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 僕が初めて自分から音楽に触れたのは、中学校に上がってすぐの頃だった。兄の部屋からはいつも音楽が流れていて、その音に耳を傾けることが、滅多に言葉を発さない彼との唯一のコミュニケーションだった。

 両親が早くに交通事故で亡くなり、僕は訳もわからぬうちに兄と二人きりになった。あまりに幼かったので、そのときのことはほとんど覚えていない。葬儀に集まった喪服の集団が得体の知れない怪物に見えたのだけは、今も記憶に残っている。

 幸いなことに、叔父さんに引き取ってもらえることになって生活には困らなかった。しかし自分の家庭もある彼は、どうしても僕らの親代わりになるというのは難しかったようだ。彼は自分の子どもを優先し、敢えて不公平に振舞った。彼自身も僕らにどう接したらわからなかったのだろう。僕らには冷たく当たることも多く、子どもながらに肩身が狭かったのを覚えている。

「ほら、クリスマスプレゼントだよ」

 ある年のクリスマスに、叔父さんは自分の子どもたちにおもちゃを買ってきた。ぴかぴかに光るブリキのロボットと、色鮮やかな花の髪飾りだった。

「ありがとう!」

 子どもたちの幸せそうな笑顔に、彼も嬉しそうに笑った。僕たちは部屋の隅で窓の外を眺めながら、そんなやり取りを見て見ぬふりをする。白く曇った窓ガラスに触れると、その冷たさが身体の内側まで伝わった。

 兄が高校生になってからは、叔父さんの家から追い出されるような形で二人暮らしをすることになった。彼は最初のうちは週に一、二度様子を見に来てくれていたが、いつしかその頻度が減り、一年経つころにはほとんど会わなくなった。ここ数年は声さえ聞いておらず、月に一度振り込まれる生活費だけが、その存在を示していた。気遣うことのできない僕たちにとって、たぶんこの関係性はお互いのためにもいいことだった。

 親がいなくて悲しいとか、愛情を注いでくれない叔父のことを恨めしく思うとか、そういうことは全くなかった。僕からしてみれば親がいないのが普通だったし、金銭的な不自由はなかったので、むしろ気が楽なくらいだった。

 しかしやっぱりどこかで寂しさを感じていて、家族を求めていたんだと思う。僕は唯一の家族である兄に縋るような部分があった。彼がいたから生きていられたし、彼と一緒ならずっと生きていけると思っていた。

 だから彼のすべてを知りたくて、そのために彼の聴く音楽に触れようとした。

 その日、僕は意を決して彼の部屋に忍び込み、禁忌に触れるような気分で彼のCDに手を伸ばした。その音楽を聴けば、きっと彼のことを知れると思ったのだ。

 当時の僕は音楽のことなど全くわからず、どれを聴いたらいいかなど見当もつかなかった。とりあえずジャケットの気に入ったCDを手に取って、手探りでプレイヤーの再生ボタンを押した。

 今でもあのときのことは脳裏に焼き付いている。今までも、そしてこれからも、あれほどまでに衝撃的な音楽体験は二度とないだろう。それくらい僕の心を動かし、僕を変えてくれた瞬間だった。

 そのとき、僕はスピーカーから流れてくるその曲を聴いて、震えが止まらなかった。空気を揺らして全身に伝わるその音によって、今まで見ていた世界が全く違うものに変わっていく。視界が開け、風景は彩りを帯び、僕は自分が確かにここに存在しているということに気付く。メロディに乗せられた言葉の一つ一つが、僕には見えていなかった世界の細部を描き出し、その振り絞るようなボーカルの歌声に心の奥底にある衝動を掻き立てられる。

 広大な野原に立つ僕のすぐ横を激しい強風が通り抜けていき、気付くと僕は、音も色も言葉もない宇宙空間に放り出されていた。ぷかぷかと重力のなくなった世界を浮かびながら、この場所は夢みたいだと思った。

 あまりの出来事に、僕は音が鳴り止んだあとも、茫然として動くことができない。もうとっくに曲は終わって音は流れていないはずなのに、まだ耳の中で振動が渦巻いている。その残響がとても心地良くて、僕はいつまでもそれに浸っていたかった。

