4-9

 長かった梅雨がようやく終わりを迎えようとしていた。空の底に残った雨水を絞り出すように、弱々しい雨が降っている。きっとこの雨が止めば、真っ青な空が顔を覗かせることだろう。そんな梅雨の残り香を感じながら、僕は今日もあの街へ向かう。

 今日は夏フェス前最後のライブだった。まだフェスまでは二か月近くあるが、練習やレコーディング、そして合宿が控えているので、しばらくはライブをやらない予定だ。少しくらいライブをやらない期間があった方が、ファンの期待も煽りやすいというサナ子さんの策略もあったりする。

 最後だから盛大にということで、今回は今までで一番大きな箱でのライブになる。『Eden』というシモキタでは一番大きなライブハウスで、フロアにはおよそ六百人から七百人くらいが収容できる。ライブハウスの中では最大級と言っても過言ではないだろう。

 対バンは僕らを含めて四バンドが出演予定で、どのバンドも名の知れた人気のバンドだった。そんな中に入れてもらえたのは、最近徐々に人気を得てきたことも要因ではあるが、彼らに迫るニューウェーブとして期待されていることが大きい。その期待に応えられるかという不安はあったが、準備は万全で気合も十分だった。

 そして特筆すべきは、今日も『Yurei-Hei』が出演することだろう。彼らは今やシモキタでも上位に入る人気バンドとなっていて、その音楽性も相まってカリスマ的人気を博している。お客さんも大半は彼らを見に来ていると見て間違いないだろう。

 ちょうど新曲ができたところでのライブで彼らがいて、しかも演奏は僕らのあとに彼らの順番という、何ともおあつらえ向きな展開だった。新曲には自信があった。間違いなく、今までで一番の出来だ。けれど完全に不安を拭い去ることはできなかった。

「僕たちにできることをやろう」

 ここで成功すれば、夏フェスへの大きな足掛かりとなることは間違いない。また幽霊兵と同じ空間で演奏できるというのも、僕の緊張をあおっていた。しかし気張ったところで演奏は良くならない。僕らはいつも通りの演奏をすればいいのだ。

 まだ開演前だというのに、会場は隙間がないほど人で埋め尽くされていた。チケットは完売だと言うので、この場に七百人近くが詰め込まれていることになる。袖からこっそり覗いただけでも、その異様な光景は圧巻だった。

 僕が落ち着きなく楽屋をうろうろしていると、キョウが突然僕の手を握ってきた。急に何かと思わず振りほどこうとするが、どうやら僕を落ち着けようとしての行動だったようだ。ちょっとやり方が気持ち悪いけれど、まあそれも彼らしい。

「大丈夫。僕はイツの曲が好きだよ」

 彼はまるで告白するみたいに、僕の目を真っ直ぐ見つめて言う。その顔があんまり真剣だから、僕は思わず照れてしまった。

「私も好きです」

 それを聞いたアマネがそう言ってこちらに駆け寄ってくる。そしてキョウの上から僕の手を握った。彼女の手はひどく震えていて、僕よりもずっと緊張しているのがわかった。

「俺はまあまあかな」

 そう言って何故かしたり顔をするミヅキは、実に彼らしい感じがしてつい笑ってしまう。こういうときに、横でしっかりと立ってくれている彼がいることはとても頼もしかった。

 前の二バンドが終わり、いよいよ僕らの出番になった。会場の熱は最高潮だ。入場SEの盛り上がりに合わせて、僕らはゆっくりとステージに上がる。

 いざステージに立つと、改めて箱の大きさを実感する。一番後ろの方はステージ上からでは目が届かないほどだ。目を輝かせて僕らの演奏を待ってくれている観客を見ると、緊張はいつの間にか解けていた。それよりもこんなにたくさんの人がロックという音楽を好きでいて、こんなにたくさんの人が今ここに集まっているという、そのことが嬉しくてたまらなかった。

 部屋で一人音楽を聴いていたころからは、到底考えられないことだった。サナ子さんたちに出会って、アニーを結成して、ライブをしながら色んな人たちと音を共有してきた。それが今、こうして大勢の人と同じ空間で同じ音を共有している。孤独だと思っていた世界は実は全然孤独じゃなくて、見えていなかった音楽の世界はどこまでも雄大に広がっていた。

 僕は全身全霊を込めて歌を歌う。そして無我夢中で我を忘れそうになる僕を、後ろの三人がしっかりと曲で支えてくれる。僕らの奏でる音楽は、まるで一つの大きな生き物のようだった。その温かな身体で会場を優しく包み込んでいく。

 今まで生きてきた間に、僕の中に蓄積されていったすべてを、歌に込めて口ずさむ。特別な感情や確かな思考だけではない。取るに足らない思いも、曖昧でぼんやりとした考えも、些細なことも、つまらない日常も。バラバラで無造作に落ちていたそれらすべてが、ようやく一本に繋がって、僕の「生」に意味が生まれる。

