消神が落胤

@heyheyhey

第1話 少年と少女の出会い 酒場

 夜の王都は暗くても、昼にもまして騒がしかった。大通りの石畳を撫でるように進む少女の足音は掻き消され、ため息は口から出た途端に吹き飛ばされる。


 その喧騒を放つのはたった一軒の酒場だった。闇にぽっかり光を広げ、蛾のように群がる人々を吸い込んでいる。


 あれが目的地だ。少女は生唾を飲み込み、慎重に酒場へ近づいていく。


 一人の男が視界を横切った。春になったばかりでまだまだ肌寒いというのに毛深い躰を曝け出し、真っ赤な肩を怒らせ店内に消えていく。他にも露出の多い年かさの女が徒党を組んで嬌声を上げ、揃いも揃って千鳥足で雪崩れ込んでいる。


 こんな人種がいるなんて知らなかった。今からあんな人間ばかりがいる酒場に入ると思うと躰は固く縮こまり、激しい喧騒で眩暈が起きそうだ。


「退け、小娘が!」


 野太い怒鳴り声が耳元で響いた。驚く間もなく、同じ声の陽気な笑いが遠ざかっていく。今度は舌打ちが聞こえた。


 ただ酒場に入ろうとしているだけでこの仕打ち。やっぱりここは今まで自分が暮らしてきた世界とは違う。少女はか細い己の肩を抱き、酒場に足を踏み入れた。


 行く先は探すまでもなかった。酒場の中央にやたらと盛り上がっている集団がいる。中心は人の壁で全く見えないが、あの人物がそこにいる事は疑いようもない。


 少女は深呼吸をした。その拍子に吐瀉物の臭いが胸一杯に広がり、不快感が背筋を走り抜ける。早く行こう。少女は拳を握り締め、中央の集団に歩み寄る。


 やいのやいのと気勢を上げ、集団は肩を組み合い波のように揺れていた。潜り込めそうな隙間は少したりともない。これでは中心にいくことなどできそうもない。でも、行くしかない。


 少女は意を決して肩を滑り込ませ、強引に隙間を作っていく。しかしあっと言う間に弾き出され、元の場所に戻ってきた。誰一人として少女を気に掛けもしない。全員が全員中心を向いて馬鹿騒ぎに興じている。


 不意に、中央の集団が静まった。


 それは波紋のように広がっていき、あっという間に酒場全体が静まり返る。誰かの遠慮がちな咳が響いた。唾を飲み込む音が間近にいるように聞こえる。


 好機だ。


 少女は集団に潜り込んだ。先ほど違って抵抗が弱い。急いで最前列に向かっていく。


「始めぇ!」


 男の叫び。歓声が爆発した。


 怒声や笑声の混じった歓声が壁や天井を揺るがし、反響してさらに騒がしくなる。人の壁は嵐のように暴れ回り、少女の躰は枯葉のようにいとも簡単に翻弄される。


 怖い。でも、退くわけにはいかない。


「俺に勝てると思ってんのか!」


 若い男の声が響いた。あれだ。あれこそが目的の人物の声だ。少女は激しく揺れ動く群衆に遊ばれながら、それでも着実に進んでいく。


 そこここから笑い声が上がった。周りの人間はほとんど前も見えないだろうに笑っている。


「俺こそが最強だ!」


 咆哮が、酒場を満たす轟音を切り裂いた。


 誰もが顔を赤らめて笑い合っている。あからさまに犯罪者然とした者たちも、先ほどまで殴り合っていたような者すら十年来の友人のように楽しんでいる。


 群衆を突き抜けた。


 中心の長椅子に少年がふんぞり返っている。洒落た短髪に鍛え上げた肉体、それらを見せつけるように派手な服を着崩し、柄巻きがぼろぼろの剣を腰に下げている。


 あれこそが、フェクト・マルガント。


 王族に次ぐ大貴族マルガント家の子息にして、夜の王都に君臨する問題児。そして、少女の救世主。


「俺がちょっと本気を見せればこの様だ」


 少年は酒杯を豪快に呷り、周りを囲う男女の賞賛を笑顔で受け止める。その向かいには大量の空の杯が転がり、反吐を吹いて倒れた長身の男がうずまっていた。しかし誰の視線も少年に集中し、倒れた男は一顧だにされていない。


