第9話 雌伏の馬鹿騒ぎ
王都は春の陽気に賑わっていた。
外国商人の到来に市場は沸き、目新しい商品が街中に熱気を与えている。余波を受けた夜の酒場も騒がしく、しかし往時と比べればどこか物足りない。
中央で盛り上がる酔漢たちを見やりながら、フェクトは酒場の隅で酒杯を呷った。
もどかしい状況だ。本当なら自分も交じって馬鹿騒ぎの中心にいたいが、目立つのは避けたい。だからと言って普段通りに振舞わなければ怪しまれてしまう。
「兄貴! 帰ってきてたんですね!」
男の野太い怒声が響き、酒場が一瞬静かになる。即座に力強い足音が鳴り響き、酒場の喧騒が戻ってきた。
「良いから酒だ! 一番良いの持って来いよ!」
駆け寄ってきた巨魁はそう叫びながら、フェクトの向かいに喜色満面腰を下ろした。
「今日は何しますか、馬鹿共ならすぐに集まってきますぜ」
「いらん。それより俺がいない間に変わった事はあったか、ブルパ」
巨魁──ブルパは笑みを浮かべたまま顎に手を当てた。
「と言われましてもねえ、兄貴がいない間、王都なんて棺桶同然でしたよ。兄貴こそ小娘との二人旅はどうだったんですか。もうとっくにこましたんですかい?」
フェクトは鼻で笑って吐き捨てた。
「あほか、そんな立派な女じゃねえよ」
「またまた。あの女を気に入ったから護衛の話を引き受けたんでしょう?」
「あいつの養父と親父が知り合いでな、ご機嫌取りだよ。それより情報だ。噂でも良い。そうだな、例えばトロネット山が消えたとか」
自然な動作で酒杯を傾け、フェクトはブルパの反応を盗み見る。
「ああ、あれですか。どうせ耄碌爺か守銭奴巫覡のホラですよ」
自分とトロネット山消滅の関係を疑っている様子は微塵もない。世間もブルパと似たような反応だろう。トロネット山消滅を発端とした脅威の方は、もう少しだけ猶予があるか。
「ただそうですね、その件で修道会が動いたって話を聞きました」
「……修道会がねえ」
修道会は、学者であるランカたち神学者の手足となって動く実働部隊だ。穏健とは正反対で軍事色が強く、神学者の独特な立場から天領だけでなく家臣の領土にまで手を出す超法規的措置をとることも少なくない。
「案外、トロネット山が消えたのも本当かもな」
「楽しそうな話をしてるな、お二人さん」
眼付きの鋭い禿散らかった男が卓に座ってきた。衛兵の正装をきっちり着こなし、自分用に作らせた悪趣味な酒杯を手にしている。
「仕事中だろ、大将」
フェクトが言うと、禿散らかった男は大笑いした。
「見回りだよ、見回り。外から見るだけじゃ分かんねえ事も、こうやって中に入ってると色々見えてくる。……どうした、フェクト。妙に大人しいじゃねえか」
禿散らかった男は黄色い歯を見せて笑む。フェクトは表情を変えずに酒を口にした。
「上司に点数稼ぎせっつかれたか?」
鼻で笑い、禿散らかった男は立ち上がった。
「違えよ、新顔だ。夜の王都はフェクト、お前のもんだ。そこに新顔が小汚い足で踏み込んできた。こりゃ王様が直々に出迎えてやらねえとな。おい、連れてこい!」
純朴な田舎者のような青年が、二人の暴漢に挟まれて現れた。表情はひきつり視線は落ち着かず、脚は後ろに下がろうと虚しく抗っている。
禿散らかった男は田舎者の胸倉を掴み上げた。
「罵倒は挨拶、喧嘩は前戯! それがここの流儀だ。明日からここに来たいなら、お前はフェクトと殴り合え。目覚めた時にはお前もここの一員だ」
田舎者の口が開く。出てきたのは声にならないか細い息だった。ブルパは呆れたように酒飲みに集中している。フェクトは、音を立てて酒杯を置いた。
「ここに、そんな決まりはねえ」
田舎者を殴るように、禿散らかった男は胸倉から手を離した。
「どうした、フェクト? お前はこの街の屑どもを制圧して君臨した、悪の王様だ。それが殴り合いを嫌がるのか?」
短く笑い、フェクトは腰を上げた。さりげなく様子を窺っていた周囲の人間が色めき立つ。フェクトは田舎者に近づいていく。
「ぼ、僕はそんなつもりじゃ……」
田舎者の眼から涙がこぼれた。両脇の暴漢たちの顔がにやにや笑っている。周囲の人間は沸き立ち、思い思いに歓声を上げている。
フェクトは、田舎者の首根っこを鷲掴んだ。右拳を見せつけるように大きく振りかぶり、小便を我慢するように震えている田舎者を睨みつける。
「動くなよ」
左の暴漢を殴った。素早く、右の暴漢も殴り飛ばす。
「生贄はてめえらだ!」
観客が獣のように叫んだ。卓や椅子はあっという間に運び出され、観客が壁になった即席の闘技場が出来上がる。田舎者は四つん這いで壁に逃れて消え、二人の暴漢は嬉しそうに飛び起きた。
「来いよ馬鹿共!」
賭けが始まった。殴り合いが始まった。
顎に拳が飛んできた。フェクトは上体の動きで躱す。追撃。それも躱した。さらに追撃。躱しながら壁際まで下がっていく。
観客の壁にぶつかる直前、フェクトは足を止めた。暴漢が拳を出そうとする。フェクトは姿勢を低くする。脚に力を籠める。暴漢の顎に狙いを定める。
暴漢の躰が浮き上がった。
観客が狂乱する。暴漢が崩れ落ちる。もう一人が猛然と突っ込んできた。フェクトは足を広げて受け止める。それでも暴漢は勢いを止めなかった。
フェクトはちらりと観客の壁を確認する。それから、後退した。暴漢が吠える。フェクトは観客の壁に沿って下がっていく。歓声が二人を追ってくる。
一周した。暴漢をいなして急転換、横から腹を抱えて暴漢を持ち上げる。
「行くぞおぉぉ!」
暴漢ごと後方に倒れこむ。衝撃を全て押し付ける。フェクトは瞬時に起き上がり、暴漢に馬乗りになった。
「終わりだ糞野郎」
顔面に拳を叩き込んだ。観客が一斉に杯を投げ上げる。酒場がびりびり震えていた。感極まった観客が雪崩れ込んでくる。
不意に、腰の違和感に気付いた。
咄嗟に手を伸ばす。柄巻きがぼろぼろの剣がない。辺りを見回す。知らない人間、見知った顔、喜んでいる人間、賭けに負けて泣いている奴ら。禿散らかった男の姿がない。
「よりによって、あれを盗むとはな!」
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