 目を瞑り、残響に包まれながらその余韻に浸る僕は、まるで温かい羊水の中で静かに眠っているようであり、何もない真っ白い部屋で一人佇んでいるようでもあった。世界と自分の境界が曖昧になり、それがかえって自分という存在を顕著にする。そう、僕は生きている。

 しばらくして家に帰ってきた兄は、自分の部屋で虚ろな目をして座り込んでいる僕を見て、怒ることはしなかった。黙って数枚のCDと古くなったコンポを差し出し、優しく僕の肩に手を置く。

「これはロックだ」

 代わりに彼はただ一言、それだけを口にした。その声は普段おとなしい兄からは想像もつかないほど力強く、意志に満ちた言葉のように感じた。僕はそのとき初めて、兄のその真っ直ぐな瞳を見た。

 そんな兄のおかげもあって、僕はずぶずぶと音楽の世界へのめり込んでいった。元々は兄を求めて手を伸ばした音楽だったが、そのときにはもう音楽自体に目的が変わっていた。ある意味、いい兄離れだったのかもしれない。

 僕が知らなかっただけで、この世界は音楽に満ち溢れていた。テレビやラジオからは絶えず音楽が流れているし、街にはCDショップや楽器店、ライブハウスなど、音楽にまつわる店が立ち並んでいた。路傍では若い音楽家たちによるエネルギッシュな生演奏が繰り広げられ、街の喧騒に負けじと、様々な音が入り乱れている。

 どうやらこのシブヤという街は、古くから音楽の聖地として栄えていて、今でも多くの音楽家たちが夢を求めてこの街へとやってくるらしい。それまでは子どもだったためにまるで意識していなかったが、実は僕の周りにもそこかしこに音楽が溢れていた。まさにここは『音楽の街』だった。

 やはり人気なのは若者が好むポップソングやダンスミュージックで、他にもジャズやクラシックは老若男女問わずリスナーが多い。『音楽の街』と呼ばれるだけあって、街を歩けばあらゆる音楽に出会うことができた。

 僕は街中のCDショップを隈なく探し、ときにはジャンクショップや露店市などにも足を運んで、あのときと同じ感情を呼び起こす音を探し続けた。しかしどこへ行っても、僕の求める音楽は一向に見つからない。彼の言っていた『ロック』という音楽は、この街には存在しない。

 実際、誰に聞いても首を横に振るばかりで、その音楽について知る者はいない。書籍やインターネットにもその情報はなく、もはやそれは兄の部屋だけに存在する幻なのではとさえ思えた。

 ただし街を歩いていると、ごくたまにあの音が聴こえてくることがあった。それはCDショップで流れる音やライブハウスのからこぼれる音、路上で通りすがった音、誰かのイヤホンから漏れ出す音など、そのときによってまちまちだった。

 右から左へと流れていくそんな雑音の中に、僕は微かに『ロック』の音を感じた。それは決まって一瞬で、振り返ったときにはもう消えてしまっている。けれどそのそよ風ほどの小さな息吹は、決して聞き間違いではなかった。そうして僕は確信する。『ロック』はきっとこの街のどこかで、今も息を潜めて生きているのだ、と。

 兄は僕が音楽に嵌り始めた頃から、あまり家に帰らなくなった。何も言わずに家を出ていき、何日か家を空けて、たまに夜遅くに帰ってくる。僕は彼がどこへ行くのか気になったが、他者を寄せ付けない空気を纏う彼に、何と声をかけたらいいかわからなかった。

 兄が帰らないことをいいことに、僕は彼のCDも聴き漁るようになった。そのコレクションは個人のものとしては恐ろしく膨大で、一生かかっても聴くことはできないと思えるほどだった。しかもそのほとんどすべてがロックやそれに類する音楽で、彼がそれらを一体どこから集めてきたのか不思議でならなかった。

 そうして僕が音楽の世界を知ってから数か月が経った頃。

 あれはまだ冬真っ盛りで、何年かぶりに街に雪が降るという予報が流れるほどに寒かった。中でもその日は特に冷え込んでいたが、あのとき感じた肌を締め付けるような冷たい空気は、今考えれば虫の知らせのような何かだったようにも思える。

