2-4
「イツ、今から時間はあるかい?」
授業を終え、いつものようにスタジオに向かうと、僕を待ち構えるようにしてキョウがドアの前に立っていた。隣には面白がって便乗したサナ子さんが同じ体勢で笑っている。
「もちろん大丈夫だけど……」
何だかキョウは心なしかむすっとした顔をして、怒っているようにも見えた。もしかしていつまでも歌詞が書けない僕に痺れを切らしたのかもしれない。
「そうか。じゃあ急ごう、時間がないんだ」
彼は僕の手を乱暴に掴み、そのままスタジオのドアを蹴飛ばして、飛び出すように外に出る。やっぱり怒っているみたいだ。僕は少し焦りながら、後ろを振り返って助けを請うような目でサナ子さんを見る。しかし彼女は何とも呑気にこちらに手を振っていて、ニヤニヤと口元を笑みを浮かべていた。
「あの人絶対面白がってるよ……」
ぐんぐんと先を行くキョウに引かれるまま、陽が沈み始めたシモキタの街を歩いていく。彼はシモキタ生まれシモキタ育ちなので土地勘があり、狭い路地や建物の隙間をはっきりとした足取りで進んでいく。迷路のような道を歩いていくうちに、僕は向かう先どころか、自分がどこにいるのかさえわからなくなっていた。
最初よりは少し速度が緩んだものの、依然として競歩並みのスピードを保っている。時間がないと言っていたが、何やらかなり急いでいるみたいだ。
「ねえ、どこに向かってるの」
僕は乱れた息を吐き出しながら、真っ直ぐに前を見つめるキョウに尋ねる。しかし彼はこちらを振り返ることさえせずに、ただ淡々と歩みを進めていくだけだった。
こうして改めて街を歩いてみると、ここは不思議な街だなと思う。シブヤに比べたら閑散として寂しげな街なのに、どこか温かさやノスタルジーを感じさせる。そして息を潜めるようにして巣食う独自の文化たちが複雑に絡み合い、雑多だけど確かな色を持った、奇妙な街の風景を形作っている。
何より面白いのが、そうした文化の根付く街と、都会の喧騒から一歩外れた静かな生活が広がる街とが同じ景色の中に混在しているところだ。文化という非日常と生活という日常がすれ違い、絶妙なアンマッチ感のまま、街の空気を震わせる。
僕はこの街が好きだ。ぼんやりとして、どこか脱力感があって、退廃的で、でも一人一人に居場所があって、居場所があることを教えてくれる。僕たちが今ここにいることを教えてくれる。
そうか。だからここはロックの街なんだ。僕たちが生み出す小さな音の断片がほんの少しずつ集まっていって、この街全体が一つのロックミュージックを奏でているのだ。僕はこのとき、微かにこの街の音を聴くことができた気がした。
「いい街だろう」
僕のことを見透かしたみたいに、キョウが自慢げに呟く。この街で生まれ育った彼のことが少し羨ましかった。
「着いたよ」
そうして僕らはようやく目的地へと辿り着く。そこは街が一望できる見晴台のような場所で、おそらくこのシモキタの街で一番高い場所だった。
「そろそろ時間だ」
キョウの言葉をきっかけにして、視界が急にオレンジ色に染まり出す。僕はあまりの眩しさに目を細める。目が慣れてきてゆっくりと瞼を上げると、そこにはまるで夢の世界のように鮮やかな美しい景色が広がっていた。
「僕は一つ、君に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
音もなく沈んでいく夕陽に目を向けたまま、彼は唐突にそんなことを口にする。
「最初に僕が持ってきたラフのうち、君が選んだあの曲だけは、君とのバンドのために書いた曲じゃないんだ」
彼は落ち着いたトーンで、囁くように語る。それがかえっていつもの独り言よりも独り言らしく聞こえた。だから僕は何も答えず、しばらく彼の言葉に耳を傾ける。
「あの曲は、昔この景色を初めて見たときに書いた曲なんだ。身の上話になってしまうけれど、僕の両親はひどい親でね。仕事が忙しいからって息子の僕をほっぽり出して、世界中をあちこち飛び回っているような人なんだ。それは僕が幼い頃からずっとそうで、月に一度会えればいい方だった。彼らは音楽家だったから、僕は彼らの気を引くために音楽を始めた。初めて僕のピアノを聴いた彼らはたいそう喜んでいたよ」
眩い逆光に照らされて、彼の顔は真っ黒く塗りつぶされたように見えた。僕は影に隠れた彼の顔が、一体どんな表情をしているのか想像もできなかった。
「喜んだ彼らは僕をここに連れてきたんだ。父が母にプロポーズをした場所だったらしい。僕は嬉しかったよ。初めてだったんだ、彼らにどこかへ連れてきてもらうというのが。そして世界にはこんなにも美しい場所があるのかと、子どもながらに感動した。そのとき見た風景を忘れないようにと、僕が初めて書いたのがあの曲なんだ」
沈んでいく太陽とは対照的に、ゆっくりとアルペジオのリフがフェードインする。あの曲に思い描いていた曖昧なイメージが、視界からの情報と彼の記憶によって確かな一枚の絵に変わっていく。
「完成したら父と母に聞かせようと思っていた。でもずっとあの曲は未完成なままだ。何かが足りない気がして、書いては直しを繰り返した。あの風景をそのまま音にしたいのに、どうしても端々に僕の願望や美化した記憶が挟まってしまって、それが逆にあのときの風景から遠ざけた」
きっとその永遠にも思える堂々巡りの作業は、彼にとってすごくつらいものだったのだろう。作りたいものが作れないジレンマが如何に自分の身体を縛るものなのか、僕はこの数週間で痛いほど感じていた。それを彼はもう何年も戦い続けていたのだ。
「君に会って、バンドをやろうって言われたとき、僕の頭の中にはずっとこの曲が反芻していた。きっと、君ならこの曲を歌えると思ったんだ。そして君はあの曲を選んだ」
直感で選んだだけだった。けれど、引き寄せられるような感覚を覚えたのも確かだった。この曲を歌いたいと思ったのがあの曲だった。
「正直迷っていたんだ。ここに連れてきてしまうということ、この話をしてしまうということは、イメージを変に固めてしまうかもしれない。でもふと思った。君が歌詞を書けないでいるのは、僕の身勝手な曲に乗せて、必死に自分の歌を歌おうとしているからなんじゃないかって」
彼は唇をぎゅっと噛み締めていた。そして深い溜め息を吐いたあと、僕の方を向いて言った。
「僕のために、歌ってくれないか」
夕陽が沈み切って、辺りは真っ暗になった。陽の光がなくなったからか、急に寒くなったように感じる。夜になったことに気付いた街灯が、チカチカと音を立てて順々に明かりが灯し始める。
「ぷふっ、何それ」
キョウがあんまり真面目な顔をしているから、僕は堪え切れずに吹き出してしまった。まるで愛の告白みたいなセリフを、どうしてこんなに真剣な顔で言えるのか。
「なんで笑うのさ」
しかし彼自身はふざけているつもりなどは微塵もなく、僕が笑ったことに不服なようだった。やっぱり変な奴だ。だけど僕は彼のこういう不器用なところが嫌いじゃない。
「歌うよ」
今まであった不安とか焦りとか、悶々とした感情は一切なくなっていた。引っ掛かりがなくなった気分だ。わずかに背筋が伸びた感じがした。
「ありがとう」
彼は深々と頭を下げ、しばらくそのまま動こうとしなかった。
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