1-5

 僕は夢を見ている。遠い昔の夢だ。

 兄と二人で海辺を歩いている。辺りは夜の闇に包まれていて、月の光だけがゆらゆらと海の上を漂っている。兄は何もしゃべらず、ただ黙々と僕の前を歩いていく。僕はどこに向かっているのかもわからぬまま、必死に彼の背中を追いかけた。

 波が浜辺に打ちつける音に混じって、どこか遠くの方から、微かに楽しげな音楽が聞こえていた。しかしどんなに周囲を見回しても、見えるのは黒一色に染まった世界と、呑気な月の光だけだった。

 その音楽が段々と鬱陶しく、まるで耳の傍を飛ぶ蠅の羽音のように感じられて、僕は苛立ちながら耳を塞ぐ。すると今度は心臓の鼓動がやけに大きく聞こえて、何だかすごく恐ろしくなって、ぎゅっと瞼を閉じる。

 真っ暗で音もない世界に逃げ込んでも、この心臓の音だけは絶えず流れ続けている。それは妙に生々しく、幻想に浸る僕を糾弾する。初めから逃げ場などないのだということに、僕はようやく気付かされる。

「兄さん……?」

 そうやって僕が色んなものに気を取られているうちに、兄さんはずっと先の方に行ってしまっていた。僕がどんなに叫んでも、こちらを振り返ることすらせず、ひたすらどこかに向かって歩いている。僕はところどころ波に消された彼の足跡を必死に辿り、次第に見えなくなっていく彼を追い続ける。

「兄さん」

 僕はもう一度彼を呼んだところで目を覚ました。頬が仄かに涙で湿っている。まだ目の端で海に反射した月が光っているような気がした。

「よう、やっと起きたか」

 目を開くと、わずか数センチのところにサナ子さんの顔があった。僕はあまりに驚いて身体を動かしてしまい、額と額が鈍い音を立てて勢いよくぶつかる。

「いてて……」

 歌い終わって倒れたあと、どうやらサナ子さんたちがベッドに運んでくれたらしい。そしてしばらくそのまま眠っていたみたいだ。部屋は上の雑居ビルの中だろうか。ずいぶん床や壁は汚れていて、割れた窓ガラスには段ボールで簡易的な補修がなされていた。

 寝起きでぼんやりとしていた意識が少しずつはっきりとしてくる。ぶつかって赤くなった額をさする彼女を見ながら、泣いているのも見られただろうかと恥ずかしくなった。自然を装って頬を拭い、僕は何事もなかったかのように彼女に話しかける。

「すみません、急に倒れてしまって。何だか気力を使い果たしてしまったみたいで」

 正直自分でも驚いていた。歌を歌うだけであんなに疲れるなんて。普段は運動もほとんどしていないし、体力が限界まで落ち切っているのかもしれない。けれどあの身体の熱をすべて出し切るような感覚は案外悪くなかった。

「あんたの歌、ぼちぼちだったね。まあヘタクソだったけど」

 そう言う彼女の顔は悪戯っぽく笑っていて、これは褒めてくれていると受け取っていいみたいだった。

「そういえば、名乗らせておいてこっちの紹介がまだだったね。ご存知の通り、あたしはサナ子。『Seek Your Rock.』のDJで、職業はベーシストだ。こいつはあたしの相棒。’76年生まれのギブソン製サンダーバードのクリス。あっちにいるのはギターのリョウスケとドラムのケン。バンドもラジオも基本的にはこの三人でやってる」

 リョウスケさんとケンさんはこちらには加わらず、各々部屋の隅に座っていた。リョウスケさんは爽やかなイケメンで、腰まで伸ばしたサラサラの髪が見事に似合っている。ケンさんは対照的に髭もじゃで仙人のような見た目をしていて、その落ち着いた様子はどちらかと言うとロックよりジャズの方が合っていそうだった。

「それで弟子の件だけど、そもそもあんたは何をしたいんだ?」

 彼女の質問はもっともだった。僕がベーシストならまだしも、急に弟子になりたいというのは意味がわからない。さっきは勢いに任せてそんな言い方をしてしまったが、今は確かにやりたいことが見えていた。

「僕は、バンドをやってみたいです」

 経験もない一リスナーの僕ができるのかどうかわからないが、さっきの演奏でそれ以外ないと感じた。もう一度あのステージに立ちたい。あの臨場感を味わいたかった。何より、バンドをやることこそが、僕が『どこか知らないところ』に行ける唯一の手段だと思った。

「楽器触ったことないんだろ? パートは何にする?」

「えーっと、歌、が歌いたいです」

 今まではずっと、音楽によって知らない世界に出会ってきた。でもそうじゃなくて、自分の言葉で世界を見つけることができたら、それはどんなに素晴らしいことだろう。生意気かもしれないけれど、僕が音楽でやりたいのはそういうことで、それには歌を歌うことが一番だった。

