第6話 神の遺産
数歩進んだだけで辺りから光が消えた。ランカは闇を見通そうと懸命に眼を凝らし、それでも見えない常闇をほとんど感覚だけで進んでいく。
追手の気配は容赦なく迫ってくる。梢や枝葉にぶつかる音が近づいてくる。互いに音を立てあって、深夜の森を騒がしくしている。
音を殺さないといけない。分かっていても足が止まらなかった。心臓が激しく脈打ち、速度は牛歩同然なのに息が乱れている。背中はあっという間に冷や汗でびしょ濡れだ。
捕まれば尋問される。拷問される。殺される。何をされてもおかしくない。自分が握っているものはそれほどまでの代物だ。
だからこそ、捕まるわけにはいかない。
この闇では無意味と分かっていても眼を皿にし、縦横を走る樹の根や蔦に気を払い、背後の物音に耳をそばだたせる。
音が離れていくような気がした。
それが真実か錯覚か確かめる余裕ははなかった。できるだけ気配を消して近くの茂みに身を隠す。眼をつむって聴覚に全神経を集中させる。
追手の位置は特定できそうになかった。微かに音は聞こえるが、それが森本来のざわめきなのか、追手が放つ異音なのかの区別がつかない。でも、自分にできる事は隠れているだけだ。その間にフェクトが追手を始末してくれる。自分はもう囮としての役目は果した筈だ。これ以上はフェクトの邪魔にしかならない。
次第に息が整ってきた。冷や汗で濡れた背中が寒くなり、恐怖が和らいで開きかかった躰がまたも縮こまっていく。
不意に、ランカの頭に暗い想像が浮かんだ。
戦闘音がいつまでも聞こえてこない。森に音が吸い込まれているのか。それとも何かしらの理由で戦闘が起こっていないのか。冷静さを取り戻した頭が勝手に不安を掻き立てる。
止めよう。怖いだけで良い事なんて何一つない。それより楽しい事を考えよう。
自分は今、トロネット山にいる。ここには第二の『神』の遺産がある筈だ。
興奮してきた。躰の芯が熱くなっていく、瞬く間に手足の先まで熱が回る。足を動かしたい衝動が強烈にこみ上げてきた。
駄目だ。
今動いてはいけない。フェクトの邪魔になることは勿論、自分の命さえ危うくする行為だ。フェクトが良いと言うまで動いてはいけない。
ランカ! そのまま行ってあれを探してこい! 時間は俺が稼ぐ! 唐突にフェクトの言葉が蘇る。分かっている。あれは囮としての役目を強くする為に言ったものだ。
でも、言質は取った。
そう思うともう抑えられなかった。あの時『神』の遺産の存在に気付いた時、フェクトの護衛を頼もうと決めた時、自分は変わると誓った筈だ。ウォースイ邸という檻に一人籠って読書に耽るだけのランカ・ウォースイはもういない。
ここにいるのは、『神』の遺産を暴き、保護するランカ・ウォースイだ。
近くに敵の気配はない。今なら大丈夫だ。ランカはそろりと立ち上がり、足の裏で傾斜を確かめて山頂を目指していく。
やがて、月明かりが注いでいる場所に出くわした。大岩が占拠して開けてはいないが、探していたものに違いない。
第二の『神』の遺産、その手がかりだ。
大岩の周囲を潜って目印を探す。一週目は見つからなかった。気落ちしかけた心を奮い立たせる。目印が刻まれたのは遥か数百年前だ。深夜でも簡単に見つけられる程鮮明に残っているわけがない。
今度は両手を添えて、大岩にへばりつくように探した。
「……あった」
刃物で雑に刻まれた三角形の印。これこそがあの暗号に記されていた印だ。これで自分の大まかな居場所も判明した。方角も星の位置である程度は分かる。
葉擦れの音が鳴った。
振り返る。眼を凝らす。息を殺す。心臓が早鐘を打つ。
誰もいなかった。
小動物の類か。ランカの口から知らず知らずに吐息が漏れた。
「大丈夫、行こう……」
闇に包まれた障害物だらけの森を進み、次々に大岩とそこに刻まれた印を発見していく。そして、ついにそこに到着した。
ぽっかり開けたその場所には何もない。大岩どころか高い草木すら生えていない。その理由は足を踏み入れた瞬間に分かった。
岩盤がある。下草と苔に覆われて分かりづらいが、明らかに硬い感触が伝わってくる。
「……ここだ! 間違いない」
ランカは跪き、猛然と下草を毟り取り爪で苔を削いでいく。
字が見えた。刃物で刻まれた雑な古代文字が、数百年越しに姿を現した。しかし読めない。微かな月明りでは解読に心もとない。
既に、ランカの頭から追手の存在は消えていた。躊躇なく燭台に火をつけて、岩盤の文字を照らし出す。
それは『神』の遺産を発動させる為に必要な呪文だった。直ぐにその部分の解読を終えると、ランカは素手で岩盤の大掃除を始めた。
しばらくすると、岩盤はほとんどの表面を晒した。あと少しで全容があらわになる。そう思うと冷たくなった指先に力が入った。
「おい」
男の声。ようやく思い出す。追手がいたんだった。ランカは飛び上がって声の主に正対した。
「地面にかしずくなんて変わった趣味だな」
フェクトだった。ランカは深々と息を吐き、フェクトの手にある短剣に気付いた。
「追手はどうなりました」
「あ? ああ、大体倒した筈だ。ただ、全員とは言い切れないな。まあ、お前は気にするな。『神』の遺産を調べてるんだろ。俺が辺りを警戒してるから好きに調べると良い」
言って、フェクトは短剣に眼を落とす。
きらりとした綺麗な光。刃に反射した月明りは、奇妙に美しかった。まるで未使用品みたいな輝きだ。
「お願いします」
あと少しで第二の『神』の遺産が姿を現す。それ以外に興味はない。ランカは再び膝を着き、岩盤の掃除を始めた。
「ふうん。こんなものがトロネット山にあったとはな」
フェクトが岩盤を歩き回る。ランカは無心で下草を毟る。フェクトがランカに近づいていく。
「なあ、ランカ。口紅はどんな色が好きなんだ?」
ランカは答えない。フェクトは肩を竦める。ようやく苔を削ぎ終えた。後は全容を解明するだけだ。フェクトが短剣を振り上げる。
岩盤が、淡い光を帯びた。
いや、発光しているのは岩盤ではない。彫られた文字群だ。フェクトが自然な動作で短剣を下ろした。
「何をした」
「分かりません。分かりませんが、これは」
発光がますます強くなっていく。それから足の裏に振動を感じた。
光は岩盤そのものを照らし上げ、仄かな月明りを押し返す。共鳴するように揺れも激しくなり、岩盤が地面からせり上がっていく。
まずい。何が起こるかは分からないが、これが何なのかは察しが付く。
「『神』の遺産が発動しました!」
「止めろ!」
「無理です!」
発光はさらに強くなり、激しく眼球を突き刺した。揺れは岩盤どころか傍の樹木すらも揺るがして、突風に吹かれたように騒めいている。
本能が死を警告する。走って逃げるのは不可能だ。摂れる手段は一つしかない。ランカはフェクトの手を掴み、第一の『神』の遺産を発動する。
「鬱屈とした心は隔離され、散々とした躰は貫かれる。追討する貴方は口角を上げ、嘲る私はそこにいた」
辺りは、白に包まれた。
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