第44話 延長戦
暗い夜。
その広い敷地の一角が、赤色の絵具をぶちまけたように地面が赤黒い色に染まっている。それだけでなく、その周辺の地面が異様にひび割れ、まるで小さい隕石でも落下したしたかのような有様だ。
遠目でもそれは確認できるが、時刻が深夜なゆえに詳細はイマイチ分からない。近づいて、初めて五感で絵具の正体に気づくことができる。
嫌でも解る鉄臭い匂い。踏みつける度に鼓膜を揺らす、ぐちゃりとした不快な音。足に張り付くような気持ちの悪い感触。何かの肉片が視界の端々に入り込む。
それは紛れもない、『血肉の池』だった。生乾きの、夥しい量の血液と細切れの肉があたり一面に広がっている。
「………」
その狂気の沙汰とも言える光景の、1人の男が中心で佇んでいる。
コラトンは、ただじっと地面を眺めていた。
「………」
標高1万メートルからの自由落下。あらゆる建造物や自然を遥かに超越した、極超高度からの落下による衝撃は計り知れない。
この状況を作り上げた張本人、ファーザーの姿がどこにも見当たらない。彼がどうなってしまったのかは……この惨状が物語っている。
だというのにも関わらず、コラトンの体にはどこにも外傷はなかった。
「……見事だ、ファーザー」
いや、正確にはダメージはあった。むしろファーザーは、コラトンに絶大かつ致命的なダメージを与えていた。
見た目に外傷が見当たらないのは、コラトンの特殊技能である『
それは
コラトンが
しかし、彼の
たとえば垢やフケのようなものは既に死んだ細胞であるから動かせないということだ。逆に、生きている細胞でさえあれば毛細血管のような細かく小さい物であろうと思いのままだ。
だが、細胞というものは些細な衝撃であっさりと死ぬ。当然、衝撃が強ければ強いほど、より多くの細胞が活動を止めてしまう。
例えば………標高1万メートルから落下したのであれば、破壊される細胞は軽々とヒューマン十人分は超越する。
ファーザーがわざわざ過剰すぎるほどに高い場所まで
そう、ファーザーは最期の最期に見抜いたのだ。完璧にとは決して言えないが、コラトンの
そして見事に、コラトンの意表を突いた。自らが死ぬことを前提とした作戦が、生半可に感情を知った理屈主義者であるコラトンがちらりとも考えるはずはない。
自らの勝利条件に『自分が死んでも構わない』と知って、それを取り込む者などいるはずがないのだから。死ぬことへの恐怖を知った存在が、そんなことができるはずがない。
少なくとも、コラトンはそう考える。考えるしかないのだ。感情を真に知らないから、そう考えるしかない。
さらに、この勝負でファーザーが勝ったからと言って彼の悲願が達成されたわけでもない。ファーザーの願いはコラトンを倒すことなどではないのだから。
ならば、生き残らなくてはならない。なんとしてもこの戦いは生き残らなくてはならないのだ。
ファーザーを突き動かしたのは、皮肉にも彼の仲間たちだった。ファーザーの、スコークの仲間たちへの絶対的な信頼が、彼に自殺的な作戦を行動に移させたのだ。
ファーザー自身も、今ここで自分が死んだらスコークの仲間たちがどんな反応をするかなんて、容易に想像できていた。だが、なんとしてもシュウは守らなければならないという使命感が彼を後押しした。
そこに、もしかしたらコラトンも道連れにできるかもしれないというアイデアがファーザーの脳裏を駆け巡った。
ここまでくればもう、ファーザーの心に迷いはなかった。彼はあっさりと『
結果的に、その作戦はコラトンの
「………」
コラトンはようやくその場から移動する。向かう先は、シュウが寝ている場所。この赤色の惨状の影響は受けていないが、そう遠い場所ではない。
3分もしないうちに、コラトンはシュウが休んでいる場所にたどり着く。しかし、そこにシュウの姿はなかった。
あったのは、切り離された右腕だけ。
「なるほど。俺の負けというわけか……」
その右腕は、パッと見では誰のものかは分からない。だが、コラトンは理解した。これがファーザーの
