トラック2 夕陽の沈む音を探して
2-1
「あんたの初舞台が決まったぞ」
「え?」
サナ子さんの口調があまりに平坦だったせいで、その言葉の意味がよく理解できなかった。いや、たとえビッグニュースみたいに話されたとしても、まるで意味がわからなかったと思う。
「いや、だからあんたの初めてのライブが決まったんだよ。これね、このイベント」
僕は彼女が指さす机の上のチラシを手に取る。どうやらすぐ近くのライブハウスで行われるブッキングイベントらしい。出演者のところを見ると、確かに僕の名前が一番下に記されていた。
「ライブって、やっとまともにギターが弾けるようになったくらいですよ? それにバンドメンバーだってまだ……」
正直ライブをやるなんて想像もしていなかった。最近ようやくサナ子さんたちと合わせて演奏ができるようになったが、それ故に今の自分のレベルが素人に毛が生えた程度だとはっきり理解していた。
「まあ実際に人前で演奏しなきゃいつまで経っても上手くならないからさ。本当はもっと早くてもよかったくらいだよ。それにあんたは自分が思ったよりも上手くなってるぜ、安心しな」
「でも……」
「はいはい、この話はもう終わり。これは師匠による決定事項だから。そんなことよりギター持ってさっさと行くぞ」
彼女はいつの間にか荷物をまとめて外に出る準備をしていて、僕をどこかに連れて行こうとしていた。
「行くってどこに?」
「決まってるだろ、メンバー探しだよ」
僕はサナ子さんに言われるがまま、ギターを担いで夜の街へと繰り出す。冬の始まりを示すように、冷たい風が僕の頬を凪ぐ。マフラーに顔を深く埋め、自分の吐く息で暖を取りながら、僕は先を行く彼女の後についていく。空に目を向けると、星がまばらに輝いていた。
「メンバー探しって言っても当てはあるんですか……?」
「うーん、あると言えばあるし、ないと言えばない」
そんな曖昧な答えで誤魔化されてしまうが、文句を言っても埒が明かないので、ともかく黙ってついていくしかなかった。寒空の下を二十分ほど歩き、ようやく辿り着いたのは、何やら普通の民家らしき場所だった。
「ここに一応あたしの知り合いのベーシストがいる。まあ腕は保証するし、たぶん誰よりもあんたの歌に合うベースを弾いてくれるはずだ。何より今バンドを組んでないから、加入してくれる可能性は十分にある」
ずいぶんと好条件のように聞こえるが、それを口にする彼女の顔はあまり晴れやかではなかった。何より入口の前で立ち止まって、一向に入ろうとしない。
「どんな人なんですか?」
「うーん、言うならば変人。まあ会えばわかると思うから、がんばって行ってきてくれ。あたしの名前を出せば、まあ無下にはしないはず」
少しずつ少しずつ後ずさりしながら、気付けば彼女は僕よりも数メートル後ろに下がって手を振っている。彼女は一緒についてきてはくれないらしい。何か理由があるようだったが、聞くのも野暮かもしれないと思い、意を決して一人で中に入ってみることにした。
「すみませーん」
ずいぶんと古い日本家屋風の古民家で、インターフォンなども見当たらなかったので、とりあえずドアの前に立って大きな声で呼びかけてみる。しかし誰かがいる気配すらなく、僕の声が虚しく空中に霧散するだけだった。
「大丈夫、絶対いるはずだから」
僕が諦めて戻ろうとすると、遠くから様子を窺うサナ子さんが、そう言って扉を開けるように促す。試しに扉に手をかけてみると、鍵はかかっておらず、全く手応えもなく開いてしまった。このまま勝手に人の家に上がり込むのもどうかと思ったが、ここまで来たらなるようになれと、投げやりに敷居を跨ぐ。
「失礼します……」
中に入ってもやはり人の気配はなく、それどころか生活感が全くなかった。妙に物が片付いていて、床や壁も綺麗に磨かれている。家は外から見るよりも幾分か広く感じた。どうやら奥行きがあるらしく、玄関から続く廊下が十数メートルほど伸びている。
