5-3

 そこからの毎日はもうついていくのでいっぱいいっぱいだった。朝はサナ子さんが銅鑼を叩く音で文字通り叩き起こされて、夜は練習が終わると気絶するように眠りにつく。疲労と眠気で食欲は全くなかったが、食べなくてはと必死に口に詰め込んだ。

 一日中ギターを触っているから、これまで積み重ねで分厚くなっていた指の皮でさえ、耐え切れずにボロボロに剥けてしまった。歌は喉を壊さないようにある程度時間が決められていたが、それでも喉の筋肉に倦怠感が纏っている。

 日に日に疲れが溜まってきて、三日目には気を抜くと意識が飛んでしまうほどの眠気に襲われた。しかしうとうとしているとすかさず木の笏で首元を叩かれ、あまりの痛みに一瞬で目が覚める。それを延々と繰り返しながら、気付くとあっという間に練習が終わっていた。

 そんな死ぬほど厳しい毎日だったけれど、最高に充実した時間であったことは間違いない。今までの練習も夢中でがんばっていたつもりだったが、それとは比べ物にならないほど濃密な時間だった。

 ツヅライさんは歌もギターも天才的で、今まで見たどの人よりも凄まじかった。歌はとにかくピッチが正確で、それでいて不思議と「歌が上手い」と感じさせない自然さがあった。彼にとっては音が合っているのは当たり前で、何の苦労もない様子で歌を歌う。その上で独特の節回しやちょっと間の抜けた可愛げのある声が特徴的だった。

 ギターはアコギが専門のようだが、エレキも恐ろしく上手い。見た目に似合わず速弾きを始めたかと思えば、ジャジーなアドリブを取ったりもする。とにかくオールマイティにこなせて、そのどれもが一級品の腕前だった。

 かと思えば、彼は料理もプロ級で、合宿中の食事はすべて彼が賄っていた。それも見た目に似合わずイタリアンやフレンチを作るという謎っぷりで、逆に日本食は苦手なのだと言う。着流しのままエプロンをつけてパスタを茹でる彼の姿は、何ともちぐはぐで可笑しかった。

 実は彼はこのお寺の住職の息子で、お坊さんになろうとしていたらしい。ここを合宿所として仕えているのもそのおかげだ。しかし精進料理が作れず、洋食ばかりを振舞っていたせいで破門にされ、それから紆余曲折を経てミュージシャンになった。見た目通りの無茶苦茶な経歴を持つ人である。

 一つ問題だったのは、彼が非常に感覚的な人間だったことだ。何を教えるにしても、具体的なアドバイスは一切なかった。その割に、イメージにそぐうまで何度もやり直しをさせられて、僕は彼を納得させるために必死だった。

 妙に比喩がかっているというか、文学的な表現をするので、「もう少し流水のようなハイトーンを意識して」とか、「大きな木に溶け込んだ気持ちで」とか、その言葉だけではまるで理解できないようなことも多かった。僕はそれを理解しようと励んだ結果、想像力が一番身に着いたような気がする。

「歌を歌うことは、食事をすることと似ているね」

 こんな風に時々こぼす格言めいたことも、段々と意味がわかるような気がしてきた。彼は自分の中にあるたくさんの言葉にならない何かを、ほんの一言程度の短い言葉で表現する。それはまるで音楽のようだと思った。

「いや、あいつはそれっぽいことを適当に言ってるだけだね」

 ミヅキは何故かツヅライさんを良く思っていないらしく、そんな悪態を吐いていたけれど、全くわかっていないと思う。彼の魅力はきっと理解しようと思う人にしか理解できないのだ。

 僕たち以外の三人も、やはり僕と同じように今まで以上の成長を図っていた。

 キョウはいつもサナ子さんに元気がないと怒られていて、たまに彼がはつらつとした声を出すのが聞こえてきて、思わず笑ってしまう。しかしそのおかげか、彼の音には今までより音楽を楽しんでいる感じが出ていた。演奏中もたまに笑顔を見せるときがあって、音楽の楽しさを一層深く知ったようだった。

 アマネはリョウスケさんとウマが合ったらしく、いつもギターの機材トークを繰り広げていた。曲りなりにも僕もギタリストなはずだが、彼らの会話には僕の知らない単語ばかりが飛び交っていて、全然入ることはできなかった。彼女の足元にあるエフェクターは日に日に数を増していて、そろそろ僕の方まで侵食してきそうなほど広がっている。

 そして一番苦労していたのがミヅキだ。彼は圧倒的に天才肌のタイプで、もちろん努力はしているが、音楽についての勉強はほとんどしていない。そんな彼を見たケンさんは、彼にほとんどドラムを叩かせず、みっちりと楽典を教え始めたのだ。

 だからバンド練習のときはそのフラストレーションを思いっきり発散するように、いつも以上にノリノリでドラムを叩いている。技術的なことではないので、目に見えて効果が表れるようなことはなかったが、楽典を学んでいるおかげか、前よりもアレンジの際に具体的な案を出してくれるようになった。

 僕らは各々レベルアップを図りながら、バンドとしても成長していった。バンド練習ではサナ子さんたちが交代で練習を見てくれて、各自の得意分野からの指摘をしてくれた。やはり今まで自分たちでは気付かなかった課題も多く、逆に自分たちの強みを知ることもできた。