簡単な話だ。あのファーザーが何の保証もなしに、『もしかしたら殺せる』なんて作戦を決行しようなどとは思うはずがない。シュウがバステックの手に渡ってしまうことは、絶対にあってはならないのだから。
となれば彼の作戦の成功の是非に関係なく、シュウにはこの場から離脱してもらうしかない。普段なら仲間の誰かに頼めるが、そもそもこれはファーザーにとって闇討ちされたのと同じ状況だ。そんな余裕など、あるはずもない。
だからこそ、ファーザーは何らか方法の伝えたのだ。この左腕が、その方法の正体だった。
ファーザーの
超高度な場所に
突然降ってきた左腕から、状況を察知するための時間。さらに、この場からの逃走を図るための時間がどうしても必要だったのだ。
「……だが、今回だけだ」
これはファーザーの勝利などではない。敗北でもなければ、引き分けというのも違う。
たしかにファーザーは、今回の戦闘で目的以上の収穫を得た。シュウを守っただけでなく、コラトンの大幅な弱体化に成功した。
だが、これは勝利などでは決してない。ファーザーは勝敗を延長させただけだ。コラトンは今回シュウを奪還する機会を逃し、ファーザーは死んでしまった。
そもそもファーザーがコラトンに勝つ事ができる可能性など皆無に等しい。ファーザーは今回の戦闘で、最善と思われる行動をしたに過ぎないのだ。
2人の勝敗の結果は、見送りになっただけ。この夜が明けるまでは、誰にも分からない。
「コラトンだ。作戦は失敗した、帰還する」
『ターゲットの位置は分かっています。追わないのですか?』
「相当削られた。この状態ではかなり厳しい」
『……わかりました。準備しておきます』
しばらくして、その場には誰一人としていなくなった。
遺ったのは、ただ1つの大きな戦闘の痕。それだけだった。
▼
「はあっ…はあっ…!」
走る、走る。僕は今、ただ我武者羅に走っている。
(きっと、あれは…そういう、事…!)
僕は深い眠りから、どこからともなく降ってきた左腕に、文字通り叩き起こされた。当然、最初は動揺しかなかった。当然だ、突然目覚めたら左腕があったのだから。
でも、どこかで見覚えのあるその左腕を見て、嫌な予感が僕の頭の中を走り抜けた。ひょっとすると、これは何か『合図』なのかもしれないという直感めいたものが脳裏に浮かんだ。
例えば、危険な状態だから今すぐ逃げろとか…そんな事。
だって、左腕だ。
よっぽどのことがなきゃ飛んでは来ない。そもそも左腕が落ちていると言うだけでも異常なのに、ピンポイントで僕の体に飛んでくるなんて、偶然そんなことになるわけがない。
ということは、よっぽどのことがあったんだ。そして、事態を無防備に眠っている僕に知らせるために、わざと左腕を飛ばしてきた。そう考えるほうが自然だった。
(でも…)
僕には迷いもあった。
あの合図が意味する事に、今更だけど、僕には確信が持てなかったんだ。
もしあれが『逃げろ』じゃなくて、『加勢しろ』という意味だったら……そういう可能性を捨てきれなかった。
僕は、思わずその場で足を止めてしまう。
(どう、しよう…!?)
もし『逃げろ』なら、今ここで足を止めてはダメ。ファーザーさんを信じて、ただ我武者羅に逃げ込むしかない。
だけどもし、その逆。『加勢しろ』が本当の意味だったなら、今すぐ引き返さなくちゃならない。じゃないと、ファーザーさんが重症を負ってしまうか……死んでしまう。
今の僕なら、辛うじて戦力にはなるはず。
あれほど練習をしたんだ、足手纏いになる気はない。付け焼き刃だけど、十分対抗できるはず。
(…っ)
僕は、もう一度走り出した。ファーザーさんがいる方に。
たとえ『逃げろ』の方だったとしても、ファーザーさんがピンチである事には変わりはない。だって、左腕だ。もう既に相当な怪我を負っている。
なら僕がすべき行動は、ファーザーさんを守るために加勢する事。たとえ、ファーザーさんがそれを望んでいなかったとしてもだ。
———だからこそ、君に教えたいのだ。自分を、家族や友達を守る術をね。
だって自分を、そして誰かを守るためにこの力を教えてくれたのは他ならないファーザーさんだ。
なら、今戦わなくてどうする!
