第20話 日常(美咲サイド)

 いつからだろう。

 今の自分が過ごしている時間を、当たり前だと感じ始めたのは。


「美咲ー。また明日ねー」

「うん。また明日ー」


 放課後になれば、決まって声をかけてくれる友達がいる。

 家に帰れば、私を待ってくれている家族がいる。

 それはずっと昔から変わらない私の日常で、この先もずっと変わらず続いていくのだと思う。


 でも——。


 最近になって、ふと考えてしまうことがある。

 それはきっと、私にとってのしがらみとも呼べる感情で、当たり前だったはずの私の日常を、少しずつ変えようとしているのだ。


 気にしないようにしているはずなのに、気づけば考えてしまう。

 忘れようとしているはずなのに、気づけば思い出してしまう。

 頭ではわかっているはずなのに、私の心がそれを拒んでいるかのようで——。


 今を変えるのは怖い。

 でも今のままじゃダメな気もする。


 ——なら私はどうしたらいいの?


 そう自分に尋ねたところで、返ってくる答えは何一つなかった——。


「はぁ……」


 バイト先へと到着した私は、着替えを済ませて控え室で1人時間を潰していた。

 時計を見たところ、あと5分くらいはここでゆっくりしていられる。


「そうだ。沙織に返信っと」


 友達の沙織から連絡が来ていることを思い出し、私はすぐさまケータイのトーク画面を開く。

 すると文面にはこう書いてあった。


『美咲ー、バイト頑張ってねー^^ そういえば今日、少し元気なかったように見えたけど大丈夫ー?』


 何やら私の体調を気遣うような内容だった。

 確かに今日は、少し身体が重い感じがして、あまり明るく振る舞えなかったけど、それでも誰かに心配されるほどのことでもなかったと思う。

 多分少し疲れちゃってるだけだ。


『大丈夫だよー(^^) 心配してくれてありがとー』


 私はそう返信して、沙織とのトーク画面を閉じる。

 いつも優しくしてくれているあの子に、もうこれ以上心配をかけたくない。


 それに——。


 ——沙織とはずっと友達のままでいたい。


 私が抱えている悩みを話せば、きっと今のような関係じゃいられなくなってしまう。

 沙織がそれを知ってしまったら、こんな私に幻滅すると思うから。

 

 そうなるのだけは絶対嫌だ。だから私は関わらないようにしてきたんだ。

 わざと避けて、嘘でけなして、あの人に嫌われようと努力してきた。


 そうすればきっと、この想いを忘れられる日が来るって。

 そしてまた私の大好きな日常が戻って来るって。


 そう思ってたのに——。


「えっ……」


 私がふと視線を上げたその先には、居るはずのないあの人が居た。

 控えめに整えられた黒い髪に、活気に欠ける落ち着いた顔立ち、どこからか溢れるその優しい雰囲気は、初めて彼に会った時から全く変わらない印象だった。


「えっと……お、おつかれ……」


 そして彼は、わかりやすく顔を引きつらせながら、私に一言そう呟いた。

 その目の泳ぎ具合から、相当な気まずさを感じていることが見て取れる。


「う、うん……」


 少なからず動揺している私は、思わず素の返事を返してしまった。

 そんなあからさまな態度を取られたら、こっちが気まずくなってしまう。

 顔がポカポカ温かくなってくる。


「具合でも悪いのか……?」

「べ、別に悪くないし。つかなんであんたがこの時間に居るの」

「なんでって……。俺今日バイト4時からだから」

「うそっ! 4時からって……ええぇ!?」


 それを聞いた私は、思わず声を上げてしまった。

 今まで一度もそんなことはなかったから、こうなって当たり前だ。


 ——てかなんでこの人は、急に私と同じ時間にしたの?


