5-5

「少し話をしよう。こないだの続きだ」

 サナ子さんは僕らが何か言うよりも先に、そう言って自ら話を始めた。

「こないだあたしは一つ嘘を吐いた」

 先日彼女から聞いた兄との話は、おおむね本当のことだった。そしてただ一つ、兄が失踪してしまったというのが、彼女の吐いた嘘だった。

「直前までは一緒にいたんだ」

 兄は一人で歩いているところを車に撥ねられた。ライブが終わった帰り道で、ちょうどサナ子さんたちと別れてすぐだったらしい。警察の見解では事故。街灯がなく、人通りも少ない道で、信号がちょうど切り替わるタイミングだったので、両者の不注意が招いたことだという判断だそうだ。

 ただ兄はその日とても沈んでいて、ライブが終わったあとは何もしゃべらないで一人何かを考え続けていた。バンドをやっているうちに音楽に神経をすり減らされ、触れたらすぐに崩れてしまいそうなほど、脆く抜け殻のようになっていた彼は、その日は今までになくそんな様子が顕著だったと言う。彼は音楽に殺されかけていたのだ。

 真相はわからない。だからサナ子さんもそれ以上は語らなかった。

 身分を証明するものがなく、事故のあとに身内である僕や叔父さんに連絡がいくことはなかった。だからサナ子さんが身元引受人となる形で、この病院に運ばれ、ずっと彼女が世話をしてくれていた。

「あんたがあたしの前に現れて、名前を言ったときから、いつかはこうして本当のことを語らなくちゃいけないとわかっていた。でもあたしが弱いせいで、ずるずるとこんなに引き延ばしちまった。本当にすまないと思ってる」

 彼女は深々と頭を下げた。ずっと心に複雑な思いを抱えていたのだろう。それに彼女が兄を救ってくれたことには変わりない。僕に彼女を咎めることなどできるはずもなかった。

「兄は、どうなんですか?」

 あまりに漠然とした質問であったが、そんな尋ね方しかできなかった。ここに入院しているということは、何も問題なく健康なんてことはないだろう。そしてたぶん、あまり状況は芳しくない。それは目の前にいる彼の姿を見てもわかる。

「事故のときに頭を打ったらしい。医者の話だと、脳の中の言語に関わるところに障害が出てるみたいで、こっちが話しかけても反応はないし、何か言葉を発することもない。原因が明確にわかってるわけじゃなくて、もしかしたらある日突然治るかもしれないし、一生治らないかもしれない」

 彼女は敢えてすらすらと語る。事務的な語り口をすることで、実感から現実を遠ざけているようだった。

「それと……」

 しかし彼女は突然言葉に詰まったように口を閉ざす。それを語るのを躊躇っている。

「大丈夫です。言ってください」

 もう今更驚くことなどない。それに心がついていかなくて、まだ悲しむこともできていなかった。だからすべてを聞いておきたい。あとはゆっくりと自分の中で消化すればいい。

「もう音楽は無理だろうって」

 伏せていた顔を少し上げて、彼女は遠くの空を見つめる兄の顔を見る。あんなに静かだったはずなのに、急に僕の耳を喧しい蝉の声が覆った。

「音楽を理解する部分に致命的なダメージが残っちまってるらしい。これはたぶん一生回復しないだろうと。音楽をやるのはもちろん、聴くことさえもできない。今のこいつにとっては、あたしたちが必死に作った音楽も、その辺から聞こえてくる工事現場の雑音も、何ら違いなく聴こえちまう」

 僕らが今こうして蝉の声を鬱陶しく思っているのと同じように、彼は音楽を耳障りなものとして捉える。実際彼女が何度音楽を聴かせても、少し嫌そうに顔を歪ませるだけで、それ以上の反応は得られなかった。彼は僕らには想像もできないような世界で生きているのだ。

「これで本当に全部だ。隠していて悪かった」

 彼女は再び僕に頭を下げる。そんな彼女の身体が小刻みに震えていた。それは怒りなのか、悲しみなのか、苦しみなのか、僕にはわからない。

 この世界はあまりに理不尽だ。何が正しくて、何が間違いかも明確にされないまま、気付けば罰を受け、苦しみを背負い、僕らは手探りで彷徨い続ける。行く手に何があるかもわからず、何かあるのかもわからないまま、僕たちはただ生きていくしかない。

 もっと兄と話をしておけばよかった。話せない今になって、そんなことを思う。僕は彼のことを何も知らない。彼と一緒にいる間、その優しさに甘えるばかりで、僕は彼に歩み寄ろうとしていなかったのだ。彼を知ろうとしていなかった。音楽を通して彼を追いかけてきたことで、ようやくそれがわかった。

 今、彼にはこの世界はどんな風に見えているのだろう。彼には何が聴こえているのだろう。彼は何を感じているのだろう。

 僕はわからないことだらけだ。結局他人のことなど何もわからない。

 だから僕は自分のことを考えようと思った。彼に対し、僕は何を想い、何を考え、何をするのか。そしてそれを彼に、みんなに、そして自分に伝える。それが歌を歌う僕にできる唯一のことだ。

「僕たちの音楽は、きっと世界を変えます」

 紛れもない確信があった。過信かもしれない。ただの虚勢かもしれない。でも少なくとも僕は、何の疑いもなく信じている。

「だから人を一人変えるくらい、どうってことないです」

 初めて歌を歌い、ギターをかき鳴らしたときから、何も変わってはいなかった。彼に歌を届けたい。それは彼がどこにいようとも、変わることはない。僕は彼に向かって歌を歌うだけだ。

「そうだな、ありがとう」

 彼女は立ち上がり、一度大きく伸びをしたあと、こちらを向いてニコリと笑った。

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