(お願い…間に、合って…!)
一歩一歩、真っ白な大地を踏み締める度に僕は覚悟を決める。
誰かを守るために、この大嫌いな力を使う覚悟を。
そして僕は、大体の位置までは戻ってこれた。多分、戻ることを決意してから1分も経ってないはず。短期決戦でもない限り、まだまだ時間に余裕があるはずだ。
僕は身を潜めながら、周囲を警戒し始めた。いつもは僕の
でも、僕の力では広範囲を同時に警戒するなんてできない。エリーザさんの警戒能力の飛び抜けた凄さを、僕は改めて実感した。今の僕だったら、視界に映る景色をよく見ることしかできない。
(なん、で…!?)
でも、にしたっておかしい。
ファーザーさんも言っていたけど、
なのに、敵はおろかファーザーさんの姿さえ見当たらない。
こんなこと、普通は考えられないけど、こうなってしまっている以上は何か理由があるんだ。
(そう、いえば…)
ファーザーさんは
大袈裟なことを言うのだったら、
でも、もし敵の正体が、ファーザーさんが言っていたあの———そう、あの『バステック』の誰かなら、ここに来た理由は明白だ。きっと、僕を本当の意味で誘拐しようとしに来たに違いない。理由は詳しくは知らないけど、彼等には僕が必要なのだとファーザーさんは言っていた。
そして、もし本当に敵がバステックのメンバーなら、ファーザーさんは勝とうとしたはずだ。
つまり、
でも、そうだとするとおかしいことがある。それは、どうして僕にサインを送ったのかってことだ。しかも、左腕なんかをだ。
(そう…左腕。左腕、だ…)
もし遠いどこかにいるなら、僕にサインなんか送らない。『逃げろ』でも『加勢しろ』でも、わざわざ左腕を送ったりなんかしない。
そうだ、忘れちゃいけない。左腕なんだ。よっぽどのことがあった可能性を、僕は忘れかけていた。
ということは………やっぱり近くに———
ズガァァァンンンン!!!
そんな僕の迷走とも言える思考は、聞いたこともない絶大な破壊音に遮られてしまった。
(…!?)
僕はとっさに身を隠してしまう。
隠れ場所としては少し頼りないけど、ここは
まるで隕石でも降ってきたみたいだ。地面にできたヒビは僕が今いる場所にも及びそうで、辺り一面は煙幕のような砂埃が視界を遮断している。
僕は、何かはわからない嫌な予感を、肌で感じ取ったような気がした。
(誰か、いる…)
砂埃でよく見えないけど、誰かが立っているのが見える。あれがファーザーさんだってことを願ってはいるけど、確証がないなら飛び出しちゃいけない。僕は観察を続けた。
そもそも、あの衝撃でなぜ立っていられるんだろうか? いやそもそもあの衝撃は何によるものなんだろうか?
僕の頭の中は、自分では冷静でいるつもりだったけど、同じ疑問がぐるぐると渦を巻いているように混乱していた。
砂埃が薄くなってきて、ようやくその誰かを確認することができるようになったのは、すぐちょっとのことだった。
その誰かはその間も何を喋るわけでもなく、何かするわけでもなく、ただ黙って地面を見下している。
それは、ファーザーさんではない。知らない男の人だ。そしてこの場に知らない人がいるってことは、間違いない。
(敵…!)
