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 かっこよく意気込んだものの、あの後はそのまま学校へと向かった。結局、学校が終わってから行けばいいという結論に至ったのだった。こういう優柔不断であれこれと考えてしまうところが自分の良くないところだとわかってはいるが、どうしても急に変わることはできないらしい。

 特に面白いこともなく授業が終わる。他人とのコミュニケーションが苦手な僕は、友達など一人もいない。別にイジメられているとか、学校をサボっているとか、そういうこともなく、ただその場にいてもいなくても変わらない、道端の小石のような存在だった。

「えーっと、ナカムラくん? 何か落ちたよ」

 帰り際、通りすがりのクラスメイトがポケットから小銭を落としたことを教えてくれた。彼女の名前は何だったか。向こうは覚えてくれているのに、僕は彼女の名前を思い出せない。

「あ……」

 突然のことに上手く反応ができず、感謝の言葉を口ごもっているうちに、彼女は去っていってしまった。拾った小銭を握りしめながら、僕はやっぱり変わらないと、自嘲気味に笑った。

 学校を出る頃には、流石にもう決心はついていた。僕は地図で名刺に書かれている住所を確認し、家とは逆の方向へとゆっくり歩き出した。

 歩くと少し距離のある場所だったが、電車やバスを使うには面倒な場所だったので、散歩がてら歩いてみることにした。住所は隣街の『シモキタ』で、そう遠くないにも関わらず、僕はまだ一度も行ったことがない。しかもシモキタとシブヤの間は大きな壁によって仕切られているので、その街並みさえも見たことがなかった。

 イノカシラと呼ばれる廃線跡に沿って、閑静な住宅街を真っ直ぐ道なりに進み、途中のコマバにある古びた大学を通り過ぎると、急に人通りが少なくなる。シブヤの端である壁の前まで辿り着くと、周囲には人の気配がなく、しんとした薄暗い通りに猫の鳴き声だけが響いている。

 壁と言っても特に出入りが規制されているわけではなく、トンネルのようになっている入り口から普通にシモキタへと入ることができた。昔はこのシモキタとシブヤの間が完全に封鎖されていたらしく、そのときに作られた壁が今も壊されず残っているのだった。

 トンネルを抜けた先はシブヤとはまるで違う景色が広がっていた。ビルだらけのシブヤと違い、ほとんどの建物が平屋か二階建てで、一番高い建物でも五階建ての雑居ビルがせいぜいだった。そのせいか空がとても広く感じたが、晴れて空は明るいはずなのに、何故か街全体が薄暗く感じる。建物は今にも崩れてしまいそうな年季の入ったものばかりで、落書きやゴミなども放置されたままだった。

 幼い頃、周囲から「危ないからシモキタには行ってはいけない」と言われていたが、確かにお世辞にも治安がいいとは言えなさそうだった。人影はちらほらと見かけたが、不思議と音や気配がまるでなく、さながらゴーストタウンといった様子だ。どことなく淀んだ街の空気はアンダーグラウンドという言葉がまさに相応しく、僕は息を止めて歩みを早める。

 すぐ隣にこんな街があったとは驚きだった。まるでどこか遠い異国に来た気分になる。物語の中でしか見たことのないような光景が目の前に広がっていて、事実は小説より奇なりという言葉を実感する。

 そのままメインストリートを進んで中心に近づくと、人気が多くなりだいぶ活気が出てきた。ゴーストタウンからスラム街に昇格したような印象だ。しかし、依然として歓迎されていない雰囲気と所在なさに息が詰まった。

 シモキタも元はシブヤと同じく音楽の街であったらしく、道々で見かける看板などにその面影を見ることができた。また楽器を背負った人や、道の端で円になって歌(にしては変な感じだったが)を歌い合う人たちなんかもいて、今もこの寂れた街には音楽が生きているということがわかった。

「ここだ」

 ちょうど街を半分過ぎた辺りに目的の住所を見つける。そこは通りから少し外れたところにある雑居ビルだった。他の建物と同じようにずいぶん古く、外壁は剥がれ、窓ガラスはところどころ割れたままになっている。当然看板なんかは出ておらず、住所は合っていると言っても、本当に名刺の指す場所がここなのかどうかも定かではなかった。

