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 サナ子さんが兄と初めて会ったのはとある小さなライブハウスだった。偶然そのライブを見に来ていた彼女は、兄の歌を聴いて衝撃を受けた。彼はシモキタで名を馳せる彼女をもってしても、「天才」と言わしめる才能の持ち主だった。

 ボロボロのアコースティックギターを抱え、たった一人でステージに立つ彼は、決して技量があるわけではなかった。むしろおそらく始めて間もないのであろう覚束ない様子が目立ち、実際そのときが初めてのライブだった。MCはぼそぼそと言うばかりで聞き取れず、必要以上にチューニングをして、ライブとして成立しているとも言い難いほどだった。

 しかしその歌を聴いた瞬間、彼女は確信した。「彼は天才だ」と。透明で真っ青なその声は山を下りていく美しい流水を想起させ、しなやかに伸びていくメロディはキャッチ―で耳に残るにも関わらず、不思議な不安定さを持っている。そしてそれらはまるで最初から一つの音として生まれたかのように、一本に繋がって観客の心に届いた。

 彼は一体誰なのか。それを知る者は誰もいなかった。飛び入りで空いていた枠に出演しただけで、箱のスタッフも素性をよくわかっていなかった。だから彼女は直接彼と話し、彼が何者なのかを確かめることにした。

「よう、いい歌だったよ」

 演奏を終えて、感慨もなさそうに無表情で荷物をまとめる彼に、彼女は物怖じもせず話しかける。こちらを向いた彼の目は驚くほど生気がなかった。目の周りは窪んでいて隈が囲っており、影で真っ黒く染まっていた。その奥に辛うじて見える瞳はくすんだコンクリートの色をしていて、その瞳を見ていると世界から色が消えたような錯覚を覚えた。

 そんな見た目ではあったが、決して彼はコミュニケーションが取れないわけではなかった。言葉少なではあったものの、返答自体は誠意のこもったものであった。よく言葉を選んで話すため、会話のテンポが遅かったが、決してそれが不快ではない。彼はただ不器用なだけのごく普通の人間だった。

「あんた、あたしとバンドやらない? ちょうど今ボーカルを探してたとこだったんだよ」

 彼女はそのとき自分がボーカルでないバンドをやろうとしていて、それには彼しかいないと思った。彼はその場で黙ったまま考えて、結果として彼女とバンドを組む選択をした。唐突な誘いではあったが、彼もバンドで音楽をやろうと考えていたからだ。

 こうして二人に加えて、元々サナ子さんの友人であったリョウスケさんとケンさんが加わり、『Good-bye For Anyone』が結成した。兄以外はシモキタで名の知れた人物たちだったこともあり、彼らはすぐに人気を獲得した。兄の歌は観客の心に真っ直ぐと届き、まるで自分のことを歌っているように感じさせる力があった。強い共感を持った彼の歌はすぐに人々の心を掴み、センセーションとともに急激な速度でシモキタを席捲していった。

 しかし、兄は曲を書くのが異常に遅く、納得のいかないものは形になっていても演奏することを頑なに拒否した。結局バンドの曲はほとんど他のメンバーが書いたもので、彼が納得して書いた曲はバンド名と同じタイトルの『Good-bye For Anyone』のただ一曲だけだった。

 彼は音楽をやりながら、絶えず悩み続けていた。自分はどうして音楽をやるのか。自分の音楽に意味はあるのか。音楽とは。ロックとは。世界とは。自分とは。口には出さなかったが、彼はいつも暗い顔で考え続けていた。

 そんな彼の悩みとは裏腹に、彼らの音楽は人々に浸透し続けた。そしてそのことがさらに彼を悩ませ、彼は歌うべきことを見失っていった。

 そんな鬱屈とした彼と、それを吹き飛ばすような激しい演奏をする他の三人のメンバーは、一見バランスが取れているようだった。確かに音楽的には絶妙なバランスを保っていて、その独特の空気感が彼らの武器だった。けれどおそらく彼だけは一人どんどんと押し潰されていて、いつの間にか耐え切れなくなっていたのだろう。

「あいつは音楽に毒されてた。ロックを愛しすぎていた。だからロックに答えが必ずあると信じて、ずっと探し続けてたんだ」

 バンド結成から一年が経った頃。結成当初からずっと書き続けていた『Good-bye For Anyone』を書き上げたすぐあとに、彼は誰にも何も告げぬまま、突如としてその姿を消した。その後一切の行方は知れず、生死さえもわからない。あの曲は、彼の最後の言葉だった。

「あのバンド名はあいつがつけたんだ。あんまり意味なんて深く考えたことはなくて、あいつらしい名前だなとしか思ってなかった。今になって思えば、一番最初から、どこかへ行っちまうつもりだったのかもしれない」

 サナ子さんはとても悲しそうだった。きっと彼女も同じようにロックを愛しているからこそ、こんなにも悲しい顔をするのだろう。

「『どこか知らないところに行きたい』。いつも憑りつかれたようにそう言ってた。でもあいつはたぶんどこかに行きたかったんじゃなくて、ここに居たくなかったんだと思う。生きてることが苦痛で仕方なかったんだと思う」

 ――あたしには全然わからねえよ。彼女の目にはわずかに涙が滲んでいた。こんなに弱々しい彼女を見るのは初めてだった。

「その『どこか知らないところ』に行っちまったあいつは、今は幸せなのかね。それとも、そこでもまたさらに『どこか知らないところ』を探して彷徨ってるのかもしれない」

 彼女も僕と同じなのだ。独りでどこかへ行ってしまう彼に、いつの間にか置いていかれてしまった。彼の行方は見当もつかなくて、僕たちは追いかけることもできない。

「でもあんたに会ったときにさ、あんたの歌なら、って思っちゃったんだよね」

「僕?」

「そう。あんたの歌は滅茶苦茶だったよ。最初は思い切り突っ走ろうとするのに、途中で止まって、迷って、でもまた歩き出そうとする。根暗で、後ろ向きで、厭世的なのに、それでも顔を上げて前に進もうとするんだ。それはあいつと似てるのに、あいつとは全然違って。すごく魅力的な歌だった」

 彼女は頬に滴った涙を袖で雑に拭う。

「これはあたしの身勝手かもしれないけどさ。あんたの歌が、いつかあいつに届けばいいなって、そう思っちゃったんだよ」

 その言葉は今まで聴いたどんな音楽よりも、僕に救いを与えてくれるものだった。

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