、最近では自分で菓子作りが出来ずにいた。もらったものは残さず食べる主義の母親に協力して俺はいつも何かしらの差し入れを帰宅したらすぐに食べる癖がついていた。


 部屋に入ると、今日の授業を軽くノートにまとめた。全日制の高校というところは、定期的にノート提出というものがあることを知ったのはあの高校に編入してからだった。


今まではスクーリングの時に課題として出されていたものをルーズリーフなどにまとめて提出すれば良かったから、気が楽だったが、一教科に一冊のノートを作り、それを定期的に提出するという手間のせいで、授業でやった内容をとりあえずはまとめておかなければいけなかった。


『これ、慣れないなぁ…』


俺はノート提出にも評価があることを古村から聞いていたので、適当には書けないと思い、なんとか見やすくまとめるのだが、何度やっても慣れない作業で、時間が掛かった。


 ふと、時間を見ると初めてから数時間は経っていた。俺は古村に予定を聞くことを思い出して急いでLINEを打った。


〈明日、母親が家に居るって言うんだけど来れる?〉


すぐには既読にならなかった。時間からしたら食事か風呂というところだろう。読めば返事をくれると思い、ノート作成の続きをやった。


 ノート作成も終わり、母親が帰宅したから一緒に食事をした後、部屋に戻ると古村から返信が来ていた。


〈食事してた。ごめん。明日、行く!〉


俺はすぐに返信をした。


〈じゃあ明日、10時に迎えに行く〉

〈大丈夫だよ。私から行くから〉

〈分かった。何時頃来れる?〉

〈10時には行く!〉

〈分かった。母親に伝えておく〉

〈よろしく!じゃあ明日ね〉


俺は何かの友達登録でもらったスタンプの中から【よろしく】と書かれたスタンプを返した。すぐに古村からはクマがお辞儀をしていてその上に【よろしく♡】の文字が書かれたスタンプが送られてきた。


『やっぱ、女子は可愛いスタンプ持ってんだな。俺も何か別のスタンプを探そうかな?』


とふと思いながら、リビングに行き、母親に


「明日古村来れるって。10時には来るらしい」


と伝えた。


「沙希ちゃん、何か言ってた?」


母親が聞いて来た。


「別に何も言ってなかったけど。なんで?」


俺は母親が何か引っかかる言い方をしていたのが気になって聞いてみた。


「う~ん…もしかしたら、沙希ちゃん、心の声が聞こえなくなってるかもしれないなって思って。」


母親は、一言一言考えながら言った。


「聞こえなくなってるかもってどういうこと?」


俺は予想外の答えに動揺した。母親は俺の動揺を見ても特に慌てた様子もなく続けた。


「聞こえなくなる条件みたいなものがあってね。まだ詳しくは言えないんだけど、明日沙希ちゃんが来て、もしそうだとしたらその時に話すわ」


と言うと、何となくそれ以上聞かれたくないと言わんばかりにリビングから出て行ってしまった。俺は追い掛けてもっと聞きたいと思ったが、なぜかそれをしてはいけないような気がして、一人リビングに取り残されてしまった。


 翌日、俺は10時を待たずに外で古村を待った。

待ったというより少しずつ古村の家の方に向かって歩いていた…というのが正しいかもしれない。


古村は10時前には俺の家のすぐ近くまで来ていた。ちょうど古村が見えた時、どうも浮かない顔をしていたのが見えた。それでも一歩ずつ前に進んでいたから、俺も古村に向かって進み続けた。


途中で立ち止まった古村は俺の家を見ながら口をポカンと開けていた。間抜けな顔だなぁと思ってしまって慌てて別のことを考えた。古村に聞こえてしまったら怒られると思ったからだ。


 ところが、いつまで経っても古村からツッコミは来なかった。俺は古村のすぐ近くまでたどり着いているのに一向に俺に気付かない古村。俺は、


「虫入るぞ!」


と声を掛けた。古村は慌てて口を閉じながら俺を見た。


「は?入らないし!口なんか開いてないし!」


さっきまでの不安そうな顔ではなくいつもの古村の顔に少し安心した。


「俺、口の中に・・・なんて言ってないけど?」


と笑いながら言った。


「あ・・・意地悪だなぁ」


古村も笑いながら返してきた。


「おはよう。お母さん、忙しいのに大丈夫だったの?」


古村は笑顔のままそう聞いて来た。この時俺は違和感を覚えていた。そして、昨夜母親が言っていたことを思い出した。


〈沙希ちゃん、心の声が聞こえなくなってるかもしれないなって思って〉だ。


さっきから俺は何度も心で古村に話し掛けている。それなのに、何一つ答えて来なかったからだ。


「うん。なんか、どうしても話したいらしくて。古村のことが気になるらしいよ」


俺は声に出して伝えた。


「私のことが?何だろう?」


古村もずっと声に出している。やはり心の声は聞こえていないと確信した。


「さあな。時々、母親の心の声が聞こえなくなるんだよ。ていうか、心の中もいつもハイテンションでそれが本音なのかすら分からない時がある」

「そうなんだ・・・」


古村はそう言うと心の中は不安でいっぱいになっていたのが分かった。俺が声に出してばかりいると思っていて、心の声を聞くチャンスがないとも思っていた。


「心配しなくていいよ。怖い人じゃないのはこの前分かっただろ?」


俺は何とか古村の不安な気持ちを消せないものかと考えていた。俺のこの思いも今の古村には聞こえていないのは分かったが。古村は黙り込んでしまった。心の中は不安で押し潰されそうになっていた。