 ――そもそも何をしに来たんだっけ。いざ来てみたはいいものの、どうしたかったというのか。もしあのサナ子さんに会ったら、何と話しかければいいだろう。

 僕はいつもこうだった。いざというときに立ち止まってしまって、何もできなくなってしまう。考えたって仕方ないとわかっているのに、どうしても身体が動いてくれない。

 そうやってビルの前で固まっていると、急に足元が揺れだしたように感じた。最初は地震かと思ったが、それにしては振動が細かく長い。その振動が足を伝って身体に響くのが心地良かった。そうだ、僕はこの振動を知っている。

 僕はビルの階段が上だけでなく、地下にも伸びていることに気付く。どうやらこの振動はその奥から漏れ出しているようだった。階段に近づくにつれて、振動がどんどん強く、激しくなっていく。

 振動に吸い込まれるようにして、さっきまで竦んでいた足がいつの間にか動き出していた。この先にずっと僕が追い求めていたものがある。ずっと探していて、けれど想像さえもできていなかったものが。そういう予感がしていた。

 ゆっくりと階段を降りる。振動が衝撃波のように僕の身体を打ちつけていた。心臓の鼓動が高鳴る。不思議と嫌な感じはしなかった。むしろその振動は僕を鼓舞し、扉の先へと誘う。旧知の友人のような親しみと、癇癪を起こした子どものような荒々しさと、自分を待つ家族のような温かさと、もっと色々なものが混ざり合って、僕の手をしっかりと握っている。

 赤く錆びた鉄のドアノブに手をかけ、重い扉をゆっくりと開ける。するとその隙間から溢れ出してきたのは、濁流のような音の粒たちだった。それらは僕を一気に飲み込み、自分たちの作り出す音楽という世界に引きずり込む。

 スピーカー越しではない、録音でもない。生の音が目の前で浮かんでは消えていく。その様子は四方に風が吹き荒れる春の嵐のように目まぐるしく、それなのに流れゆく一本の線として繋がっていて、どんどんと巨大な何かへと形を変えていく。僕はこれまで本当の意味で音楽というものを理解していなかった。これこそが、生きている音楽なのだ。

 僕は呆気にとられたまま、その場に立ち尽くしていた。演奏を終え、ベーシストの女性が僕の存在に気付く。目を細め、訝しげな顔で僕を見たあと、ベースを抱えたままゆっくりとこちらに近づいてきた。

「あーっと、悪いね、少年。ここ関係者以外立ち入り禁止なのよ。あとそこ、閉めてくれる? 音が漏れちゃうからさ」

 傷みきってボサボサになった真っ赤な髪と、同じ色をした傷だらけのベースを背負う彼女は、見紛うはずもなく、朝に会ったあの少女だった。

「てかあんた誰さ? どっかで会った気もするけど……」

 彼女は吊り上がった猫目で、品定めするように僕を舐めまわす。朝にぶつかった相手だということには気付いていないみたいだった。先ほどまで一緒に演奏していたギターとドラムの二人は、僕に全く興味がないらしく、こちらには目もくれずに各々楽器で手遊びをしていた。

「サナ子さん、ですよね……?」

「いやーよく知ってるじゃん。あたしも有名人だね」

 僕が質問に対し、彼女はそう言っておどけて見せた。しかしよく見ると目は全然笑っていなくて、僕のことを警戒して身構えているようだった。

「あ、違うんです。怪しい者ではなくて……。朝にぶつかったとき、これを拾って……」

 彼女は肩に背負っていたベースを片手で握り、今にも僕の頭に振りかざしてきそうな雰囲気を出していた。このままではまずいと思い、誤解を解こうと僕は慌ててポケットからあの名刺を差し出す。それを見て彼女は僕のことを思い出してくれたらしく、手に持ったベースを床に下ろし、幾分か警戒を和らげてくれた。

「あー思い出した。朝はぶつかっちゃって悪かったね。ちょっと急いでたもんで。それで、都会の学生さんがこんな辺鄙なところに何の用?」

 まだ歓迎とは程遠く、彼女は睨むように僕の目を見据えていた。その声は恐ろしく冷たく平坦で、僕の真意を詰問する。しかしそんな彼女を前にしても、僕は身じろぎせず、しっかりとその場に立つことができていた。それはたぶんまだ耳の奥でうねっているこの耳鳴りのおかげだ。僕は今なら何だってできる気がしていた。

「僕を、弟子にしてください」

「はあ?」

 彼女は僕の申し出に対し、意味がわからないという表情を浮かべた。僕だってよくわかっていないのだから当然だ。けれど、僕は今自分の中から溢れ出してくる言葉を抑えることができなかった。いや、これを抑えてはいけないと思った。

