5-4

「ここは……?」

 サナ子さんの動きが止まったところまで辿り着くと、そこには少し寂れた病院らしき建物があった。しかし妙に人気がなく、辺りはとても静かで閑散としている。入り口には『ウメガオカ病院』という表札があり、やはりここは病院のようだ。

「どうやら普通の病院ではなくて、どちらかと言うと療養所に近い形態を取っているみたいだね。様々な理由で通常の生活が困難になった人を対象としているらしい」

 キョウが手元のスマホで調べた情報を教えてくれた。僕らはその情報と目の前の光景に気圧されて、入り口の前で立ち尽くしてしまう。

 全体的に冷たい感じがして、病院特有の白を基調とした建物がその空気を助長していた。周りの景色と見比べると、ここだけが不自然に切り取られたような違和感があって、明らかに異質な空間だった。敷地の入り口から建物まで妙に距離があり、その道のりが僕らを拒んでいるようにも感じられる。

 ――前に言っていた病院というのはここのことだったのか。あのときは詳しい話を聞けなかったが、今思うと聞かなくてよかったのかもしれない。

「じゃあ行こうか」

 しかしそんな僕らとは裏腹に、キョウはまるで気にする様子もなく病院の中へと入っていこうとする。僕が慌てて止めると、彼は不思議そうな顔をした。

「そのために来たんだろう?」

 彼の目は真剣だった。興味本位ではなくて、この先に知らなくてはいけないことがあるというような、そんな意志に満ちた顔をしていた。もしかすると彼はすでに何か知っているのかもしれない。

「やめよう。たぶん僕らが行っていい場所じゃない」

 人と人との関係においては、深入りすべきでないこともある。適切な距離を保つというのは非常に大切だ。相手が語らないことを無理矢理知ろうとするのは、ある種の裏切り行為とも言える。

 ミヅキもアマネも言葉を発しはしなかったが、これ以上先に行くつもりはないようだった。彼らもその線引きはわかっているのだろう。唯一キョウだけが、頑として自分の意志を曲げようとしない。

「彼女はおそらく僕たちに、そしてイツ、君に大きな隠し事をしている。君はそれを知る権利がある。いや、知るべきなんだ」

 やはり彼はこの先にある何かを知っている。そしてそれを僕に見せようとしているのだ。真っ直ぐに僕を見据える彼の瞳は、その奥に悲しみに似た何かを携えていた。

「わかった。行こう」

 僕は意を決して、病院の敷居を跨ぐ。真夏だというのに風が冷たく、ここまでにかいた汗がすっかり冷えていた。

 院内は外と同じ異様さを放っていて、ところどころに看護婦や医師がいるものの、物音一つ聞こえてこない。リノリウムの床を歩く僕らの渇いた足音だけが無機質に残響し、僕らの耳元に戻ってくる。

 微かな消毒液の匂いが鼻を刺激する。白く塗りつぶされ、わずかに明度の足りていない廊下が、代わり映えせずにどこまでも続いている。そこをひたすら歩いていると、段々と眩暈に視界が歪み、方向感覚が麻痺して、自分がどこに立っているのかわからなくなる。

 ふと僕は兄の音楽を思い出す。この長い廊下は彼の音楽のようだった。宛もなく、自分さえも曖昧にしながら、知らないどこかを目指していく。彼は歌を歌いながら、こんなに苦しい思いをしていたのだろうか。

「ここだ」

 その廊下を抜けた先の一番奥にある部屋だった。キョウによれば、ここにサナ子さんがいるようだ。入り口には名前は書いていないが、隣の部屋との間隔から見るに、どうやら個室らしい。

 僕は一度呼吸を整え、静かに目を瞑る。そしてまだ少し残る眩暈を押し殺しながら、ゆっくりとその扉を開ける。

「よお」

 彼女は待ちわびた様子で僕らを迎える。まるで僕らが来るのをあらかじめ予見していたようだった。こちらに首を向け、いつもと同じ笑顔を浮かべている。

 中はベッドと棚があるだけの簡素な部屋で、窓が妙に大きかった。太陽の向きのせいで、部屋全体に影が差して薄暗い。枕元にはまだ新しい花が置かれている。きっと彼女が持ってきたものだろう。

 彼女はベッドの横に置かれたパイプ椅子に座っていた。そしてそのすぐ横には、何故かギターが立て掛けてある。僕と同じサンバーストのジャズマスターだった。しかしかなり傷が多く、ところどころ塗装が剥げていたり、ボディにヒビが入っているところもある。彼女はここへ来るときには持っていなかったので、元々ここに置いてあったものなのだろう。

 そしてベッドの上には男の人が寝ていた。少し身体を起こした状態で、微動だにせず窓の外を眺めている。

「あの人、どこかで……」

 部屋を覆う影と、横を向いているせいで、顔はよく見えなかったが、ミヅキはすぐに気付いたようだった。キョウとアマネは特に反応を見せてはいない。二人はおそらくきちんと顔を知らないから、それも当然であろう。

 僕はもちろん気付かないわけはない。見紛うはずもなかった。たとえどんなに顔が変わっていたとしても、きっと僕は彼だとわかるだろう。

「兄さん……」

 そこにいたのは他でもない。僕の兄、ナカムラサクであった。

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