4-8

 また雨が続いた。寝ても覚めても耳の中で雨の音が響いている。

 あの日から僕はずっと夢の中にいるようだった。頭は霧がかかったようにぼんやりとしていて、何をしていてもどこか他人事な感じがする。バンドで演奏していてもまるで集中できず、ふとしたときに、周りで鳴る音が意識の中からぽっかりと消えてしまう瞬間があった。

「少しゆっくり休んだらどうだい?」

 そんな僕を心配して、キョウが休みの日を作ってくれた。ここのところ毎日練習とライブに明け暮れていたので、学校から直接家に帰ってくることすら久しぶりだった。

 帰ってきてからはギターに触りもせず、ただベッドの上で寝転んでいた。頭が重く、内側を圧迫するような鈍い痛みがあって、起き上がることすら億劫だった。薄く開けた瞼の隙間から、雨に濡れる窓を見つめる。

 ふと枕元に置いてあるスマホに目を向けると、叔父からメールが届いていた。内容は何てことはなく、今月の生活費を口座に振り込んだというものだった。最後に、「雨が続いていて少し冷えるので、風邪に気を付けて」と一文が添えられている。その白々しい言葉に腹が立った。

 こうして叔父から連絡が来る度に、自分はまだ子どもだということを実感する。兄とも離れ、一人で暮らして自立したつもりになっていても、実際はお金もろくに稼いでいないし、自分一人では何もできない。叔父に家を追い出され、物理的な距離は離れても、結局あの頃と何も変わっていない。今も僕には居場所がない。

 湿気の多い空気に息が詰まる。気分が落ち込んでいるときに限って、こういう嫌な出来事が起こるのは不思議なものだ。単純に普段はさほど気にかけないようなことも、目についてしまうだけなのだろうか。

「なんか食べなきゃ」

 何もしないまま、外はもうすっかり夜になってしまった。流石に空腹を感じたので、何か食べようと冷蔵庫の中を覗くが、こういうときに限って何も食べ物が残っていない。カップ麺もちょうど切らしてしまっていて、外に買いに行かざるを得ない状況だった。

 仕方なく僕はコンビニへ夕食を買いに出かける。このまま何も食べずに寝てしまってもよかったのだが、身体の気怠さはあっても不思議と眠気はなく、今日の夜は長丁場になりそうだと踏んでの選択だった。幸い、コンビニは歩いて五分弱のところにあるので、雨の中でもそこまで苦ではない。

 街に蔓延する雑音を聴くのが嫌だったので、いつものようにイヤホンを耳につけて外に出る。しかし妙に雨の音が煩くて、音量を上げても音楽に集中できない。そのせいか、たった五分の道のりも、途方もなく長く感じた。

 何とかコンビニで食べ物を買うことができ、また雨の中を家に向かって歩いていく。地面に打ち付ける雨粒に目を向けて進んでいると、突然後ろから誰かに肩を叩かれた。

「やあ、こないだの少年じゃないか」

 驚いてびくんと身体を震わせ、恐る恐る後ろを振り向くと、そこにはツヅライさんが手を上げて立っていた。

「なんだ、びっくりしましたよ……」

「そうか、それはすまないことをした。前かがみで丸まった背中に見覚えがあったから、思わず声をかけてしまったよ。手に持つ袋を見るに、君は買い物かね」

 彼はこないだ会ったときと同じく、全体的に和装で統一されていた。これが普段のスタイルのようだ。今日はギターを持っておらず、どうやらちょうど食事を済ませて宿に帰るところだったらしい。

「そういえばご友人には会えました?」

 シモキタと一口に言っても決して狭くはないので、僕は入り口で彼と別れてしまったのが少し気になっていた。彼がここまででいいと言うのでそれ以上ついてはいかなかったが、簡単な道案内くらいはしてあげた方がよかったかもしれない。

「ああ、おかげさまでね。あのときは大変助かったよ」

 しかしそんな僕の心配は杞憂だったようで、あのあと問題なく合流できたらしい。今もその人と食事をしてきたところだったそうだ。彼が改めて深く頭を下げて礼を言うので、こちらの方が恐縮してしまう。

