第2話 結局の旅立ち

ザントア・マルガントは自宅の玄関扉を勢い良く開けた。


 今日が最後通告だ。決意を胸に、ザントアは廊下を足早に進んでいく。そして、内庭で木剣を振るう息子を認めた。


 滑らかでいて要所に異様なまでの鋭さがある。型稽古とはいえ、これほどの動きができる人間がどれほどいるか。もはや武芸に文句のつけようはない。学問に至っても優れた能力を発揮していた。かつては長男でないことを惜しみ、それでも一角の貴族になることは疑ってもいなかった。


 それが、十二の頃にマルガント領を出て王都に居着き、暴漢に落ちぶれた。


「フェクト、話がある」


 上半身裸のフェクトは構わず、度々意味深な笑いを漏らしながら木剣を振るい続ける。


「他の事もそれぐらい真面目にならないのか」


 フェクトが手を止めた。空を仰いで息を吐き、子供のいたずらっぽい笑みを漏らして木剣を投げ捨てる。


「獲物は自分で片付けろ」


「あ? 親父いたのか。誰かが片付けるだろ」


 フェクトは足元の布で躰の汗を拭い始める。ザントアは口を開きかけ、一面真っ白の口髭を弄って息を吐いた。


「……儂も忙しい、手短に話す。ランカ・ウォースイ殿は知っているな」


「唯一の女神学者。それだけが取り柄の人間だろ」


「余計なことを言うな。知っているならそれで良い。ウォースイ嬢は『神』の調査の為、今日の昼に旅立つ」


「ご立派。尊敬するね」


「フェクト、お前はその護衛だ」


 フェクトは、ザントアを見つめた。それから汗を拭った布を見せつけるように地面に落とし、にやりと笑う。


「やだね。俺である必要性がない」


「しかし、他に用事があるわけでもない」


「俺の用事は急にできるんだよ。だから常に開けておかないとな」


「フェクト、これは命令ではない。頼んでいるのだ。やってくれるな?」


「忙しいんだろ? 答えなんてわかり切ってるんだからはっきり言ったらどうだ。そうしないと楽しいお喋りはいつまでも続くぜ?」


 ザントアのこめかみが痙攣した。分かっていた事だ。分かっていたのに放置していたからこうなった。


「……自発的に引き受ける気はないのだな?」


「あるわけない」


 これが、つけか。 


「……新学長であるバートマ・ウォースイ殿直々の頼みだ。断る事は何があっても許されない。もし断るなら」


 フェクトが口笛を吹き鳴らした。


「素晴らしい気概で賞でも貰えるのかよ」


 ザントアは、ゆっくり首を振る。


「実家に強制送還だ」


 舌打ち、フェクトの表情が苦くなった。


「見張りを百人、それで足りなければ二百人付ける。そして帰り着けば、一生館から出さない。何があろうともだ」


 フェクトは大仰な手ぶりをつけて、わざとらしく驚いた。


「素晴らしいお父様だ! 口づけしてくれよ、地面に」


「ご婦人方を泣かせるわけにはいかん」


「笑い過ぎて泣いてんだよ。女を喜ばせるのは大好きだろ?」


「その血を引いたお前だから、ウォースイ嬢を任せられる」


 フェクトは笑顔のまま、歯を食いしばった。


「そんなに信頼されてたなんて、初めて知ったな」


「果たさなければ実家に強制送還だ。当然、見張りは全て精鋭だ。いくらお前でも逃れる術はない。退屈な実家で一生を終えるのは嫌だろう?」


 ふっと表情が緩み、フェクトは後頭部を掻く。


「……なんだよ急に。気に障る事でもしたか」


「王都に来てから、儂の気に障らない事を一度でもしたか?」


 にんまりと、フェクトは歯を剥いた。


「ない」


「やれ、良いな?」


 返事も待たず、ザントアは身を翻す


 これでフェクトの退路は断った。思えばここまでの強硬手段に出たのは初めての事だ。もっと早くこうしていれば、フェクトが毎日のように馬鹿騒ぎに興じる事もなかっただろう。


「失敗して困るのは親父だぜ!」


 今更、構うものか。


「共に困ろう息子よ!」




 様々な屋台から延びる影は一様に薄く細長くなっている。その中に身を潜ませるように、ぼさぼさの長髪の少女は佇んでいた。すぐ傍の活気からも孤立して、さながら墓地に立つ幽霊だ。


 フェクトは、盛大に溜息を吐いた。


「……初めまして、お嬢様」


 少女──ランカ・ウォースイが無表情の顔を上げ、フェクトを見て微かに口角を緩ませた。


「お久しぶりです。遅かったですね」


「俺にとって、昼と言えばこの時間なんだよ」


「つまり約束は守っていただけると。ありがとうございます」


 ランカは初対面の時と変わらず野暮ったい見た目だ。それなのに、完全に主導権を握られている。どこで見誤ったか。


「良いのか、昼夜逆転の旅になるってことだぞ。俺には男の兄弟だけでも大勢いる。そっちに頼んだらどうだ。今なんか丁度真面目なブライトがいるぞ」


「いえ、フェクト・マルガント殿にお願いします」


 解せないな。自分に護衛を頼むなど正気の沙汰とは思えない。それならまだ、家畜を連れて行った方がいざという時の腹の足しになる分役に立つ。一体、何の企みがある。


「まさか俺たちは幼馴染で、小さい頃にそういう約束でもしてたか」


「この間が初対面です」


「だよな。良かったよ」


 流石に純真だった頃の約束を破るのは気が引ける。勿論、事実でも守るつもりはない。


「ぐずぐずしていると日が暮れます。私は野宿でも昼夜逆転でも構いませんから、早くいきましょう」


「別に逃げるものじゃないんだ。まずは武具の支度をしたい。出発はそれからにしよう」


 ランカの視線が、フェクトが腰に下げる柄巻きがぼろぼろの剣に向いた。


「それは武器ではないのですか」


 フェクトは剣の柄を軽く叩く。


「これは飾りだ。武器じゃない」


「そうですか。そういった物を持ち運べる余裕があるなら、新たな武器は必要ないでしょう。それと、他に必要な物も同様です」


 お見通しか。フェクトはくつくつと笑った。


「武具の次は食料、次は馬かな。その繰り返しで二日は稼げる。俺は意外としつこいからな、お前が諦めるまで何日も続けるぞ」


「私はマルガント殿を諦めません。苦しむのはマルガント殿ですよ」


 つまらない小娘といつまでも遊び続ける。想像するだけで狂いそうになる。それなら早いところ護衛の任を済ませるのもアリか。つい、そう思ってしまった。


「……負けたよ、お嬢様。いや、ランカ」


 かっ、とランカが眼を見開いた。何か言いたげに、その唇が震えている。


「おや、男に名前を呼ばれたのは初めてか、ランカ。俺に礼儀なんて期待するなよ、ランカ。そんなものうちの母親の子宮にも入ってねえぞ、ランカ。ああ……とりあえずランカ」


 無言でランカは歩き出した。フェクトは笑いながら後を追う。するとランカはフェクトから顔を隠すように、ぼさぼさの前髪を弄り始めた。


「……マルガント殿のお好きなように呼んでください。私の護衛さえ全うしていただけるなら、こちらも文句はありません」


 思ったより面白い奴だ。これで見誤ったのは二度目か。


 だからこそ、残念だ。


 ランカの護衛。酒場での馬鹿騒ぎに比べれば拷問以上の苦行だ。しかもそれがいつまで続くか分からないときた。さらに、断れば地獄のように退屈な実家に強制送還されると脅された。


 最悪な気分だ。どちらを選んでも最低の苦しみしか待っていない。


 ならば、第三の道を切り開こう。


 ランカと一緒にいるなんて御免だ。では捨てよう。実家への強制送還が待っている。では尤もらしい理由を用意しよう。


 死体となったランカの姿が、ありありと眼に浮かぶ。


「麗しの王都よ、俺は必ず帰ってくるぞ……一人でな」

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