 この瞬間のために、僕は今まで生きてきた。そんな確信があった。

 これが僕のロックだ。今ならはっきりとそう言える。

「次で最後の曲です」

 会場は妙に静かで、空気が透き通っていた。エアコンのファンが回る音と、アンプから漏れる微かなノイズだけが、沈黙に馴染むように響いている。

 フロアから僕らを見上げる観客たちは色んな表情をしていた。微笑む人。目を閉じる人。眉間に皺を寄せる人。無表情の人。唇を噛み締め涙を流す人。みんなそれぞれが、何かを考え、何かを思い、何かを感じている。この中の誰もが自分の人生を生きてきて、僕らの音楽と自分の人生を何かしらの形で重ねている。たとえそれがどんな形であっても、この不揃いで多様な人間性に関与することができたというだけで、僕らの音楽には意味があったのだと思えた。

「この曲を届けたい人がいます。それはたぶん難しいけれど、いつか届けばいいと思って歌います」

 僕は原風景を浮かべながら、一音ずつ音を形にしていく。


  空に浮かぶ 雨雲を眺めて

  明日は雨だと溜め息を吐く

  窓辺に座り 本を読んで

  見えない青空に 思いを馳せる


  明日は晴れるように

  吊るしたてるてる坊主は

  まるで首をくくる僕みたいで

  目を逸らした


  音を上げても 消えない雨音

  耳を塞いで眠りについた


  外へ出ようにも 傘は壊れてるし

  仕方がないや


  雨ばかり続いて

  増えていくてるてる坊主は

  何もできず揺れる僕みたいで

  雨が止んだら何か変われるのかな


  明日は晴れるように

  吊るしたてるてる坊主は

  何もできず揺れる僕みたいで

  静かに笑う君みたいで


  目を逸らして 耳を塞ぐけど

  雨は未だ止まないんだよ


  空に浮かぶ 気球を眺めて

  傘を買いに行こう

  扉を開けた


 僕は兄のことを思い出していた。窓の外を見て雨が降っていると、彼は決まって溜め息を吐いた。彼は雨が嫌いだったのだろうか。ずっと一緒にいたはずなのに、僕はそんなことも知らない。

 いつからか、僕は兄をとても遠い存在のように感じていた。大きくなるに連れて自然と話さなくなって、哲学者然として多くを語らない彼がどんどんわからなくなっていった。けれど今思えば、それは単に僕が彼のことを知ろうとしなかっただけだったのかもしれない。

 もっと話せばよかった。彼の見ている世界を知りたかった。そうすれば、もしかしたら彼は独りで行ってしまうことはなかったのかもしれない。

 噛み締めるように大切に音を奏でながら、僕は必死に涙を堪える。僕は悲しさを歌いたいんじゃないから。その先に見た光を歌いたいから。それに、自分の曲で泣いてしまうなんて、ミュージシャンとしてあまりにかっこ悪い。

 最後の一音を弾き切った瞬間、僕は一気に身体を縛っていたしがらみがほどけて、解放されたように感じた。後ろを見ると、キョウと、ミヅキと、アマネの三人が、こちらを見て笑っていた。それを見て思わず、我慢していた涙がほんの少し漏れ出す、

「ありがとうございました。またどこかで会いましょう」

 一度だけ涙を拭って、僕は笑顔でステージを降りる。楽屋に戻る途中で、幽霊兵のメンバーとすれ違う。

「あの」

 僕は声をかけずにはいられなかった。僕らの演奏を聴いていたのかはわからない。たとえ聴いていたとしても、特に何も感じなかったかもしれない。でも何か一言、今の気持ちを彼らに伝えたかった。

「人の演奏を聴いて、悔しいと思ったのは初めてだったよ」

 しかし言葉を探す僕よりも先に、彼の方が口を開いた。相変わらず足元を見つめたまま、掠れるほど小さな声だったが、確かに彼はそう言った。そして、それ以上は何も言わず、ギターを抱えてステージへと上がっていった。

 そのあとの彼らの演奏は、僕らなんかよりも圧倒的に凄まじい演奏だった。いつもと同じ曲をいつもと同じように歌っているだけなはずなのに、今日の彼らの曲にはあの麻薬のような恐ろしさはなく、しかし世界を曲が描く風景の中へと没入させ、僕らの心を魅了した。

 悔しいけれど完敗だった。だがそれと同時に、僕らの曲が彼らの曲をほんの少し変えられたことが誇らしかった。きっとこの演奏を聴いた僕らは、次はもっといい演奏ができるだろう。音楽はそうやって絡み合いながら、新しい世界へと踏み出していくのだ。

 最後の曲が終わって、観客に背を向ける瞬間、ボーカルの彼は一瞬だけ微笑んだように見えた。その微笑みの意味はわからないが、それこそが今日の彼らの演奏を決定づけたものであるような気がした。

 ライブが終わってすぐだというのに、ギターが弾きたくて、歌が歌いたくて、ライブがしたくて仕方なかった。

 明日も明後日も、いつまでもどこまでも、僕はロックを奏で続けようと、そのとき心に誓った。

 耳鳴りのようにうねっていた雨音が消えている。ようやく梅雨が明けたみたいだ。

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