2-7

 外の空気を吸うと、酸素と一緒に疲労が身体を巡って、重りでも背負ったみたいに肩が重くなる。僕はいつもこの二人に振り回されてばかりな気がする。そして彼らは無意識にやっているから、悪びれる様子もない。

 結局あのあとはマスターが間を取り持ってくれて、明日僕らのスタジオで一度だけセッションをすることになった。それで気に入ったらバンドに入ると言っていたが、色んなバンドを経てダメだった彼が、突然僕らとウマが合うなんてことはないんじゃないかと思ってしまう。正直気乗りしなかったが、マスターから頭を下げられてしまったので、流石にノーとは言えなかった。

「実はラディウスや他のバンドに彼を紹介したのは僕なんだ。今はあんな風だが、居場所さえ見つかれば、きっと彼は素晴らしいドラマーになる」

 あとから聞いた話だと、マスターは昔ドラマーで、最初にミヅキにドラムを教えたのも彼だったらしい。師匠としての親心から、彼を色んなバンドに入れては失敗を繰り返していたのだった。

「あの子は感受性が豊かすぎるんだ。それは音楽家にとってはあまりに理想的で、故にその扱いが難しすぎる」

 マスターは心底彼を心配しているようだった。確かに彼が危ういというのはよくわかる。

「僕はね、君たちには期待しているんだよ。初めて会ったときから、彼に必要なのは君たちみたいな人なんじゃないかと感じたんだ。どうか、よろしく頼むよ」

 そんな世辞を言ってくれたが、僕にはどうしてもそうは思えなかった。性格やあの口の悪さもそうだが、それはどうとでもなるだろう。確かにすごい演奏だったから、彼が入ってくれたらいいバンドになるんじゃないかとも思う。けれど一方で、あの違和感がずっと頭の隅に残っていたのだ。

「まあ考えても仕方ないか」

 ともかく僕は彼に文句を言われないように、全力で演奏するしかない。どうせだったら彼をぎゃふんと言わせてやりたい。そう思ったら徐々にやる気が出てきて、何より新しい人と音を重ねることが楽しみになった。

 妙な高揚感が生まれてしまったせいで全然眠れず、ギターを弾いているうちに朝になった。そのおかげで授業中は目を開けていられないほど眠く、目が覚めたのは下校のチャイムがちょうど鳴り終わった頃だった。

 僕がスタジオに着くと、キョウもミヅキもすでに来ていて、各々セッティングを始めていた。僕も急いで準備をして、全員の準備が整ったところで、サナ子さんが姿を見せる。

「全員ギラギラでいいね。戦い、って感じだ」

 僕もキョウも気合は十分だった。ミヅキはやっぱり何かに苛ついているような顔をしていて、意味もなくスティックをくるくると回している。

「曲は僕らの『夕陽の沈む音を探して』でいいんだよね?」

「ああ、何度か聴いたし大体覚えた」

 ジャムセッションだと僕には荷が重いので、多少考慮してくれたのだろう。自分たちの曲であれば、大きなミスをすることはそうそうない。僕は少し安心しつつ、気を引き締める意味を込めてピックを握り直す。

「やろう」

 僕はマイクの前に立ち、フォーカウントに合わせてギターのアルペジオをなぞる。

 イントロ、Aメロ、Bメロと曲は淡々と進んでいく。僕もキョウのほとんどミスはなく、ミヅキのドラムも初めてとは思えないほど完璧に合っている。特に彼のリズム感のおかげで、キメの部分ははじけるような気持ち良さがあった。

 ――でもやっぱり何かが違う。あのとき感じた違和感と同じものが、後ろからゆっくり僕の身体を覆っていく。息が詰まり、音がぼんやりとして、水の中に沈んでいくような感覚だった。苦しくてもがくけれど、余計に沈んでいくばかりでどんどん身体が重くなる。


