第18話 変化
学校を飛び出した俺は、がむしゃらに公道を走った。
息苦しさを忘れるくらいに走って、走って、走って。
やがてバイト先のファミレスへと駆け込んだ。
明るい店内を通り抜けて、真っ先に向かったのは店の厨房。
今日も1人で料理を作っているであろう店長の元へ——。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
「ど、どうしたのー。そんなに慌ててー」
「はぁ、はぁ、はぁ……店長……」
厨房へと駆け込んだ瞬間、忘れていた息苦しさが一気に襲いかかってくる。
運動不足の現れだろうか。俺は思わず膝に手を置き、乱れた呼吸をそっと落ち着けた。
「はぁ、はぁ……」
「大丈夫ー? お水いるかい?」
「い、いえ……。もう……大丈夫です……」
少し落ち着いたところで、俯けていた姿勢を起こす。
すると目の前には、俺を心配気に見つめる店長の姿が——。
——もう逃げない。
俺の中での意志は、すでに固まっていた。
そしてそれは、自然と俺に過去を振り返る勇気を与えてくれていたのだ。
「そ、それよりも店長……。昨日は本当にすみませんでした!」
「え、ええー!? 急にどうしたのさー」
「俺は本当にバカでした。たった一回失敗したくらいで逃げ出して、お店にどれだけ迷惑かかるかも考えずに……本当にすみません」
「い、いいんだってそんなのー。それよりもほら、頭上げて上げてー」
店長にそう促され、俺は下げていた頭を持ち上げた。
「六月くんはまだ新人さんなんだから、失敗するのは当然のことなんだよ。僕だって最初は失敗ばかりだったし、最初からうまくできる人なんてのはそうそうにいないんだ」
「そう……ですよね。それなのに俺、勝手に思い込んで……」
「それに君は昨日だって、十分一生懸命仕事してくれてたじゃないか。一生懸命仕事していたからこそ、一つのミスがとても重く感じられるんだ。君が思いつめちゃったのだって、お店のことを第一に考えてくれていたからじゃないのかい?」
「そ、それは……」
店長のその問いに、俺は歯切れの悪い返事しか返せなかった。
なぜなら、店長の言っていることに少なからず共感してしまったから。
昨日の俺を見透かされているようで、うまく受け答えすることができなかったのだ。
「六月くん。君はとても優しい人間だ。でも、それゆえの繊細さも心のどこかに持ち合わせている。自分のせいで周りが変わることは確かに怖いことかもしれない。僕だってそうさ。もしこのお店が潰れちゃったらって考えると、夜も寝られなくなるよ。僕がもっと頑張ってたらーなんて、自分を責めちゃうかもしれない——」
でもね——。
すると店長は微笑んだ。
優しく、暖かく、俺の心を包み込むように——。
「——それでもいいんだ。君はもう、僕たちの仲間なんだから」
そしてこんなどうしようもない俺に、そんな優しい言葉をかけてくれた。
それでもいいと。俺を仲間だと。そう言ってくれたのだ。
心がポッと熱くなる。
世界が少し明るくなったような、そんな感覚さえ覚えた。
胸のうちからは自然と嬉しさが湧き上がってくる。
そしてそれは、俺の嫌な思い出すらも塗りつぶしていくような気がした。
「当然これからも大変なことはあるよー? けどその時は、お店のみんなで乗り越えていけばいいからさ!」
「そうですね。その時はみんなで」
「うんうん。それにうちには頼りになる人がちゃんといるからねー」
「えっ?」
すると店長は何やら含みのあるような表情になり、俺とは別の場所へと視線を移した。
「べ、別に私は頼れるとか、そういうんじゃないですから!」
「あははー。やっぱり大里さんも気になって来てたんだねー」
「ち、違います! 私はただ忘れ物を取りに来ただけで……!」
驚いたことに、俺の背後から現れたのは、先ほど喝を入れてくれた大里美咲だったのだ。
思わぬ事態に、上手く状況を飲み込めない。
「大里……何でお前が……」
「だ、だから……私は忘れ物を取りに来ただけだって!」
「ええー? 忘れ物なんて特になかったけどなー」
店長が意地悪げにそう言うと、大里の頬は真っ赤に高揚した。
——もしかしてこいつ、俺のことを心配して?
普段の彼女からは想像もできないことだ。
しかし今の彼女の表情を見ると、それも満更でもないような気が——。
「もー! うるさいうるさい! とにかく私はこんな奴のことなんて何とも思ってないし! 別に心配もしてないし!」
「ちょ、ちょっとー、大里さーん! もう帰っちゃうのー?」
「帰ります!」
そう一言吐き捨てた大里は、控え室に寄る素振りすら見せず、まっすぐ店の外へと向かった。
——忘れ物とりに来たんじゃねーのかよ。
一体何をしにわざわざお店まで来たのか。
考えてみても、彼女の思考はさっぱり読めなかった。
「あらあらー。大里さんも素直じゃないなー」
——素直じゃない?