「ん? 誰だ。深窓のご令嬢が俺に求愛しに来たか」


 初めて集団の注目が少年から逸れ、一斉に少女に集中した。自覚して躰が強張る。でも、好機には違いない。この機を逃せば次はない。


「……お、お初にお目にかかります」


 笑い声が上がった。少年もほんの少し赤くなった顔でほほ笑んでいる。


「お前らそう虐めるなよ。おい、お嬢様。俺に用があるんだろ。言ってみな、俺は今気分が良いんだ。なんだって聞いてやるぜ」


 救いの手には思えなかった。むしろ疎外感に襲われて、自分が消えてしまいそうな感覚に苛まれる。


「大丈夫……」


 少女は口の中で呟いて、そう年の変わらなさそうな少年を見据えた。


「私の名はランカ・ウォースイ。あなたはマルガント家の子息──フェクト・マルガント殿で間違いありませんか」


「応ともよ。ランカ・ウォースイか、聞き覚えがあるな。神学者だっけか」


 相手も自分と同じ貴族だ。今の立ち居振る舞いはどうあれ、貴族としての教育は受けている。過度に恐れる必要はない。少女──ランカは自分を励まして、乾いた唇を開いた。


「この度はお願いがあって参りました。マルガント殿、消えた『神』を調査するべく旅立つ私の護衛を、引き受けてくださいませんか」


 少年──フェクトは笑みを浮かべたまま、酒を飲み干した。


「若い女の一人旅は危険だもんな。そりゃ護衛は必要だ。幸運なことに俺は護衛に相応しいだけの力がある。……なのに誰一人護衛を頼もうとする奴はいない。嬉しいよ、お嬢様」


「そ、それでは」


 フェクトの表情が消える。その手から、空の酒杯が滑り落ちた。


「断る」


 促すまでもなく、近くの女が新たな酒杯を渡す。それを美味しそうに飲むと、フェクトは満足そうに微笑した。


「理由をお聞かせください」


「面倒くさい。というか、お前といても面白くなさそうだ。拷問を受ける方がまだ刺激的だぜ。ってわけで帰れ。俺はこれからもお楽しみだ」


 フェクトは長椅子から飛び立った。取り巻きを引き連れてどこかに去っていこうとする。


 駄目だ。ここで機会を逃がしてはいけない。ここで終わればもう二度と次はない気がする。ランカは奥歯を噛み締めた。


「待ってください!」


 取り巻きたちが振り返る。その奥にフェクトの不機嫌そうな顔が垣間見える。


「かつて世界の統治者であった『神』は突如として姿を消しました! その後、唯一にして絶対の統治機構であった『神』を失った世界は混沌に突き落とされ、文明は数百年も後退したと言われています。何故『神』は突然消えたのか、マルガント殿は知りたくありませんか!」


「いや、全く」


 取り付く島がない。ここが、自分の限界なのか。


 フェクトの事はほとんど知らない。説得する術を何一つ持っていない。これ以上問答を続けても悪い結果が蓄積していくだけなのは眼に見えている。


 諦めるしかないのか。帰って自分から檻に入り、自分の手で鍵をかけるのか。


「……駄目」


 ここで諦めたら今までの自分と同じだ。今までの自分は死んだ。新しい自分はこんな事で諦めたりはしない。


「……報酬の用意があります」


「俺はマルガント家の人間だぜ、金が欲しいとでも? ああ、そうか。報酬はお前か。良し、近くに来い。可愛がってやるよ」


 フェクトは長椅子に飛び戻ると、左脇を開けて手招きした。一瞬、何をしているのか理解できなかった。フェクトがわざとらしくため息を吐く。


「帰れよ、お、じょ、う、さ、ま」


「……ご、護衛を引き受けてくださるまで帰りません」


 フェクトは声を上げて笑った。


「誰か店主に伝えろ。新しい居候ができたぞ」


 突然、肩を掴まれた。髭面の男がどこかに連れて行こうと引っ張ってくる。恐怖が喉元までせり上がってくる。


「来い、居候」


「俺の客に触るな!」


 フェクトが怒鳴った。髭面の男の顔面に杯が直撃する。


「冗談が通じねえのはお嬢様で間に合ってんだよ! おい、その馬鹿を叩き出せ。何もかもが不味くなる」


 途端、数人が倒れた髭面の男に群がった。服を剥かれ、財布を擦られ、それからようやく足を引きずられて酒場から連れ出される。


 憎々しげに、フェクトは地面に酒を吐き捨てた。


「これでも親父が怖くてな。……可愛いとこあるだろ? そういうわけで貴族は丁重にもてなすようにしてるんだよ。生まれが高貴で助かったな」


 フェクトの父親、名前は確かザントア・マルガント。そうか、その手があったか。悔しいが他に方法がない。手段を選んでいられる時期はとうに過ぎている。


「……一つお聞きしたいのですが、マルガント殿が全てをお支払いになるのですか」


「当たり前だろ、俺が開いたんだぜ。それで、帰りの護衛を用意しようか、お嬢様」


 やっぱりそうか。欲しい答えは貰った。もうこんな場所にいる意味はない。


「その護衛は、マルガント殿が務めてくださるのですか」


 新たな杯を口にしようとしたフェクトの手が止まった。


「その話はもう終わった」


「でしたら必要ありません。私の護衛はマルガント殿だけです。またお会いになりましょう」


「今日で最後だよ、お嬢様」


 フェクトは笑って酒を呷る。ランカも微かに笑みを浮かべた。


「いえ、再会を楽しみにしています」

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