  夕陽の沈む音を探して

  僕らは長い旅に出かける


 僕は歌詞を口に出しながら、その意味がわからなかった。僕は何を歌っているんだ。

 音楽を前にして、こんなにも苦しいのは初めてだった。もうやめてしまいたい。そんな弱音が頭をよぎる。

 そうして僕の音が途切れかけた瞬間、僕を包む水をかき分けるようにして、聴き馴染んだベースの音が耳に届く。

 これはキョウの音だ。彼が僕を呼んでいる。

 そうだった。僕は今、決して一人で演奏しているのではない。キョウとミズキと、三人で演奏をしているんだ。そのことすっかり忘れていた。

 僕は遠くから響いてくるベースの音を辿るようにして、ゆっくりと水面を目指す。僕が見たいのは、こんな暗くて音のない場所じゃない。あのとき見た、眩い光が照らす場所だ。


  夕陽の沈む音を探して

  僕らは長い旅を続ける


 一つ一つの音を重ねながら、僕はその音を探す。それは遠いけれど、確かにこの先にある。そんな確信めいた思いが胸の奥を熱くする。いつの間にか身体は軽くなっていて、不安も恐怖もなく、身体を覆う真っ黒い違和感もすっかり消えていた。

 僕は道を作ってくれるキョウのベースラインを追いかけながら、一歩ずつ前に進んでいく。後ろからは優しく力強い追い風が吹いていた。これは、ミヅキのドラムだ。彼もまた、僕たちとともにあの景色を目指している。


  夕陽の沈む音を探して

  僕らは歌を口ずさみながら

  鮮やかに光るこの街並みが

  あなたに届く夢を見ている


 最後の一音を弾いた瞬間、欠けていたピースがぴたりとはまった。何故か興奮はなく落ち着いていて、いつまでもこの余韻に浸っていたかった。サナ子さんの拍手の音が聞こえ、僕は咄嗟に頭を下げる。

「いいじゃん」

 彼女はたったそれだけ言って、他に何も言うことはないと、黙って外にスタジオを出ていった。でもその一言が途轍もなく嬉しくて、そうか、今の演奏はよかったんだと、ぼんやりとした実感が確信に変わる。

「ああ、いい演奏だったよ」

 ミヅキは抜け殻のような顔をしていた。それを見て、僕は彼とならこれからもいい音楽を作れる気がした。

「でもな」

 彼は少しして正気を取り戻し、声のトーンがいつもの通りに戻っていた。

「イツ、お前はもっとギターを練習しろ。細かいところでリズムがブレブレなんだよ。それに何だよ前半の演奏は。いっちょ前に、自分が演奏に浸れるまではノリ切れませんってか。あんな演奏ができるなら最初からだ」

 僕は彼の急き立てるような罵声に、つい笑みがこぼれてしまう。

「キョウ、お前もお前だ! 全体的にリズムが後ろに寄ってるんだよ。自分の音楽性を出す前に周りに合わせる努力をしろ。あ、おいイツ! お前なに笑ってんだ!」

 忙しなく言葉を振り回すミヅキがあまりおかしくて、僕とキョウはいつまでも腹を抱えていた。怒っていたミヅキも気付けば僕らと一緒に笑っていて、もう何が何やらだったが、とにかく最高の気分だった。

「バンドには入ってやるよ、ただし一つだけ条件がある」

 彼は人差し指を立てて、口元の八重歯をきらりと光らせる。

「俺にも見せろよ、その夕陽をさ」

 僕とキョウは彼の言葉に一瞬驚いたが、すぐに納得した。一緒にあの演奏をしたのだから、僕らの思い描いていた風景を感じ取ったのは、感受性豊かな彼なら当然だろう。あの景色を見た彼が今度はどんな演奏をしてくれるのか、考えただけでもわくわくした。

「ちょうど今からなら間に合う」

 時計を確認したかと思うと、すぐにキョウは僕ら二人の手を引いて、あの場所に向かって駆け出した。街の隙間をすり抜けて、僕たちは夕陽の音を探しに行く。小さな冒険に出かける子どもみたいな気分だ。足が弾み、心が躍る。

「お前たちはさ、あの音楽でどこに行きたいんだ?」

 向かい風に負けないように、ミヅキが大きな声で言う。

「どこまでも!」

 僕とキョウの声がぴったり重なった。

 本当に僕たちは、このままどこまでも行けるんじゃないかと思った。

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