この残響をさよならの代わりに

紙野 七

トラック1 Boy Meets Rock 'n' Roll

1-1

 僕はこの街が嫌いだ。

 嗅ぎ慣れた排気ガスの臭い。そそり立つコンクリートの壁。猫が鳴き、犬が吠え、カラスが叫び声を上げる横を、絶えず人々が行き交っている。彼らの足音と、道路を走る車の振動が、この街の胎動となって地面を伝い響き渡る。重く澱んだこの街の中で、空だけが青く、どこまでも澄み渡っていた。

 僕は飽きるほど眺めた空に目をやりながら、いつものように学校へと歩いていく。足早に過ぎ行く人々にすれ違いざまに肩をぶつけられながら、僕は必死に足を前へと進める。立ち止まることも許されず、僕は流されるままに今日をやり過ごすのだ。

 ここは雑多な街だ。人も、物も、音も、匂いも、街に漂う空気さえも、すべてがこの街のものでありながらこの街のものでない。元が何だったかもわからないほどに、様々なものが混じり合っているのだ。だからこの街にいると、僕は自分がどこにいるのかよくわからなくなった。この街はどこまでも空虚で、何もない街だ。そしてこの街は、今日もいつもと変わらぬ賑わいを見せている。

 けれど僕はこの街を出ることはできない。たぶん一生ここで死んだように生きていくのだろう。月並みな思考と人並みの苦悩と、波打つ街の音に埋もれながら、何も期待していないふりをして、一日を無為に過ごしていく。ここはそういう場所なのだ。

 道行く人々はみな街の喧騒から逃げるようにして、閉鎖された音楽によって耳を塞いでいる。明るく軽快なポップソング。格調高い古典的クラシック。躍動的で力強い民族音楽。暗闇に響く落ち着いたジャズ。大自然を想起させる爽やかなボサノヴァ。包み込むような美しいゴスペル。筋肉を刺激する攻撃的なダンスミュージック。耳にはめた小さなスピーカーから流れる音を聞き、それぞれが思う最高の白昼夢に浸りながら、人々は街の脈動を形成している。

 そんなこの街が奏でる音に耳を傾けているのは、おそらく僕ただ一人だった。誰も気付いてはいないのだ。この街が生きていることに。

 しかし、僕もこの街の音が好きなのではなかった。僕は待っているのだ。雑多なまま妙なバランスで成り立っているこの奇妙な場所を、一気に打ち壊してくれるような劇的な音。いつの間にか人々に忘れられた、時代錯誤でノスタルジックな音。僕らの心を底の方から奮い立たせてくれるような音楽。


 あれは僕にとっての救世主だ。


 暗い気持ちも、鬱屈とした心も、麻痺した思考も、目を逸らしたこの世界も、そのすべてを肯定し、そして拒絶し、僕らに色とりどりの光を与えてくれる。矛盾だらけで、人間臭くて、決して正解のない、僕らの音楽。

「来た」

 突如、周りを歩く人々が怪訝な顔でイヤホンを外した。一定だった街のリズムが途切れ、その波紋が少しずつ全体に広がる。そうしてちぐはぐだったこの街の音が、一つの音に掻き消されていく。

 待ちわびた瞬間への興奮を抑え、僕は静かに身体を反転させる。ほんの少しだけだが、決まりきった日常から足を外す。そして人の流れに逆らって歩きながら、ポケットから出したイヤホンをそっと耳にはめた。ちょうどぴったりのタイミングだ。

「それじゃあ聞いてくれ。『Boy Meets Rock 'n' Roll』」

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