やはりいないのではと少し疑いながら廊下を進むと、一番奥の部屋から明かりが漏れていることに気付く。確かに誰かいるみたいだ。よくよく耳を澄ませてみると、微かにだが音楽らしき音がふんわりと聞こえている。
何となく音を立てないように足を忍ばせながら、軋む廊下の上をゆっくりと歩く。別に隠れる必要はないのだが、氷が張ったように冷たい床と音もなく薄暗い天井に遠慮してしまう。たまに僕の体重に耐え切れなくなった床が沈み、叫ぶような大きな音が家中にこだまする。木造で、かつ古くて隙間が多いからだろうか。何だか妙に音が家全体に響き渡っていくような気がした。
「あのー突然すみません……」
僕は光が漏れ出している一番奥の部屋に辿り着き、静かにドアを開ける。
「あ、ちょっとストップ。今すごくいい音が出ていたよ。そこから二歩下がってもう一度こっちに歩いてきてみて。ああ、違う、その二十センチ後ろだ。そうそう、まさにそこだ。よし、さっきと同じ感じで歩いてきてくれ」
僕は一瞬にして、サナ子さんが変人と言っていた意味を理解した。彼は突然現れた僕に驚く様子もなく、何度も廊下を行き来させてその足音に耳をそばだてていた。
「いやー実にいい音だ。きっと君は僕より一.五キロほど重いんだろう。僕の体重ではこう硬い高音が出てくれないんだ。冬で床が乾燥しているというのもポイントだったのかもしれないね」
目にも止まらぬ速さで机の上のパソコンを操作しながら、さっきの床が軋む音について解説をしている。しかしその言葉も僕に向けられたものではなく、完全に独り言のトーンだった。僕は彼に背を向けられ、ドアの前で立ち尽くすしかなかった。
「ほら、ずいぶんいい音が録れた」
彼は一通りの作業を終えたらしく、最後に軽やかにエンターキーを押す。その打鍵の残響が薄れていくのに合わせて、部屋の隅にあるスピーカーから柔らかなシンセサイザーの音が流れ出した。
「これは……?」
リフレインするメインテーマにピアノ、ベース、ドラムなど、様々な音が重なっていく。そしてそれらの楽器隊の音に気を取られていると、その奥で何やら音楽的ではない変な音が聞こえる。それはあまりに自然で、注意していないと見失ってしまうほど、見事に曲に溶け込んでいた。
「やっぱりいい音だ。この曲に合う音をずっと探していたんだよ。君のおかげだ、ありがとう」
「もしかしてさっきの僕が歩いた音……?」
「そうだよ、それ以外何があるって言うのさ」
彼は目を瞑って、浸るようにその曲を聴いていた。僕も彼の真似をして、曲だけに意識を集中してみる。夜の電灯に照らされる、仄暗い路地の影を想起させる曲だ。光と影のコントラストを音によって見事に表現している。揺れるようなテーマが、僕の手を引きそんな風景へと誘い、夜の散歩に連れ出してくれる。
「今日は少し肌寒いね」
彼が僕に言う。
「でも星が綺麗でちょうどいいよ」
僕がそう答えると、彼は楽しそうに笑った。
緩やかなフェードアウトで曲が終わる。そのあともしばらくは、その余韻が空気を震わせて波紋のように広がっていく。何だかその曲は音楽であって音楽でないような不思議な感じがした。
「ここは音が一番心地良く響くように、材質や構造、壁の隙間まで計算して改築してあるんだ。特にこういうアンビエントな曲が映えるようになってる。苦労しただけあってね、なかなかいいだろう?」
どうやら歩いてくるときに妙に音の反響が気になったのは、この家がそういう設計になっていたからだったらしい。もしかしたら他の部屋に生活感がなかったのは、音を響かせるためだけにある部屋で、普段は使っていないからなのかもしれない。
「ところで君は一体誰だい?」
彼は今日の夕食を聞くみたいに、フラットな声で尋ねる。感情の起伏がずれていて、こちらのペースをすっかり乱される感じだ。