「ボーカルか、いいんじゃないの? それだったら、そうだな。ちょっと待ってな」

 彼女は何かを探しに部屋の外へと出ていってしまった。しばし誰もしゃべらない気まずい沈黙が部屋の中に充満する。二人のどちらかに話しかけてみようかと思ったが、こちらに目も合わせてくれなかったので断念した。

「お待たせ」

 しばらくして戻ってきた彼女は、何やらギターケースらしきものを手に持っていた。ずいぶん長い間放置されていたのか、黒いハードケースが薄っすら白くなるほど埃が積もっている。彼女はそれを床に置き、軽く埃を払ってから、ゆっくりと蓋を開ける。

「どうせボーカルやるなら、ギターも弾けた方がいいだろ? 放置してあったしそんなたいそうなギターじゃねえけど、国産だから作りはしっかりしてるし、多少メンテすれば使えるはずだ」

 これやるよ、とまるでお菓子でもくれるみたいに軽い口調で言う。一瞬遠慮しそうになるが、彼女はたぶん別にそんな反応を求めていない。だから僕はそのギターをケースから取り出し、肩にかけてそれらしく構えてみた。

「結構似合うじゃん」

 それを見た彼女はずいぶん満足げだった。このギターは昔に彼女が使っていたギターらしい。

「そいつはジャズマスターのヒサコって言うんだ。サンバーストがいい味出してるだろ? まあ仲良くしてやってくれよ」

「ジャズマスター……? でも僕はロックがやりたくて……」

 ギターの種類はほとんど知らないが、ジャズマスターなんて名前、明らかにジャズ用のギターだろう。ジャズも嫌いではないが、僕がやりたいのはロックだ。

「あ、いやいや。違ぇんだよ。ジャズマスターなんて名前だけど、むしろロック専用ってくらいロック向きのギターさ。まあ音聴いたらわかるだろうから、ちょっと音出してみるか」

 僕は彼女に連れられて、ギターを持ったまま再び地下のスタジオに降りる。さっきはあまり意識していなかったが、そこにはギターやベース、ドラム、キーボード、アンプなど、楽器がそこかしこに置いてあった。どれも無造作に投げ捨てられているように見えて、意外に埃などは無く綺麗だった。どうやら手入れはしっかりと行われているようだ。

 元はガレージか何かだったようで、スタジオ全体は結構な広さがあった。しかし電灯がほとんどないため薄暗く、鉄と油の臭いが充満しているので、ずっと中にいたら気分が悪くなりそうだった。

「ほれ、これピックな」

 そんな風に落ち着きなくキョロキョロとしているうちに、サナ子さんがギターをアンプに繋いで準備をしてくれていた。十円玉より一回り大きなプラスチック製のピックを手渡され、僕は少し背筋を伸ばす。

「こことここ、それとここをこう押さえて……。もうちょっと指立ててみ」

 彼女に押さえる場所を教えてもらいながら、何とかコードの形を作る。弦を三本抑えるだけなのに、なかなか彼女の言うように上手く抑えられなかった。

「よし、まあいいだろう。それじゃあ弾いてみ」

 弦を押さえる指が震えて、今にも攣りそうなほど張りつめている。僕は必死にその状態を維持したまま、右手に持ったピックを握り直す。アンプからジリジリというノイズ音が漏れ出している。スタートの合図を待つ陸上選手になった気分だ。

「それを思い切り下に振り下ろすんだ!」

 僕は彼女の声に従って、ピックを弦に当てて力強く振り下ろす。すると僕の後ろにあったアンプから、煌びやかな音色が聞こえてきた。まず僕のストロークに呼応するように強いアタック音が先行し、そこを頂点としながら緩やかな弧を描いて音が減衰していく。そしてその曲線が通った跡から、少し遅れて粒だった細かい音の欠片が溢れ広がっていく。まるでステーキの断面から肉汁が滲み出していくようであり、蕾の内側から鮮やかな花が顔を出すようでもあった。

「それがCコードだ」

 ゆっくりと消えていく残響音が止むのを待って、ぽつりとそれだけを口にした。そしてもうそれ以上何かを語る必要はないと言わんばかりに、彼女は長い沈黙を守る。

 たった一回音を鳴らしただけなのに、僕の中では色んな言葉がぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。初めて音楽に出会ったとき、いや、それ以上の衝撃が僕の心を激しく揺らす。ピックを握った手がビリビリと痺れていた。

「これが、音楽……」

 こうして僕は、とても長い旅の大きな一歩目を踏み出したのだった。

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