 そうやって自分たちの音楽と向き合っているうちに、僕らが目指す方向性も明確になった。メンバーそれぞれが抱いていたバンドの理想像が、きちんと形を持って僕らの間で共有できたことは、おそらくこの合宿で一番の収穫だった。

 怒涛の日々を無我夢中で過ごし、ようやく折り返し地点まで辿り着いた。ようやく音楽漬けの生活スタイルにも慣れてきて、若干の余裕が出てきた頃だった。

 その日の午後は合宿に来てから初めてのオフで、疲労ですり潰された身体を回復させるため昼寝でもしようと思ったのだが、何となく眠れずに境内を散歩していた。すると、何やら物陰に隠れてお寺の裏を覗き見しているミヅキの姿が見えたので、何をしているのかと声をかけてみる。

「静かにしろよ。気付かれちまうだろ」

 彼は僕に気付くとめんどくさそうな顔をして、人差し指を立てて僕に注意を促しながら、なおも裏庭の方に目を向けていた。一体何を見ているのかと僕も同じ方向を覗いてみると、サナ子さんがどこかへ出かけていくところだった。

「え、ミヅキまさかこれってストーキングじゃ……」

 流石に彼女のファンとは言え、知り合いをストーキングというはまずいのではないか。普通に気持ちが悪い。いや、でも知り合いじゃない人をストーキングするよりは、知り合いをストーキングする方がマシか……?

「いや、これには深い理由があるんだよ」

 何でも、彼が言うには、サナ子さんは毎日必ずどこかへ出かけてしばらく戻ってこない時間があるらしい。確かにたまにいないことがあるとは思っていたが、あまり気にしていなかった。彼はせっかくの休みだからということで、そんなサナ子さんの行く先を突き止めようと、尾行していたところだったようだ。

 サナ子さんは自分の話をあまりしないので、僕たちは彼女の私生活をまるで知らない。音楽以外に趣味があるのかとか、休日は何をしているのかとか、そもそも家ではどんな風に過ごしているのかとか、そんなことは想像もつかなかった。

 男と会っているのではないか、というのが彼の見立てだった。根拠は何もなく単なる彼の勘だと言う。正直それは信用できないが、僕も彼女の行き先が気になるのは同じだった。悪いこととはわかっていても、彼女の私生活の一部を垣間見るというのは興味をそそられる。

「まずい、追いかけないと見失っちまう! ほら、行くぞ」

 彼は大スクープだと息巻いて、木々に隠れながらサナ子さんのあとを追っていく。僕はそんな甘言に唆されつつ、欲望と理性の間で揺れながらも、足を止められなかった。

「何をしてるんですか?」

 ちょうど僕らが一旦止まって茂みに身を隠していたところに、キョウとアマネがやってきた。明らかに不自然な動きをしている僕らに対し、二人は怪訝な顔を向ける。弁解のために僕とミヅキは簡単に経緯を説明していると、そっちに気を取られてしまい、その間にサナ子さんを見失ってしまった。

「あーもうお前らのせいで失敗だよ」

 ミヅキは心底残念そうに、半ば八つ当たりのような形で僕らに憤りを見せる。僕も残念ではあったものの、それよりも後ろめたさから解放されたことの方が大きかった。やはり尾行なんてしていいはずがない。

「そんなこともあろうかと、こんなものを持ってるよ」

 するとミヅキに絡まれていたキョウがポケットから腕時計のような小さな機械を取り出す。よく見ると文字盤の部分が液晶画面になっていて、網目のように線が引かれている。端には文字や数字が書かれていて、真ん中にぽつんと丸い点が表示されている。

「何これ?」

 文字盤の数字は刻々と変わっていて、中央の点は絶えず点滅している。液晶の周りには上下にそれぞれ「N」と「S」が書かれていて、八方に三角形の印がついている。全体の印象から考えると、方位磁針か何かに見える。

「これはサナ子さんにつけた発信機の座標だよ」

「発信機!?」

 僕は思わず声を上げてしまった。しかし彼は至って落ち着いた様子で頷く。

「リョウスケさんの私物を拝借したんだ」

彼ならシブヤの街で電波ハイジャックを仕掛けるくらいだから、発信機などはお手の物だろうと納得する。キョウはそれをサナ子さんに気付かれないように、彼女の鞄の中に忍び込ませていたらしい。あまり遠くにいくと電波が届かなくなってしまうが、五百メートル圏内であれば、相手のおおよその場所が特定できるらしい。

「でもなんで……?」

「いや、ちょっと思うところがあってね」

 理由については含みを持たせたまま明確には答えず、それ以上の言及を避けた。そのため彼がどういう意図でサナ子さんに発信機をつけたのかはわからなかったが、これで彼女の尾行が再び可能になった。悪魔の囁きが僕を襲う。

「でかした! よし、じゃあ気を取り直して行くか」

 僕は罪悪感に後ろ髪を引かれながらも、結局好奇心には勝てなかった。跳ねる心臓の音が外に漏れ出ないように必死に抑えながら、ゆっくりサナ子さんの向かう先へと歩みを進める。こうしてサナ子さんの追跡が始まった。

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