不自然なほど綺麗に整えられた前髪や、そこから覗く童顔のせいもあり、彼は少し子どもっぽく見えた。おそらく年齢は僕とそんなに変わらないと思うのだが、一挙手一投足に無邪気さが垣間見え、穢れのない純真無垢な子どものような印象を受ける。
「あ、僕はイツと言います。ナカムライツです。サナ子さんの紹介で、いいベーシストがいるって聞いて……」
「ベーシスト、それは僕のことかい?」
彼は目を見開いて驚いた顔をしたあと、顎に手を当てて考え込むような素振りをした。回る椅子に足を乗せ、その椅子が五周したところで、彼はようやく思索を終え、またさっきの独り言トーンで矢継ぎ早に言葉を吐き出す。
「いや、確かに僕は、ベースを弾く人間、という定義に基づくなら、ベーシストという括りで間違いない。けれど自分がベーシストだという認識はまるでなかったよ。何故ならそういった定義で言うと、僕はギタリストでもありキーボディストでもあり、その他数えきれない『~スト』になってしまう」
部屋の中をぐるりと見回すと、ところどころに色んな楽器が置いてあった。どうやらベースだけでなく、他の楽器も自分で演奏しているようだ。
「そもそも一番最初に始めたのはピアノだったし、そういう意味では僕はピアニストなのかもしれない。ただ君の言うベーシストという定義が違う可能性もあるな。一時期僕はバンドに入ってベースを担当していたから、そのときは紛れもなくベーシストだった。しかしこれは今は当てはまらないから、やっぱり僕をベーシストとするのはなかなか見当違いなのではないだろうか……」
「え、バンドをやってたんですか?」
サナ子さんは彼が今バンドをやっていないと言っていたし、僕はてっきり彼の様子や音楽から、バンドとは縁遠い人なのだと思っていた。
「ああ、ほんの数か月程度だったけどね。友人に頼まれてしばらくベースを弾いていたよ。ただしゃべりすぎてうるさいという理由で解雇された」
そのエピソードを聞いただけで、バンドメンバーの苦労がわかる気がした。でも僕は彼のこの感じが案外嫌いじゃない。何より彼の作った曲を聴いて、僕は彼と音楽をやりたくて仕方がなかった。
「あの、実は今バンドメンバーを探していて……。それでここに来たんです。よかったら、僕のバンドでベースを弾いてくれませんか」
僕は上手く交渉するとか、雑談をしながら外堀を埋めていくとか、そういう器用なことはできない。だからダメ元で思い切って直球勝負をかけてみる。
いきなりやってきて何を言っているんだと思われるかもしれない。そもそも僕の演奏を聴かせたわけでもないし、僕自身どんなバンドをやりたいのかも漠然としている。それでも彼と音楽をやりたいというこの気持ちだけは、紛れもなく本当の僕の気持ちだった。
「なるほど、そういうことか。いいよ。僕でよければ」
ところが驚いたことに、彼は二つ返事でバンド加入を了承してくれた。
「僕はベースを弾けばいいんだね」
そう言って彼はすぐ近くに置いてあった抹茶色に白いピックガードのついたフェンダーのプレシジョンベースを手に取り、ペグを回してチューニングをし始める。
「あ、ありがとうございます。でもどうして、まさかそんなすぐに了承してくれるなんて。今日会っただけの何も知らない僕の誘いなのに……」
断られるか、そうでなくても僕の技量や音楽性を試すようなことはあると思っていた。しかし彼はどんな音楽をやるかさえも聞かない。
「サナ子さんの紹介なんだろう? じゃあたぶん僕がベースを弾くことが、君の音楽にとって最良の選択ということだ。それにさっき最高の音を奏でてくれたじゃないか。あれを聴けば十分だよ」
彼はどこまでも変人で、けれど僕は何だか上手くやっていけそうな気がした。
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