5-2

 一学期が終わり、夏休みが始まると、毎日があっという間に過ぎ去っていった。朝起きるとすぐにスタジオに向かって、夜遅くまで練習をする。そして家に着くとスイッチが切れたようにベッドに倒れ、目が覚めるとまた朝がやってくる。そうやって休む間もなくバンドに没頭して、それでも時間が足りないと思えるほど、やることは山積みだった。

 僕は根本的にリズム感に問題があったので、ひたすらメトロノームに合わせて練習をした。移動時間もなるべくクリック音を聴きながら拍を取る練習をしていて、そっちに意識が行き過ぎて電柱に頭をぶつけることがよくあった。

 リズム感の問題は、ギターはもちろんだが、歌の方にも影響があった。僕はギターを弾きながら歌を歌うので、ギターの方に意識が行ってしまい、歌のリズムが疎かになりがちだった。

 歌におけるリズム感のなさは、たとえわずかな違和感でさえ、その曲の印象を弱くしてしまう。特にバラード調のゆったりした曲では、歌が曲に乗り切れていないと迫力が薄れる。またベースのリズムが身体に染み付いている状態でこそ、そこをぶれさせて感情を乗せるといったこともできる。リズム感を良くすれば、歌が良くなるのは明白だった。

 とは言え、歌をリズムに乗せるというのは実はなかなか難しい。歌というもの自体が小手先でもある程度できてしまうものなので、リズムに限らず細かな部分に意識が向きづらい。そのため、録音をして第三者目線で自分の歌を聴いたり、メンバーに聴いてもらって気になったところを指摘してもらったりした。

 それによってだいぶ自分の癖が見えてきたものの、馴染んでしまったそれを直すのは大変だ。言うなれば箸の持ち方や座る姿勢といった、日頃意識せずとも行っている身体の動きを直すのと同じ。これについてはとにかくひたすら繰り返して歌い続けることで、身体に覚えさせるしかなかった。

 リズム感の他にも、声量、音域、安定感、力強いロングトーンなど、僕の歌に足りないものはたくさんあった。それら一つ一つと向き合って改善していくのは途方もない作業だったけれど、自分が歌いやすくなっていく感覚が楽しくもあった。

 僕以外の三人も、それぞれ自分が思う課題を見つけ、その改善に努めた。そうして個々の技量が上がっていくことで、当然バンド全体としても良くなっていき、そこから更なる課題を生まれる。そうやって僕らの音楽は刻一刻と変化していき、合わせる度に全く違う音楽になっていて、次はみんなどんな音を出すのだろうと、その新鮮さが毎回楽しくて仕方なかった。

 真夏に向かって上昇していく気温とともに、僕たちのボルテージもどんどんと上がっていく。けたたましく叫ぶ蝉の鳴き声に負けじと、汗まみれの手でギターをかき鳴らす。早くライブがしたい。この抑えきれない衝動を、思い切り音に昇華したい。

「いい感じに仕上がってるな」

 その日、サナ子さんたちが久しぶりにスタジオを訪れた。僕らにこの場所を貸すために、彼女たちは違う場所で練習しているらしく、最近はめっきりここへは顔を見せなくなっていた。僕らもスタジオに籠りきりで練習漬けの毎日だったので、彼女たちと会うのはかなり久しぶりだった。

 最後に彼女たちが聴いた演奏とはずいぶん変わっていたはずなので、たいそう驚いたことだろう。実際、しばらく僕らの演奏を聴いていた彼女は、ずいぶん満足げな顔をしていた。しかし、その顔はすぐにいつもの悪戯っぽい笑顔に変わる。

「でもまだまだ。これから一週間で、あんたらには別人に生まれ変わってもらう」

 ライブまで三週間と迫り、今日からいよいよ合宿が始まる。彼女たちが今日ここに来たのもそのためだ。場所も詳細も知らされていないが、ともかく言われるがまま、僕たちは楽器と一週間分の着替えを持って集まった。

「これ、どこに行くんですか?」

 そんな僕たちにやはり何の説明もなく、サナ子さんはずんずんと合宿会場へと歩みを進める。太陽の光が照り返すアスファルトの上を、楽器と着替えを持って歩くのは、なかなかに地獄だった。一歩前に進むごとに、全身から汗が噴き出してくる。口の水分がすっかり蒸発してしまって、水を飲んでも喉の渇きが全く癒えない。そんな炎天下の中を目的地もわからず歩いていると、徐々に何もない砂漠を彷徨っているように錯覚する。トウキョウ砂漠とはこのことか。