飛び出さなくてよかった。もし飛び出していたら、ファーザーさんの邪魔になっていたかもしれない。
でも、肝心のファーザーさんはどこにも見当たらない。一体どこにいるんだろう? どこを探しても、その姿は見当たらなかった。
「……見事だ、ファーザー」
男の人の声が聞こえる。どこかで聞いたことのある声だ。
……当たり前だ。忘れるわけがない。
その人は歩いてどこかに行ってしまう。僕は気づかれないように、こっそりと後をつけた。何か呟いている。僕は聞き耳を立てて、目を瞑り全神経を集中させる。
「———コラトンだ。作戦は失敗した、帰還する…………相当削られた。この状態ではかなり厳しい」
誰と話しているんだろう? 他のどこにも、人影は見当たらない。
それに、今「帰還する」って言っていた。「削られた」とも、「厳しい」とも言っていた。…どういうことなんだろう?
つまり、戦いは終わったってことなのだろうか? なら、どっちが勝ったんだ? 今ここにファーザーさんはいない。ということは……
い、いやいや。確かあの人は「失敗した」とも言っていた。と言うことは、引き分け…? 決着はつかなかったのだろうか?
(…)
だめだ、分からない。
本当なら、確証を得てから行動すべきなんだろうけど……時間はあまりないっぽい。決断するなら、今しかない。
(行くっ…!)
「!」
僕は岩陰から飛び出して、その人に襲い掛かった。
右拳を引いて、まっすぐに敵を見る。敵も僕の存在に気がついたみたいだ。左腕を僕の方に向けてきた。
(…!?)
次の瞬間、敵の右腕がグニャグニャと歪み始める。原型はあっさりと崩れて、まるで粘土細工のような印象を受ける。
そして……変化が終わったと思ったら、それは器とも、盾ともいえる形になっていた。
絶対に、何かある。何かやばい。このままだと———
「ふ…ッ!」
僕は予定よりかなり早く、引いた右拳を振り抜く。その拳は、当然敵にはかすりもしない。
でも、次に驚くのは……敵だ。
「!」
敵は突然、後ろに吹き飛んでいく。吹き飛ぶって言っても、今の僕の力だとせいぜい5メートルが限界だ。
でも、もしあのまま殴っていたのなら……僕はあの変形した左腕に捕まっていただろう。今のは本当に危なかった。
「………」
「…」
そして僕らは睨み合いになってしまった。
でも、大丈夫。今、この状況で有利なのは僕らのはずだ。敵もこのまま
だって、いつファーザーさんが現れるのかわからないのだから。
「……そうか。開花していたか」
「なんの、話…?」
「当然、お前の話だ。
「…っ」
思わず息を詰まらせる。でも、前のようにはいかない。
だって、いつかまたそう呼ばれることになるのは分かっていたから。
でも、今回だけだ。
「僕は、シュウ=エクリア…そんな名前じゃ、ない…!」
「そうか」
僕は戦いの構えにをとる。ちゃんとした形にはなっていないけど、素人なりに初動を早くする姿勢は特訓の間に見つけている。
「ここでやりあってもいい。だが、少しリスキーだな」
「…?」
「大人しく撤退しよう。1つは手に入りそうなのでな」
「手に入る…?」
次の瞬間、男の姿が薄くなっていく。しまった、このままだと敵を見失ってしまう!
僕は慌てて攻撃しようとするけど、その時にはもうどこにもいなかった。
「逃げ、られた…?」
意味不明な言葉を残して、その人は消えてしまった。
結局その後も色々と探してみるも、敵はおろかファーザーさんも見つからなかった。
僕は、あの人の言葉を考えてみる。
(きっと…白色町で、何かが、起きてる…)
そこからの僕は早かった。
即席の特訓場に背を向けて、駆け足で白色町に向かっていく。
頭の後ろにこびりついて離れない、一抹の不安と予感を拭きれないまま。
▼
一方、ちょうどその頃。
なんでもない一軒家。2階建ての、どこにでもあるような民家。
その玄関に、1人の男が佇んでいる。その両手には、拳銃の形をした武器が片手に1つずつ。
「……さぁて、決戦といこうやないか」
白色町では、唐突に終盤に突入していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます