第28話 悲壮感

 今日も私は、ほとんど会話をしないまま放課後を迎えた。


「じゃーねー。また明日ねー」

「うん。また明日ー」


 高校に入学してからもう半年以上が経過して、クラス内での友人関係はすっかり構築されていた。

 男の子たちを見ても、女の子たちを見ても、その中で孤立している人は誰もいない。


 みんなには必ず誰かしらの友達がいて、1日の学校生活の中で、時間があれば一緒に何かをしている。


 おしゃべりをしたり、一緒に飲み物を買いに行ったり、お弁当を食べたり。

 私みたいにずっと1人でいるような人は、私ただ1人きりだった。


「ふぅ……これでよしっと」


 教室の机を一通り並べ終えて、机に置いてあったカバンを手に取る。

 今日は放課後にいつものような実行委員会がないので、この後の予定は帰るだけ。


 特に用事もないので、家に帰ったら勉強でもしよう。

 そう思った私は、もう誰もいなくなった教室から出た。


「なあ」


 そんな私に声をかけてきた人がいた。

 教室を出たすぐ脇の壁に寄りかかり、腕を組んでこっちを見ている。

 まるで待ち伏せをしていたかのように——。


「ど、どうしたの神永くん。今日は実行委員会お休みだけど……」

「んなことは知ってんだよ。いいからちと顔貸せよ」

「で、でも……私今から帰え——」

「いいから来いつってんだよ」

「う、うん……」


 私は逆らえなかった。嫌だと言えなかった。

 ただ神永くんに言われるがまま、彼の後ろをついていくしかない。


 逃げ出そう。

 少しはそんな考えも持った。


 でも、私にはその場から逃げだせるだけの勇気がなかった。

 だからこうして、怖いはずなのに彼に従ってしまっている。

 私が臆病なばっかりに——。


「入れ」

「……えっ……でもここ男子トイレ——」

「んなことはどうでもいいんだよ。いいから入れ」

「ダメだよ……。こんなことしたら先生に怒られちゃうし……」

「先生になんて見つからねえよ。ここのトイレは職員室から一番離れたところにあるからな」

「そ、そういう問題じゃ……」

「いいから、入れっつってんだろーが」

「ちょ……や、やめて神永くん……!!」


 そうして私は、神永くんに強引に背中を押された。

 抵抗しても抵抗しても、やっぱり男の子の力には敵わない。

 気づけば私は、男子トイレの個室に1人で閉じ込められていた。


 ——怖い……すごく怖い……。


「か、神永くん……どうしてこんなこと……」

「お前さ。俺が実行委員サボっていること会長にチクったろ」

「か、会長に……? そ、そんな……私言ってない——」

「嘘つくんじゃねえよ!!」


 神永くんの怒声が、トイレいっぱいに響き渡った。

 そのあまりの迫力に、私の身体は波打つようにビクついた。


「てめーが言ったことはわかってんだよ。そのせいで俺は会長に怒られたんだからな」

「だ、だから私は——」


 私は言ってない。と言おうとしたところで、ふと頭の中に思い浮かんだ。

 それはいつも私が1人で仕事をしていた時のこと。


『なあ南野。お前と同じクラスの奴は今日も休みなのか?』


 いつも私を気遣って声をかけてくれた存在がいた。

 その先輩は、いつもめんどくさそうにしながら記録の仕事に取り組み、早く終われば仕事が遅い私の手伝いをしてくれていた。


 本当はやりたくないのかもしれない。

 早く帰りたいのかもしれない。

 でも先輩は、いつも私の手伝いを率先して引き受けてくれた。


 そしてその度に、先輩は私に言った。


『明日こそちゃんと言うんだぞ?』


 先輩は知っていたのだ。

 私が神永くんに仕事を押し付けられていたことを。

 知っていながらも声をかけて来てくれた。

 こんな私を見捨てないで、優しく接してくれていた——。


「——早く自白してくんねえかなぁー。てめーが言ったんだろー?」


 再び神永くんの声が、トイレに響く。


 きっと先輩は、私のことを気遣って会長に相談してくれたんだ。

 そんな先輩の良心を、無駄にすることなんてできない。


「わ、私が……」

「ああん?」

「私が神永くんのことを会長に相談しました」


 すごく怖かった。

 でも言わないといけないと思った。

 だから私は無心で、その言葉を吐いた。


 怖くて目が開けられない。


 怒鳴られるかもしれない。

 叩かれるかもしれない。


 そんなやり場のない恐怖が、今の私にはどっしりとのしかかっていた。


「そうか……やっぱりな……」


 細い声でそう呟いた神永くんは、ドアの向こう側で何かを始めた。

 ガランガランと音が鳴った後、蛇口をひねるような音が聞こえ、勢い良く水が流れ出しているのがわかる。

 その水は何かに溜められているようで、しばらくしたら水の出る音が止まった。


「……神永くん……一体何を……」

「何をって……制裁だよ……」

「せ、制裁……?」


 次の瞬間——。


 バッシャーン!!