「家を出ていくことにしたよ」

 兄はすれ違いざまに、唐突にそんなことを口にする。いつもと変わらぬ何気ない様子で、気を抜いていたら聞き逃してしまいそうだった。僕はあまりに突然の言葉によく意味が理解できず、何も答えることができない。おそらくこれはただならぬことだということは、彼の様子からも明らかだった。

「部屋のCDは全部あげる。自由に聴いてくれ」

 その言葉から、彼はもう戻ってくる気がないことが窺い知れた。彼は優しげな顔で笑っていたが、その視線が向かうのは僕ではない、どこか遠くの方を見ていた。

「どこに行くの?」

 もっと聞きたいことはたくさんあったし、言いたいことはたくさんあった。けれど、僕は反射的に浮かんだその質問を投げかけるので精一杯だった。彼は僕の問いに軽く微笑んだあと、しばらく考え込んでから言った。

「どこか知らないところ、かな」

 そのまま彼はまるでコンビニでも行くみたいに気楽な様子で家出をした。理由は叔父さんにも友人にも学校の先生にも、当然僕にだってわからなかった。あれから三年が経ったけれど、戻ってくるどころか、連絡の一つもない。

 いつの間にか親戚の中では兄のことに触れるのはタブーになっていて、最初からいなかったみたいにみんな知らないふりをした。叔父さんはそれ以来、僕とは目を合わせることすらしなくなった。

 兄がいなくなったあとも、僕はたびたび彼の部屋に入っては壁一面のCDを聴き漁った。一曲一曲を聴く度に、何だか少しずつ兄のことがわかるような気がして、僕はいつしか音楽の中に兄の存在を探すようになった。それは大木の葉を一枚ずつ見分していくような果てしない作業であったけれど、あのときの僕にはそれしか兄の足跡を辿る方法がなかった。

 彼はどこへ行ったのか。その疑問がいつまでも頭の中を巡っていた。音楽を聴き、兄の追体験をして、どんなに彼の思考や感情、そして人生を想像しても、それは僕の中の彼でしかない。だから本当の彼を知ることなどできるはずもなかった。

 彼の言った『知らないところ』というのは、一体どんなところなのだろう。彼はどうしてそこへ行こうと決めたのだろう。そこには何があるというのだろう。

 今になって思えば、兄は昔から僕にはよくわからない人だった。だから彼を知るために、彼の聴く音楽を聴こうと思ったのだった。

 彼はとても頭がよくて、いつも何かを考えていた。そしてそれ故に繊細で、おそらく普通の人が見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうようなことが、彼には耐えられなかった。事あるごとに彼は悲しみに溺れ、やり場のない苦しみに押し潰さたような顔をした。彼がそんな顔をするときは、どんなことを考えているのか僕には想像もできなかった。

 あれはいつのことだったか。ある日、僕と兄は叔父さんからお遣いを頼まれ、その帰り道に道に置かれた捨て猫を見つけた。その猫は見たところまだ生まれたばかりで、その体躯はおよそ生き物とは思えないほど小さく、幼かった僕にはそれが僕らと同じように生きているとは到底思えなかった。

 じっとその猫を見つめる兄を横目に、僕は恐る恐る手を伸ばす。すると猫はまるで世界への怒りをすべて吐き出すみたいに、歯をむき出しにして激しく叫び声を上げた。

「わっ!」

 僕は思わず後ろに仰け反って尻もちをつく。そのあとは怖くなってしまって、その猫の顔を見ることができなかった。猫が生きていることにとても驚いて、何故だかそれが恐ろしくて仕方なかった。

 しかし、兄はその一部始終が全く見えていなかったみたいに微動だにせず、ただ真っ直ぐ猫の瞳を見つめていた。僕がどんなに呼びかけても、陽が沈んで辺りが暗くなっていっても、彼は何も言わず、今にも壊れてしまいそうな顔で猫と向き合っていた。僕は今でもあのときの彼の後ろ姿が忘れられない。

 僕はそんな得体の知れない彼に対し、畏怖と憧れを同時に抱いていた。彼は寡黙で、誰ともほとんど会話をせず、弟の僕にさえほとんど話しかけることはなかったが、僕はずっと彼のことを知りたいと思っていた。それがこうして彼のいなくなった今になって、音楽を聴くことで実現しているのだから、何とも皮肉なものだ。