「古村?」


俺は古村を覗き込んだ。


「…分かってるんだよね?」


古村は声を絞り出すように下を向きながら言った。


「…なんとなく。でもそれも含めて母親が何か教えてくれると思う。だから、そんなに不安にならないで欲しい」


俺の心の声が聞こえていないことに対して古村は不安やさみしさ、憤りを感じているのが分かった。俺のことは好きなのに心の声が聞こえない…


つまり、俺の方に気持ちが無くなったのかもしれないとさえ思っていた。俺はこんな時、どうしたらいいのか分からず、黙って古村の手を取り、家へと向かった。古村もそれっきり黙ったままだった。


 玄関に着くと、母親が待っていた。


「もぉ~、どれだけ二人で居たかったのぉ?近くまで来てるなら早く来てくれたらいいのにぃ。沙希ちゃん、おはよう」


相変わらずのハイテンションで俺の手を古村から離し、自分が古村の手を握りながら言った。


「おはようございます。お時間作っていただきありがとうございます」


古村は一礼しながら言ったが、気持ちはまだ沈んだままだった。なのに母親はそんな古村の気持ちが分かってるはずなのにテンションを変えずに、


「また会いたかったから嬉しいのよ。さぁ、入って」


と古村の背中に自分の手を回し、俺を置いてさっさと中に入ってしまった。古村は何を教えてくれるのか?と怖くて仕方ない様子だったが母親がそれを気にしている素振りはなかった。


俺が知らない何かを知っている。知っているから不安なことは何もないと言わんばかりにいつも通りだった。


「大丈夫よ。別に超難問を解いてくれとか言わないから、そんなに怖がらないでぇ」


このテンションを持続できる母親の精神力に尊敬すら覚えた。


 玄関の中に入ると、古村から『いい香りがする』と聞こえて来た。あの樹液の匂いのことだろう。前回は何も言わなかったのにと俺は思っていた。母親が古村の手を取ったまま、部屋に向かいながら一瞬俺の方を見て微笑んだ。そして、古村の気持ちがどんどん落ち着いていくのを感じた。しばらくして母親が、


『どぉ?私の声、聞こえてるかしら?』


と心の中で尋ねた。何やってんだ!古村には聞こえないの、分かってるくせに!と俺は一瞬カチンとした。


「はい。えっ?」


母親の心の声に古村が答えた。どうなってるんだ?と俺は困惑していた。


「良かった。沙希ちゃん、ものすごく不安そうだったから心配だったのよ。ちゃんと聞こえるでしょ?」


今度は声に出して母親は言った。古村は何が何だかさっぱり分からないと言った様子だった。それは俺も同じだった。


「とにかく座って。ちゃんと説明するから」


古村をソファに案内すると言われるままに古村はソファに座った。俺は古村の横に座ることにした。俺だって説明を聞く側だし、もし古村が動揺するような内容だったとしたら俺はそばに居たいと思ったからだ。


母親は俺たちの前に座った。そして、


「私たちはね。もともとはその力はなかったでしょ?その力を継続させるのには条件があるのよ」


といきなり話し始めた。古村が心の準備が出来てないと動揺しているのも分かっていたのに、だ。


「あのね。私たちがその能力を保っていられるには、この香りが必要なの。この家の人間に好意を持ってその人の心の声が聞こえるようになるのに最初だけはこの香りは必要ないみたいなんだけどね」


母親は、両手を広げて深呼吸して見せた。相変わらず説明の仕方が独特だ。


「沙希ちゃんが急にみんなの心の声が聞こえるようになった時はこの家に来た直後だったでしょ?あの時もこの家はこの香りの中にあったのよ。能力のない人にはあまり感じられない香りだけどね」


古村が不安にならないような言葉のチョイスはさすがだと感心しながら俺は聞いていた。


「そして、この香りの効果も人それぞれみたいだけど、効果が切れてしまえば心の声も聞こえなくなるの。沙希ちゃんが聞こえなくなったのは効果が切れたからであって、佑希の気持ちが沙希ちゃんから離れたわけじゃないのよ。むしろ前よりもっともっと好きになってるから安心して♪」


と一気に説明した。


てか、最後の一言はなんだ?


そこ、母親から報告された俺の立場は?ものすごく恥ずかしいんだけど…くっそぉー。俺は思わず古村とは反対を向きながら熱くなる顔に気付かれないように必死になった。横を向いたくらいじゃ心の声は古村に筒抜けなのは分かっていたが。


『馬鹿か、母さん。俺、いるんだけど…』


俺の心の声が聞こえた古村もまたドキドキしながら恥ずかしがっているのが分かった。

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