「そういえば一つ気になってたんですけど、どうして僕が音楽をやっているって気付いたんですか?」

 あのときの彼の最後の言葉がずっと引っ掛かっていた。あれはやはり明らかに僕が音楽をやっていることをわかっての言葉だった。もし次に会ったら、このことを聞いてみようと思っていたのだ。

「なに、わかることはわかる。ただそれだけのことだよ」

 そんな曖昧な言葉で煙に巻いて、彼はそれ以上の明言を避けた。何だか彼はずっとこの調子な気がする。わかるようなわからないような、不思議な物言いをする人だ。

「なるほど、君は悩んでいるのか」

 彼は脈絡もなく何かを悟ったように頷く。そして僕の手を取ると、そのまま強引にどこかへ歩き出した。

「え、ちょっとどこへ行くんですか?」

 戸惑う僕のことはまるで無視で彼は黙ってずんずんと進んでいく。しばらく歩いて辿り着いた先は、近くにあるチェーンのコーヒーショップだった。

「悩みがあるときは、ゆっくりコーヒーを飲むのが一番だ」

 そうして何故かコーヒーをご馳走になり、僕らは窓際の席に向かい合って座った。彼は特に何かを話すわけでもなく、ただ窓の外を見ながら優雅にコーヒーを嗜んでいる。僕は目の前のコーヒーに口をつける気にもなれず、膝に手を置いたまま居心地の悪さを感じていた。

 単純に彼がコーヒーを飲みたかっただけなのではないかとも思ったが、僕はそこでようやく彼の意図に気付く。これはきっと話を聞いてくれるという合図なのだ。ここに移動してきたのは、話しやすい状況を作るために違いない。そして今は僕が話始めるのを待っている。

「少し話をしてもいいですか」

 僕の問いに対し、彼は何も答えなかった。それを肯定だと受け取って、僕はぽろぽろと、胸に詰まったことを話した。自分の音楽のこと。幽霊兵の音楽のこと。理想の音楽のこと。自分が思うロックのこと。叔父のこと。過去のこと。そして、いなくなった兄のこと。思うままに、溢れ出る言葉を吐き出す。

 たぶん話は時系列もバラバラで支離滅裂で、筋も結論もないようなひどいものだったと思う。途中から自分でも何を話しているのかわからなくなっていた。それでも彼は何も言わず、静かに耳を傾けてくれた。

「結局、音楽って、ロックって何なんでしょう」

 答えが出るはずもない漠然とした疑問に、彼は手に持っていたカップを置いて、ゆっくりと口を開いた。

「君が歌を歌うなら、みんなその歌に込めればいい」

 彼の答えはその一言だけだった。けれどその瞬間、急に周りがぱっと明るくなった気がした。

 疑問も、考えも、想いも、そういう言葉にしてもどうしようもないことを、すべてを音楽に昇華する。そのために僕は音楽をやっているんじゃなかったか。どうしてこんな当たり前のことを忘れてしまっていたのだろう。

 僕は幽霊兵の演奏に対する僕なりの答えを歌にしようと思った。それが彼らに届くかはわからない。それでも歌にすることに意味があるはずだ。そうすれば彼らのことも少しはわかるような気がした。

 ツヅライさんに礼を言おうと顔を上げると、いつの間にか彼はいなくなってしまっていた。空っぽになったカップだけが机の上にぽつんと取り残されている。相変わらず不思議な人だ。

 彼は僕の背中を押すわけでもなく、手を差し伸べるわけでもない。それなのに僕は彼の言葉によって、見失っていた道をまた見つけることができた。

 たぶん彼は僕を救うつもりでもなければ、僕を導くつもりもない。しかし彼がぽつりとこぼした言葉は暗闇を照らす光のようで、たとえその光に意志はなくとも、僕らはそういう光に救われる。

 彼の言葉こそ、僕が求めるロックなのかもしれない。

 そんなことを言ったら、彼はなんて言うだろうか。はぐらかすような曖昧な言葉で、僕らに光を探させるかもしれない。それとももっと強烈な光で、僕らを照らすだろうか。

 外に出ると、雨はまだ降っていたけれど、耳を打つ雨音が少し遠くなっていた。

 店の入り口にてるてる坊主が揺れている。やっぱりそれは、僕に似ている気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る