 怯えていた私の頭上から、重く冷たい何かが降り注いで来た。

 それは瞬く間に全身を濡らし、震えるような寒さを感じさせる。


 髪の毛から滴るそれを見て、私が今何をされたのかがわかった。

 ガランガランとバケツを放り投げた音が聞こえる。

 そして去りゆく足音が2、3歩鳴り響いた後、


「あんま調子乗んなよ。クソぼっち野郎」


 そう吐き捨てた神永くんは、私を残しトイレから出て行ってしまった。


「どうして……」


 私は未だ現実が飲み込めていない。

 寒さと恐怖に怯え、ただ1人その場にうずくまった。


「寒い……」


 全身を駆け巡るように寒気が走り、私の身体は無意識に震えていた。

 ポツポツと私から滴る水で、床は一面びちょびちょ。


「拭かなきゃ……」


 私はおもむろに個室の扉を開け、掃除用具入れからモップを取り出した。

 そして濡らしてしまった床をくまなく拭いていく。


 でも、私から滴る水は後を絶たない。

 拭いても拭いても床にはポツポツと水溜りが生まれてしまっていた。


「こんなことしても……意味ないよね……」


 いくら私が普通を装っていても、私の居場所はどこにもない。

 みんなの迷惑にならないように努めても、結局私はいらない存在。


「もうどうしたらいいのかわからないや……」


 私はモップを置いた。

 まだ床が少し濡れているけど、これ以上どうにかしようとは思わなかった。


 全身ビチョビチョのままトイレから出る。

 ここは男子トイレだけれど、私がここから出るところを、他の人に見られても構わないと思った。


 今更自分がどう思われようと、もう私にはあんまり関係ない。

 だってずっと前から、私はいつも1人ぼっちだったから——。


「えっ……」


 すぐそばで、小さく声が上がったのがわかった。

 私はそれにつられるように、俯けていた顔を上げる。


「南野さん……どうして……」

「冬坂……先輩……」


 そこにいたのは冬坂先輩だった。

 実行委員会でいつもお世話になっている綺麗な先輩。


 その冬坂先輩は私の方を見ながら、瞬き一つせず固まっている。

 おそらく今の私の姿に驚いてしまったのだろう。


「何があったの……」


 そして先輩は、固まったまま私にそう尋ねてきた。

 こんな姿を見せてしまえば、そう尋ねるのも当然のこと。


 でも私は答えたくなかった。

 私なんかの問題で、いつも優しくしてくれる冬坂先輩に、迷惑をかけたくないから。


 心配そうに見つめている先輩の視線が痛い。

 私はそれを嫌うように、無言で視線を先輩の足元へと落とした。


「と、とりあえず身体を拭きましょう。風邪ひいたら大変よ」


 先輩もそれを察してくれたのか、慌てたように話題を変えてくれた。

 そして私の手を取ると、そのまま近くの空き教室へと私を連れて行こうとする。


 ——また私は先輩に迷惑をかけてしまった。


 冬坂先輩は、わざわざ私に椅子を用意してくれて、そこに座らせてくれた。

 そしてカバンから何かを取り出して、私の前に差し出した。


「はい。ちょっと小さいけど、これ使って」


 それは可愛らしい柄のハンドタオルだった。

 先輩は綺麗に畳まれたそのハンドタオルを私の手に置くと、両手で優しく私の手を握った。


「あ……ありがとう……ございます……」


 でも、こんな綺麗なタオルを、私なんかが使っていいはずない。

 先輩だって、さっきたまたま私と出くわしちゃったから、仕方なく優しくしてるだけで——。


「ほら、ちゃんと拭かないと」


 すると冬坂先輩は、私が握っていたタオルを取り、私の額に当てた。

 そして優しく、濡れていたところを拭き取ってくれたのだ。


「すみません……迷惑かけてしまって……」

「気にしなくていいのよ」


 落ち込んだままの私にも、冬坂先輩はいつもと変わらず優しくしてくれる。

 髪の毛を拭いてくれている先輩の手は、とても温かくて少しだけ優しい気持ちになれた。


「服、何か着替えある?」

「た、体操服なら一応……」

「うん。仕方ないから今日はそれで帰るしかないわね」


 そう呟いた冬坂先輩は、手に持っていたタオルを、私の膝の上に置いた。


「1人で歩ける?」

「は、はい……何とか」

