第8話 まだ心の準備が・・・
初めて人を好きになり、初めて好きな人の家に行き、初めて気持ちを確かめ合い、そして初めて家に送ってもらった日。私の心はぽかぽかと温かかった。でも家に入ると残酷なまでの現実が待っていた。
「ただいま」
とだけ伝えて部屋に行こうとする私に声を掛けたのは母親だった。
「遅かったわね。今日は補講させられたの?ついに劣等者に入った?」
母親とは思えないセリフが飛んで来て、新村のお母さんのような優しさに触れたばかりだったせいか、心の底から自分の親が情けなく感じてしまったがそこは心を押し殺して、
「劣等者にはなってない。友達と話してて遅くなっただ。」
と伝えた。普通なら今まで友達なんてワードを言ったことがない娘からのそのワードに反応するところだろうが、私の母親は残念ながら普通ではない。頭の中は成績のことでいっぱいなのだ。
退学者続出の高校だと言う噂は母親の耳にも入っている。我が子が退学しないようにと、そればかり考えている。私の母親は、世間体を人一倍気にするタイプだった。近所ではあの高校に入ったことはみんな知っていて、母親に凄いだの、尊敬するだの言ってくるもんだから母親は鼻が高いらしい。
それが万が一退学することになったらその鼻がボキッとへし折られてしまう。それを避けたいがためにわざと嫌味な言い方をして来るのだ。嫌味で私がやる気になり頑張ると信じて疑わないのだ。実際私もそんな母親の子育て法で育っているため、少しは嫌味がやる気になる部分もあるが、成長するにつれ嫌味は所詮ただの嫌味でしかないと気付いてしまったことに母親は気付いていない。今でも嫌味を言えば私がやる気になると信じて疑わない。
『お母さん、あの冷たさは心の中でも同じなのかな?』
とふと思った。
いつか私も母親の心の声が聞こえるようになるのだろうか?今、何を考えているのか分かったら、この家の居心地も少しは良くなるように考えて行動出来るかもしれないけど、残念ながらまだ私には新村以外の心の声を聞ける能力は身についていない。
新村の話だと、お互いが好きになればなるほど能力は強くなるらしいが、正直、人の心の声が聞こえるようになったら私は正常に行動していられるかという不安があった。
私はまだその能力は強くならないで欲しいと願わずにはいられなかった。今、誰でも彼でも何を考えているか分かってしまうようになったら、間違いなく顔に出てしまうだろうし、自分が関わった内容だったら露骨に文句を言ってしまいそうだから。
そう考えると、新村家の人々は相当精神力も鍛えているのだろうなと改めて尊敬した。
そんなことを考えながら自分の部屋に行き、荷物をおろし床に置いてある大きめで触り心地の良いクッションに体育座りのまま横に倒れ込みすっぽりと包まれた。
私のお気に入り♪
帰宅後は必ず一旦はそのスタイルになるのが私の中のルーティーンだった。
いつもならそのまま何も考えずに目を閉じ、その日の出来事をリセットした後に勉強…となるのだが、今日は違った。
目を閉じた瞬間、人生初のキスシーンが蘇ってしまった。あの時は自然にそうなったが一人になって思い出すと顔がみるみる熱くなり、そのままクッションに顔を沈めた。それでもあのシーンはしぶとく私に襲い掛かって来た。
後悔とか、早まったとか、そういう気持ちは不思議となかった。とにかく何もかもが初めてのことでかなり混乱はしているが、心の奥の芯のような部分では幸せだと言う感情が間違いなく存在していた。
「新村と付き合うのに私だけ中間層の成績では居られないな。もっと頑張らなくちゃ!」
普通、恋愛中ならずっと相手のことを考えてしまうことも多いと何かの情報で読んだことがあったが、私はあの高校に通ってしまったからなのか感覚が他の子とはズレているのか、真っ先に思ったのはこのセリフだった。あの高校は、自分以外の他の人のスキャンダル的なことが大好物の集まり。