 その日もいつものように、学校から帰るとすぐ兄の部屋に籠って大量のCDを聴き漁っていた。棚から取り出したCDを順番にかけていると、ふと部屋の端に目が留まる。今まではなるべくCD以外には触れないように意識していたのだが、そのときはどうしてか、無性に隅に置いてある段ボールが気になった。どうやら何か入っているようだったが、上が閉められているので、僕のいるところからでは中身までは確認することができない。

 勝手に兄の部屋を物色するような真似は気が引けたが、どうしても興味を抑え切れなかった。段々とあの中に兄を知る手がかりがあって、兄の行き先を知れる気がした。少し中身を見るだけだと自分に言い聞かせて、僕は箱をゆっくりと開けた。

「これは……?」

 ずっしりと重みがあり、一人では持ち上げるのも大変なその箱の中には、大量のCDが敷き詰められていた。それもすべて同じもののようで、どれもフィルムのかかった未開封の状態だった。

 そのCDは表も裏も真っ白のジャケットで、真ん中に小さくタイトルだけが書かれているというシンプルなデザインだった。『Good-bye For Anyone.』。僕はそのタイトルを見て、まるで兄が残した最後の言葉のように思えた。

 僕は箱からCDを一枚取り出して、プレイヤーに入れる。歌詞カードを開くと、英語の歌詞とその日本語訳が対になって書かれていた。どうやら表題の一曲しか入っていないようだ。そしてジャケットに書かれていたのは、曲のタイトルでありバンド名でもあったらしい。僕は小刻みに震える手で再生ボタンを押す。

 ドラムのフォーカウントに続いて、破裂するような勢いとともに曲が始まる。駆け抜けるようなエイトビートに乗ったギターとベースが、僕の目の前に青い空を描いていく。少し耳障りなほど激しくかき鳴らされるバッキングギターと、その上に乗るメロディアスなリードギター、そしてその二つの間に立って繋ぎ合わせる役目を果たすベースと、それらすべてを乗せて運んでいく力強いドラム。精巧さはまるでなく、粗削りだが、それがどこか心地良い。

 イントロが終わり、そんなパンキッシュな音の上に歌が入ってくる。ボーカルはイントロの激しさからは想像もつかないほど柔らかく優しげな声をしていて、そんな演奏とのミスマッチ感が独特の空気を作り出していた。透き通るようなメロディの先に、どこか切なさを残し、進んでいく曲が通った跡にその歌だけが残響のように広がっていく。

 僕は海辺に立っていた。これはたぶん僕の記憶にさえない、僕の生まれた街の原風景だ。人気のない海辺の街は、青い空と照り付ける太陽に晒されながら、ゆらゆらと寂しげに揺れている。兄の足跡だけが砂浜にぽつぽつと続いていて、その先はあまりに遠い。


  Good-bye for anyone.

  I sing that word.

  Think lasting your thought,

  if you can`t see anything in the future.


  (誰のためでもないさよなら

   僕は小さく口ずさむ

   たとえ行く先に何もなくても 

   決して思考を止めてはいけない)


 耳でメロディを聴きながら、目で対訳の歌詞を追った。何度もリフレインされる『Good-bye For Anyone.』というフレーズが、僕の心に強く打ちつける。この感覚は初めて音楽に触れたときと同じだ。世界が色を帯び、僕の前にありありと現れる。そして僕と世界の境界を明確にして、僕は気付く。こんなところに僕はいたのか、と。

 生まれて初めて聴いた音。初めて目にした光の色。立ち上がって見た景色。両親と暮らした街。兄とよく遊んだ公園。喪服の隊列。訳もなく流れる涙。叔父の家。家族になれなかった家族たち。兄にもらったスピーカー。そして、最後に見た兄の笑顔。

「そうか」

 僕はようやく、兄がここを出て向かった先がわかった。

 きっと彼はこの先の景色を求めたんだ。

 曲が終わると、僕の目には涙が溢れていた。自分でもどうしてこんなに涙が出るのかわからない。けれど不思議と嫌ではなかった。耳鳴りと心臓の鼓動が身体中に響き渡っている。僕は生きている、そう感じた。

『Lyric&Song by Saku Nakamura』

 歌詞カードの一番最後には、小さくそうクレジットされていた。

それは紛うことなく、僕の兄の名前だった。

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