「僕はロックという音楽に出会って、文字通り世界が変わりました。今まで見えなかったものが見えて、聴こえなかった音が聴こえて、知らなかったことを知って、見つけられなかったものを見つけることができました。でもだからこそ、見たいもの、聴きたい音、知りたいこと、見つけたいものが増えていって、それらを探すために一層音楽を求めました。でもまだ足りない。僕はもっと音楽に、ロックに触れて、色んな世界を見てみたい。でも僕一人じゃ何もできなくて、だから、僕に世界を教えてほしいんです」

 頭に浮かんだことを何も整理せず言葉にしてしまったから、あまりに支離滅裂だったかもしれない。それでもこれが僕の今の気持ちで、今の僕にできる精一杯のロックだ。届かなくてもいい。意味不明だと一蹴されても構わない。これを言葉にできただけでも、僕は一歩前に進めた。

「あたしはさ、口だけの奴が大嫌いなんだ」

 頭を下げる僕に、彼女は容赦なく言葉を振りかざす。

「だから音楽で語ってみな」

「音楽で……?」

「そう。音楽なら何だっていいよ。楽器ができなくても歌なら歌えるだろ? それで全部わかるから」

 彼女はそう言うと、さっきまで演奏していたステージの方へ戻っていき、僕に手招きをする。僕は促されるまま、ステージの真ん中に立ち、マイクを握る。

「歌える曲はあるかい? あたしたちができる曲なら演奏してやるから」

 そう言われても、歌なんて音楽の授業くらいでしか歌ったことがなかった。色んな曲を貪るように聴いてきたけれど、自分で歌うことを想像して聴いたことなど一度もなく、どれが歌える曲かもわからない。

「何でもいいんだ。好きな曲、今歌いたい曲を言ってみ」

 僕が歌いたい曲。それなら、たぶん一曲しかない。

「『Good-bye For Anyone』って曲を」

 身体に染み付くほど聴いた曲だ。彼女の心を動かせるかはわからないが、身体の奥からふつふつと湧き上がり、胸の中でくすぶるこれを乗せるには、この曲しかない。

「ハハッ、いい曲選ぶじゃんか」

 三人は合図や目配せもないまま、完璧なタイミングで音を奏でる。その最初の一音は目の前で何かが破裂したかと錯覚するほど大きな音で、それによって僕は一気に彼らの演奏に引き込まれる。

 たった三人の演奏であるというのに、その音の厚みはオーケストラやビッグバンドを遥かに凌駕し、アクセントの度にジェット機が横をすり抜けていくような風が僕の頬をかすめる。原曲にあるリードギターのメロディがない分、激しいコードストロークによる疾走感が際立ち、より力強い曲に形を変えている。

 僕は危うくそのまま聴き入ってしまいそうになるが、自分がステージの真ん中に立っていることを思い出す。今の僕は彼女たちと同じ演奏者なのだ。観客など一人もいない、地下の薄汚れた小さなステージだけれど、僕にとっては最高のステージだった。

 イントロの最後の小節に入り、僕は深く息を吸う。バックの三人は僕が通れる道を作るように、音の中心にほんのわずかな隙間を開けてくれる。しかしそれは一歩踏み外せば谷底に落ちていくような細く不安定な道で、彼女たちは僕を試すように横から風を吹かせて煽ってくる。

 ――恐れるな。僕は自分に強く言い聞かせ、肺に溜めた息をゆっくりと吐き出す。歌は何も考えずとも喉の奥から湧き出てきた。僕は三人に振り落とされないよう必死になりながら、何とかメロディを曲に乗せていく。

 気付けば訳が分からないまま曲が終わっていて、僕は肩で大きく息をして、床に垂れるほど大量の汗を流していた。身体がとても重く、今にもその場に倒れてしまいたかった。霞む視界の先に、僕の方を見るサナ子さんの姿が浮かんでいる。

「あんた、名前は?」

 僕は乾き切ってひび割れた唇を何とか開き、彼女の質問に答える。

「イツ、ナカムライツです」

 彼女はにやりと口元を歪め、汗にまみれてくしゃくしゃになった僕の頭を雑に撫でた。僕はその勢いで床に倒れ、もう指一本さえまともに動かすことができなかった。

「なるほど、いい名前じゃんか」

 まだ彼女たちには遠く及ばない滅茶苦茶な音楽だったかもしれないけれど、とりあえずは及第点がもらえたようだった。僕はそこで緊張が解けたのか、そのまま魂が抜けるように意識を失った。

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