例えば、今でも新村と私が一緒にいるだけで新村が成績を落とすことを望んでいる輩が多い。これが何かの拍子に付き合うことになったと知られたら、下手をすればターゲットは新村だけではなく安定の無掲示の私まで何かを望まれてしまう。
例えば、劣等者に入れとか。そんな恐ろしいことは絶対に避けたい。と言うか避けなければ新村に迷惑がかかりそうな気がしていた。もはや普通の高校生とは考え方も変えられてしまうような高校に私は在籍している。私が思う〔普通の高校生〕は、あくまでもドラマやマンガの話で、実際それが〔普通の高校生〕に当てはまるかは分からないけれど。
私はすぐに起き上がり机に向かった。上位者に入りたい気持ちはある。でもあの20人に入るのは当然だけれどそう簡単ではない。ならばせめて定期テストで長い紙の最初の方で、比較的名前が探しやすい場所を目指そうと目標を定めた。
我ながら無謀だと言うことは承知だった。でも今回は出来るような気がしていた。どこから湧く自信なのかは私にも分からないが。
帰って来てからどれくらい勉強していただろう?母親から夕飯の支度が出来たと声を掛けられた。我が家は父親が帰宅するまで夕飯は出て来ない。家族全員一緒に食べるのは昔からのきまりだった。
なので毎日父親が帰宅するまでの時間は私の勉強の時間となっていた。新村の家に寄ったのでいつもよりは時間も短かったと思うが、まとめたノートを見るといつもより簡潔に分かりやすく、しかもかなり大量に進められていた。
「私、すごい!集中力ハンパなかった!」
とりあえず自分を褒めてみた。しかもご丁寧に声に出してみた。なんだか気分もよくなり、ちょうどお腹も空いてきたので、リビングへと向かった。
父親はすでに席についている。これもいつもの光景。私が呼ばれてすぐに来なくても勉強の区切りがついてからでいいことになっている。その間、父親はビールを飲んで待っているのが定番になっていた。
「おかえりなさい。お待たせしました」
これも私がいつも言う言葉。父親は、「ん」と短く返事をするだけ。毎日変わらぬ夕飯前のコミュニケーションはこれで終了。あとは家族全員とは言え、別に会話をするわけでもなく「いただきます」「ごちそうさま」が唯一発せられる言葉だった。ところが今日は何かが違った。全員で「いただきます」を言った後のことだった。
「あぁ、昼とおかずが被った」
父が言った。私は驚いて父親を見た。そしてさらに驚いた。父親は言っていなかった。いつも通り黙って食べていたのだ。私はかなりパニックになっていた。新村以外の心の声が間違いなく聞こえてしまったからだ。
他の人の心の声が聞こえてしまって新村のように平静を装えるほど、私は出来た人間ではない。心臓が飛び出そうなくらいバクバクとしていた。茶碗と箸を持ったまま食べずにいた私に気付いたのか、
「沙希?どうしたの?」
今度は母親の声がした。慌てて母親を見た。こちらは私をしっかり見ていた。多分、声に出して聞いてくれていたのだろう。でも口が動いていたかどうか見ていなかった私は、
『どうしよう?答えても不審がられないかな?』
と迷っていると、
「沙希?具合でも悪いの?」
私が母親を見ている時に今度はちゃんと声に出して聞いてくれているのを確認した。
「何でもない。急に心臓がバクバクしちゃっただけ」
嘘ではない。今でも心臓は飛び出そうなのだから。
「何?具合悪いの?ご飯は食べられそう?」
母親は、口調は面倒くさそうだけれど、実は的確なことをいつも言う人だった。
「うん。ご飯、悪いけど残す。ちょっと部屋に行って休む」
「そう。じゃあ、そうしなさい」
「うん。ごめん。ごちそうさまでした」
私はそう言うと席を立ち、食事を片付け、部屋に向かった。まだ心臓はバクバクしていた。
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