 朦朧とする意識の中、必死に先を行くサナ子さんたちを追いかけていると、少しずつ日蔭が増えて歩きやすくなってきた。街並みも小汚いシモキタの街から一転して、道の端に緑が目立つ閑静な住宅街に変わる。

 すれ違う人々は何だか心に余裕があるような顔をしていて、見知らぬ僕たちに会釈をしてくれる人さえいた。ペットを連れている人や家族連れが多く、楽しそうに笑顔で走り回る子供たちの姿が散見される。街全体がほんわかとして穏やかな印象だった。

 おそらくここはシモキタの先にある『セタガヤ』という街だろう。この街は中流階級に位置する比較的裕福な人が大半を占めていて、住みやすい街として人気が高い。学校教育や子育て支援、福祉などにも力を入れているため、老若男女バランスが取れていることも、この街の雰囲気を良くしている理由の一つだろう。

 何となく楽器を持った反社会的な僕たちがいていい街ではないように思える。そんな僕たちさえも好奇の目を向けられないことが、この街の懐の深さを表していた。

「ここだ」

 そんな住宅街のど真ん中に僕らの合宿を行う場所があった。

「え、ここって……」

 住宅の間に突如現れた仰々しい門構え。その脇には立派な松の木が生えていて、その陰のせいか、そこだけ少し暗い感じがする。入り口から真っ直ぐ続く石畳を歩いていくと、まるで過去にタイムスリップしたような古風な景色が広がっていた。

「『ゴウトクジ』って言ってな。昔はまあまあ有名な寺だったらしい。まあ今じゃこんなに廃れちまって、参拝客もほとんど来ないらしいけどな」

 そこは紛れもなくお寺だった。しかし手入れがされていないようで、建物は今にも倒壊しそうなほどボロボロだった。屋根や壁はところどころ崩れていて、窓にはひびが入っている。真夏だというのに敷地内は真っ暗で、妙に涼しい風が頬を撫でる。ここならお化けが出てきても、すんなりと受け入れてしまう気がした。

 招き猫を祀る神社だったのか、至るところに真っ黒くなった招き猫が横たわっていた。何だかこちらを恨めしく睨んでいるように見えて、思わず身震いしてしまう。

「これから二週間、あんたらをここでみっちり鍛えてやる」

 サナ子さんはひどく楽しそうだった。彼女のことだから普通の場所ではないとは思っていたが、これは正直予想以上だった。

「でもスタジオとかはあるんですか?」

 僕を含めた他三人が目の前の光景に茫然とする中、キョウだけは冷静に質問を投げかける。彼はこういうとき、異常なまでの鈍感さを発揮する。どうやらこのオンボロのお寺を見ても、何とも思っていないらしい。

「もちろん。あれだよ」

 サナ子さんが指さす方を見ると、明らかに新しく建てられたであろう真っ白いプレハブ小屋が建っていた。周囲の景観からは驚くほど浮いている。一体誰が何の目的で建てたのだろう。

「昼間は個人練の時間として、前に言った通り、あたしがキョウ、ケンがミヅキ、リョウスケがアマネについて、マンツーマンで持てるすべてを教える。夜はバンドで集まって、いつも通り練習する形にするから、飯と風呂と寝る以外は全部練習に当てろよ」

 朝は七時に朝食でそれから昼食までぶっ通しで練習、夜は十時まで練習と、聞いただけでもハードスケジュールとわかる時間割だった。しかし彼女たちにマンツーマンで教えてもらえるというのは大きい。それにそれぞれ教える側と教わる側のタイプが真逆なので、学ぶことが多そうだ。

「そしてイツ。あんたのことはあたしの師匠に頼んである。お、ちょうど来たみたいだ」

 その人はカツカツと音を立てながら、石畳の上をゆっくりと歩いてくる。

「え、ツヅライさん?」

 僕らの前に現れたのはまげに着流し、下駄という、時代錯誤な彼だった。シブヤでは異様に見えた彼も、この場所には僕らよりも馴染んで見えた。

「いかにも。久方ぶりだね」

「なんだ、二人とも知り合いなのか。じゃあ紹介は不要だな」

 ただならぬ人だとは思っていたけれど、まさか彼がサナ子さんの師匠だとは思いもしなかった。しかし彼の方は驚く様子が全くないので、初めから僕のことを知っていたのかもしれない。

「じゃあ荷物を置いたらすぐにスタジオに集合だ。ここからは一秒も無駄にしないで、夏フェスまでにあんたらを完璧に仕上げてやる」

 こうして僕たちの地獄の二週間が始まった。

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