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 冬の街並みはどうして春や夏に比べて静かに感じるのだろう。乾燥した空気が澄んでいるからか。木々や草花が枯れて閑散としているからか。それとも冷たい風が音を攫っていってしまうからだろうか。もしかすると、単純に寒いからみんな部屋に引きこもってしまうせいで、街に人が少ないだけかもしれない。

 その日は街が一段と静かな気がした。だから耳の中で渦巻く耳鳴りがいつもより大きく感じられる。自分の足音が街中に反響して、まるで自分が世界の最後の一人になったように錯覚してしまう。

 きっとこれは全部僕の心が昂っている証拠だ。しかし今日ばかりは仕方ない。普通でいられるはずもなかった。今にも叫び出したい。今にも駆け出したい。今にも歌い出したい。そんな気分だ。

「やあ」

 ライブハウスに向かう途中、道で会ったキョウと合流する。彼は本番に向けて集中力を高めているようで、歩いている間は何もしゃべらなかった。僕もその沈黙が心地良かったので、あえて彼に話しかけることはしない。

「遅ぇよ」

 ライブハウスに着くと、もうすでにミヅキとアマネが入り口の前で待っていた。二人ともいつもとは違う緊迫した空気を発している。僕らは挨拶以上の会話もないまま、静かに中へと入っていく。

 僕らが今日ライブをするのは『CLUB246』という箱だ。キャパシティは三百人ほどと、前にラディウスを見た『軒下』の倍近い広さがある。狭く急な階段から入り、天井が低く薄暗いフロア。いわゆるライブハウスというイメージのお手本のような内観で、シモキタでも有名な箱の一つだ。

 今日は僕ら以外に三バンドが出演し、僕らはトリを務めることになっている。これはサナ子さんの根回しによるものらしい。当然、初ライブの僕らはファンなどいないため、味方はゼロの状態でのライブとなる。しかし他の三バンドはかなり人気と勢いのあるバンドらしく、客席はほぼ満員になると予想された。

 タバコの臭いが充満した埃っぽいフロアに入ると、これから僕たちはここで演奏するんだという実感がぞくぞくと身体を震わせる。

ライブ本番にはまだ少し時間があるが、その前にリハーサルとして、お客さんのいない状態で一度演奏を行う。音量バランスの確認や、スタッフ側との段取りの調整、そしてステージの感覚を掴むためだ。一応サナ子さんに一通り流れを教えてもらっていたので、その記憶を呼び起こしながら準備を進める。

「じゃあアニーさん、リハーサルお願いします」

 スタッフに呼ばれ、僕たちは楽器を持ってステージに上がる。全身を脈打つ鼓動がどんどん早くなっていくのを感じた。必死に息を整えながら、一歩ずつ階段を上がる。

 ――まずい。僕は自分が途轍もなく緊張していることに気付く。今右足を出したのか左足を出したのか、息を吸ったのか吐いたのか、自分が何をしているのか訳がわからなくなる。視界が曲がって歪んで見え、鋭い耳鳴りが頭の中を駆け巡る。

 世界から僕だけが乖離していくような感覚に陥る。身体が浮かび、手を伸ばしても何も掴めなくて、どんなに叫んでもこの声は届かない。目の前がどんどん真っ暗になって、混線したラジオのような激しいノイズ音だけが僕の身体を満たしていく。

 兄さんに会いたかった。彼を呼ぼうとするけれど、息ができず声が出ない。それにきっとこの世界に彼はいない。彼はどこへ行ってしまったんだろう。ただ虚しさだけが心を埋め尽くしていく。

――ドスン。足元に響く鈍い音がして、僕は白昼夢から目を覚ます。音の先を見ると、僕の前を歩いていたアマネがうつ伏せで真っ直ぐ倒れていた。何かのコードに引っ掛かって、盛大に転んでしまったらしい。

「いたい」

 彼女は顔を地面につけたまま、くぐもった声を発する。その瞬間、張り詰めていた空気が一気にはじけて、一転して笑い声が響いた。

「おいおい、大丈夫かよ」

 ミヅキが手を貸してアマネを起き上がらせる。彼女は目とおでこを真っ赤に腫らして、今にも泣きそうな顔でぷるぷると震えていた。

「大丈夫です」

 そんな状態で何故か強がる彼女が余計におかしくて、僕はまた吹き出してしまう。

 彼女のおかげで僕はすっかり緊張が解けて、落ち着いたままステージに上がる。ギターをアンプに繋ぎ、息を大きく吸って、頭の中で曲を何度もリピートする。他のみんなも準備が整い、一斉に音を出そうとピックを持った手を振りかぶった。

「ちょっと、待ったー!」

 しかしすんでのところで叫ぶような声に手を止める。その大声とともにドアを蹴飛ばして入ってきたのはサナ子さんだった。

「すまん、調達に思ったより時間がかかっちまってな。ほら、こいつはあたしからの餞別だ」

 彼女はそう言って、僕に真っ青なエフェクターを手渡す。

「こいつはブルースドライバーって言ってな。この憂鬱な世界を踏み潰す最高のエフェクターだよ」

 手に入れるのに苦労したんだから感謝しろよ、と口元を広げて笑う。そのエフェクターは埃まみれで傷だらけでひどくボロボロだった。でも確かな重みを持ったそれは、不思議と僕にはキラキラと光って見えた。

「ありがとうございます」

 僕はそれをギターとアンプの間に挟み、気を取り直してギターを構える。

「いけ!」

 彼女の声に背中を押されるようにして、僕らは思いっきり音を吐き出す。

 全員の音が重なった瞬間、僕は今までやってきたことがすべて報われたような感覚を得た。

その音はずっと僕が求めていた音で、僕らが求めてきた音だった。

 今まではガレージを改造しただけのスタジオでしか合わせていなかったから、きちんとした場所で鳴らす音はこんなにも違うのかととても驚いた。音が混じり合いながらフロア中に響き渡り、しかし一つ一つの音もはっきりと独立して聞こえる。

 サナ子さんがギリギリでくれたこのブルースドライバーも、僕のギターから出ているとは思えないほど凄まじい音を出してくれた。粒だった荒々しい中音域とつんざくような鋭い高音域がぶつかり合い、アンプの奥から音がせり上がってくる。温かさを含んだ豊かな倍音が湯水のように湧いてきて、伸びやかなサステインを包み込んでいく。一音一音弾く度に、僕は自分の音に感情を掻き立てられ、その音に酔いしれた。

 アマネのギターも、キョウのベースも、ミヅキのドラムも、この瞬間をとても楽しんでいるように聞こえた。いつもより少しだけテンポが上がっていて、みんなノっているのが音でわかる。特にミヅキなんかは明らかにおかずが増えてるし、キメのところを叩く打音が強い。

 ワンコーラス演奏し、簡単な音量調整をしてリハーサルが終了する。少し演奏しただけなのに、身体が火照って仕方なかった。

 いいライブになると、四人とも確信していた。

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