「それなら良かった。気をつけて帰えるのよ? そのタオルはあげるから」


 すると冬坂先輩は、荷物を抱えて、私に背を向ける。

 そしてそのまま出口の方へと向かっていく。


 ——何も聞かないのかな。


 私はその先輩の動向が不思議だった。

 こんな姿になった私に優しくしてくれて、そして訳を聞かないまま帰ろうとしている。


 気になっていないのかな。

 それとも先輩は私のことなんてどうでもいいのかな。


 優しい冬坂先輩なら、後者はないと断言できた。

 ならなぜ先輩は、私に何も尋ねないのだろう——。


「あ、あの。冬坂先輩」


 気づけば私は先輩を呼び止めていた。

 私の声で振り返った先輩はとても不思議そうな表情を浮かべている。

 一体なんて聞けばいいんだろう。


「どうかした?」

「あの……えっと……」


 言葉が出てこない。

 私の方からこんなことを聞くなんておかしいから。


 でも。それでも私は気になって仕方がない。

 先輩がなぜ何も言わず立ち去ろうとしているのか——。


「と、冬坂先輩は……聞かないんですか……」

「ん? 聞かない?」

「そ、その……私に何があったのか……聞かないんですか……」


 聞いてしまった。

 恥ずかしさのあまり、私は冬坂先輩に向けていた視線を床へと落とした。

 けど先輩が私の方を見ていることはわかる。


 まだ答えは返ってこない。

 もしかしたら先輩は困っているのかもしれない。

 だとしたら私、申し訳ないことしちゃったな。


「聞いた方がいい?」


 しばらくして先輩は一言そう呟いた。


『聞いた方がいい?』


 そう聞かれると、私もどうしたいのかわからない。

 聞いて欲しいのか。それとも放って置いて欲しいのか。


「そ、それは……」

「南野さんが話したいのなら聞くわよ?」


 添えるようにそういった冬坂先輩は、真剣な眼差しを私に向けていた。


 多分ここで私が何があったのかを話せば、先輩は親身になって私の相談に乗ってくれるんだと思う。

 冬坂先輩は優しいから、私のことを助けようとしてくれるんだと思う。


 でも——。


 私は先輩を頼ることはできない。

 これ以上優しくしてもらうわけにはいかない。


 私はきっと甘え過ぎてたんだ。

 1人という現状に甘えて、壁にぶつかることを避け続けてきたんだ。


 だからこうして何かが起きれば、自分じゃ何も解決できない。

 そんな自分が情けなくて、情けなくて——。


 ——こんな時だけ誰かに頼るのは……ずるいよね。


「えっと……す、すみません……うまく話せそうにないです……」

「うん、それでいいのよ。とりあえず今は早く着替えて風邪をひかないようにすること。いい?」

「わ、わかりました」

「うん。それじゃ、私は帰るわね」

「は、はい。タオル、ありがとうございました」


 そして先輩は笑顔を浮かべると、教室から出ていってしまった。


 ——これで良かったんだ。


 心細くないといえば嘘になるかもしれない。

 でも私には、やっぱり1人が似合ってる。


「すみません……冬坂先輩……」


 どうしてだろう。

 髪は拭いてもらったはずなのに、床に少し水滴が垂れているみたい。


「あれ……私……」


 目の前が歪んだように見えなくなる。

 そして私の頬を伝うように、大粒の水滴が滴ってきていた。


「なんで……泣いてるんだろ……」


 それが涙だとわかった瞬間、顔が燃えるように熱くなる。

 立っていたはずの私は、思わずその場にしゃがみ込んでしまっていた。


「止まらない……なんで……」


 止めようとしても止まらない。

 堪えようとしても堪えられない。


 そこで私はずっとずっと泣き続けた。

 多分こんなに泣いたことは、今までにもなかったと思う。


「私……バカみたい……」


 1人を受け入れているはずなのに、心がそれを許してくれない。

 本当はそれを嫌がっているかのように、胸がぎゅっと痛む。


「やっぱり1人は寂しいよ……」


 不意に出てしまったその言葉は、誰にも届くことなく消えていく。

 私の目から滴る大粒の涙と共に。

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