「なんだよその反応……。具合悪いなら正直に言えよ?」

「だ、だから別に具合なんて悪くないってば……!」

「そ、そうか……」


 私を気遣う彼の言葉で、より一層自分の心が乱れるのがわかった。

 取り繕うのも忘れてしまうほどに、感情が激しく渦巻いて——。


 ——まずは冷静に……落ち着いて……。


 私は自分に言い聞かせるようそう念じ、高揚していた気持ちをスッと落ち着けた。


「てかあんたいいの? もう時間だけど」

「あっ……」


 私がそう指摘すると、彼は時計をチラッと見て、かなり焦った表情になった。

 もしかして、バイトまでもう時間がないことを忘れていたのだろうか。


 ——全く……この人は……。


「はぁ……。遅れても知らないから」


 私はそう吐き捨て、逃げるようにして控え室から出た。

 それは決してバイトの時間だからと言うわけでもなく、彼と2人きりでこの部屋にいるのが気まずかったから。


「もう……なんで居るのー……」


 控え室を出た私は、すぐそばの壁に寄りかかり、隠していた本音を漏らす。

 彼がここでバイトすることになってから、思うように仕事に集中できないから。


「無理して時間早めたのになー……」


 私がここでのバイトを始めたのはおよそ1年前。

 その頃からずっと、平日のバイトは4時半からと決めていた。


 でも彼が来てからは、その習慣すらも変える羽目になった。

 なぜなら、控え室で一緒になるのが怖いから。


 彼はずっと、平日のバイトは4時半からにしていたはず。

 なのになんで、今日は私と同じ4時からなんだろう。


「もしかして……これからも一緒だったりしないよね……」


 向こう1ヶ月のシフトはもう提出してしまっている。

 今更私の都合で時間を変えるわけにもいかない。


「はぁ……もう馬鹿みたい……」


 彼と少し関わっただけで、心がひどく揺れ動いてしまう。

 そんな自分が馬鹿らしく、呆れてしまうほどだった。



 ——嫌——



 仕事に入れば私の気持ちも少しは落ち着いた。

 去年から何も変わらないここでの役目には、緊張も特別感も何も感じない。


 でもやっぱり彼のことだけは、どうしても気になってしまう。

 お皿を運んでいても、何をしていても、彼の動向には注目してしまう。


 今だって、彼が食べ終わったお皿を片付けている姿に、意識を奪われている。

 ホントはもっと仕事だけに集中しなくちゃいけないはずなのに——。


 ——なんでこんなに気にしてんだろ、私……。


「すみませーん。お会計お願いできますかー?」

「は、はーい。ただいま参りまーす」


 ぼーっとしていた私に、お客様からのお声掛けが入った。

 待たせるわけにもいかないので、すぐさまレジへと向かう。


 ——しっかりして私……!


「お待たせいたしました。伝票の方お預かりいたしますね」


 そうして私はお客様から伝票を受け取り、それをレジに読み込ませた。


「それではお会計の方……1万5000円!?」


 表示された金額を読み上げようとすると、明らかにそれがおかしいことに気がついた。

 普通にやっていたつもりなのに、どうしちゃったんだろう。


 ——えっと……えっと……。


「あらら? 私たちそんなにたくさん食べたかしら。ねえおじいさん」

「最近の物価は高いって聞くから、このくらいするんじゃないのかい?」


 そのお客様は優しそうな老夫婦。

 このままだと間違ったお支払いをさせてしまうかもしれない。


「しょ、少々お待ちください……!」


 私はそうお客様に告げて、もう一度伝票をレジへと読み込ませる。

 すると今度は、それらしい金額が表示された。


「すみませんお待たせいたしました。お会計の方2340円になります」

「あらあら。そんな安くていいのかい?」

「は、はい。こちらで大丈夫です」

「それじゃ、これ」

「お預かりしますね」


 そして私はおばあさんからお金を受け取り、


「2500円をお預かりしましたので160円のお釣りになります。ご確認の方お願いします」

「はい、ありがとう」


 しっかりと確認した上お釣りを返すと、おばあさんから「ありがとう」と一言言ってもらえた。

 本当ならこの場で怒られてもおかしくはないのに——。


「あの……」

「うん? どうしたんだい?」

「こ、この度は、大変申し訳ありませんでした」


 私が謝罪と共に頭を下げると、おばあさんは優しい笑顔を浮かべて、


「いいのよ、私たちは全然気にしてないから。ねえおじいさん」

「ああ。料理も美味しかったし、私は満足してるよ。ありがとね」

「そんな……ありがとうだなんて……」


 お客様の言葉はすごく温かかった。

 温かくてジーンと心に染み渡るような、そんな感じがした。


「それじゃおじいさん、そろそろ行きましょうか」

「そうだな。いつかまた来れたらいいな」

「ええ、そうね」


 そうしてお客様は、笑顔でお店を後にした。

 こんな心温まる時間を過ごしたのは初めての経験で、私はちょっぴりこのバイトのことが以前よりも好きになったかもしれない。


「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」



 ——嫌——



 お客様から元気をもらった私は、食事が済んだテーブルの片付けをしていた。


 お皿を重ねて左手に抱え、開いた右手でテーブルを拭く。

 そしてそれが終わったら、テーブルの真ん中にメニューを並べる。

 

 1年間のアルバイト生活で身につけた、私の特技の一つだ。


「よしっ、あとはメニューを並べて……」


 ——って、あれっ……?


 テーブルを拭き終わり身体を起こそうとした私は、少しばかりの違和感を感じた。

 頭がくらくらするような感覚と共に、いつもは感じない気だるさのような症状が、身体を思うようにさせてくれない。

 おまけに少し、意識が遠退いていくような——。


「——ダメダメ。しっかりしないと」


 自分に言い聞かせるようにそう呟いた私は、テーブルをきちんと整理し、お皿を持って厨房へと向かう。


 もしかしたら、まだあの人のことで頭がいっぱいになっているのかもしれない。

 まだ仕事中なのに、そんなんじゃダメだ。


 それに今日は、優しいお客様から温かい言葉をかけてもらった。

 あのお客様を裏切らないためにも、私は仕事を頑張らないと——。


 ——頑張らない……と……。


『ガラガラガッシャーン!!』


 お店の中に大きな音が鳴り響いたことだけはわかった。

 気がつけば私は、床に転がるように横になっている。


 ——なんでだろう……なんで私こんなことに……。


 店長が私の名前を呼びながら駆け寄ってくる。

 でも返事を返すことができない。


 身体は起き上がらせることができないくらいだるい。

 熱くて熱くて、そして苦しい。


「大里さん!? 大丈夫かい!? 大里さん!?」


 あれ? もしかして私、今店長に抱えられてるのかな。

 意識が朦朧もうろうとしていてよくわからないや。


「それじゃー六月くん。大里さんをよろしくねー」

「わかりました」


 気のせいかな。今六月くんって聞こえたような。

 でもあの人は今休憩中のはずだし——。


「店長。あとはお願いします」

「うん。任せてー」


 もしかして私今、おんぶしてもらってるのかな。

 なんだかとても優しくて、そしてとても温かい——。


 ——なんか……すごく落ち着くかも……。

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