「そういえば六月くん。荷物のことは大里さんから聞いてるー?」
「荷物ですか?」
「そうそうー。昨日控え室に置いたまま帰っちゃったでしょー?」
「ああ。そういえば」
確かに俺は、昨日控え室に荷物を置きっぱなしにして帰ってしまった。
学校の制服は家に代えがあったから良かったが、教科書やなんかは予備がないので、持ち帰らないと困る。
「本当は大里さんに持って行ってもらおうと思ったんだけどねー。彼女「次のシフトの時自分で持って帰らせればいいんです」なんて言って、結局そのままにしちゃったんだよー」
「大里が……ですか……?」
「そうそうー。本当素直じゃないよねー」
——あの大里が? 次のシフトの時自分で?
ということはだ。
俺がこの店のバイトを辞めないことを、大里は知っていたということになる。
というよりかは、俺のことを信じてくれていた——?
しかし大里は、俺のことをどうしようもないくらい嫌っているはず。
俺があのままバイトを辞めてしまえば、彼女はむしろ喜ぶはずなのだ。
——じゃあなぜ大里は、嫌いな俺を引き止めるような真似をした?
間違いなく俺は彼女の言葉によって救われた。
それは紛れもない事実で、現に俺がこうしてここに立っていることが何よりの証拠。ギリギリのところで踏み止まれた証だ。
ではなぜ俺にそこまでのことをしてくれたのだろう。
人手不足だから? それともただの成り行きで?
色々考えてみたが、それらしい理由は何一つ思い浮かばない。
ただわかっていることは一つ。
大里は俺のことを少なからず気にかけてくれた。
その理由は何であれ、俺にとってはとても有り難いことだ。
——もう一度頑張ってみよう。
彼女のおかげでそう思うことができた。
「それで六月くんはこの後どうするのー? もしよかったら働いていくー?」
「すみません、今日はもう帰ります。家で妹が待ってるので」
「そっかー。それじゃ本格的なお仕事は明日からってことで!」
「はい。よろしくお願いします」
「うん。よろしくねー」
俺は店長に一礼して、控え室に置き忘れた荷物を取りに向かった。
その間にふと思い出してしまう昨日の記憶。そして後悔。
どちらも忘れることができない、忌まわしき思い出だ。
しかしその思い出を持ってしても、今ははっきりと言えることがある。
それはきっと、自分の力だけでは手に入れることのできなかった感情で、これからの俺を作っていく上で、とても大切なカギになるのだと思う。
——ここなら何とか続けられそうだ。
保証はどこにもないし、今後どうなるかなんて誰にもわからない。
でも今の俺なら、心の底からそう思うことができた。
——嫌——
時刻は午後7時を迎えようとしていた。
今日は昨日に打って変わり、テーブルには俺の作った夕食が並んでいる。
もちろんそれは当たり前のことで、本来ならば毎日がそうでなくてはならない。
しかし、本格的にバイトが始まってしまえば、そう上手くもいかなくなる。
すでに了承を得ているからとは言え、夏帆は今年受験生。
そんな大事な時期の妹に家事を任せてしまうのは、少しばかり心苦しい。
実際に昨日の夕食は、夏帆に作らせてしまったわけで。
おまけにだらしない俺は、それをご馳走になる始末で——。
——本当ダメだな、俺は。
つくづくそう感じてしまうのは、俺が本当にそうだからなのだろう。
受験を控える妹を支える立場なはずなのに、俺はいつも夏帆に気を使わせてばかり。
昨日だって夏帆は、落ち込んでいた俺に何も聞いては来なかった。
俺の心を察して、気を使ってくれた証拠だ——。
「ごちそうさま」
「早いな。もういいのか?」
「うん。まだやること残ってるから」
「そうか。頑張れ」
そう呟いた夏帆は、席を立ちリビングを後にしようとする。
——俺にも何かできることはないのか。
小さなことでもなんでもいい。
少しでも妹の力になってやりたい。
「頑張れ」なんて言葉は、今の夏帆には必要ない。
それよりももっと、気持ちのこもった何か——。
「そ、そうだ夏帆」
「ん? 何?」
「カフェオレ、飲むか?」
ずっと勉強していれば、いずれ眠気もやってくる。
それに打ち勝つためには、やはり温かいカフェオレが一番だろう。
「うん。飲む」
「そうか。それじゃ、後で部屋に持ってくな」
俺がそう告げると、夏帆はリビングのドアに手をかけた。
おそらく以前の夏帆なら、今のような返事は返さなかったと思う。
——素直になったな。
「兄貴」
「ん?」
すると夏帆は、何やらリビングの入り口で立ち止まっている。
こちらを振り返る様子もないし、一体どうしたのだろう。
「どうかしたのか?」
「えっと……その……」
「んん?」
さらには少し様子がおかしい。
身体をもじもじさせ何かをためらっているような、そんな風にも見える。
——具合でも悪いのか?
「あり……あり……」
「あり?」
「あ、ありがと……!」
そう一言吐き捨てて、夏帆は勢いよく2階へと駆け上がっていった。
——今『ありがと』って言ったのか?
俄かには信じがたいことだ。
あの当たりの強かった夏帆が、俺に自らありがとうと言うなんて。
正直驚いた。驚きすぎて言葉が出なかった。
最近少し素直になってきたとは思ったが、それでもここまでとは思ってもいなかった。
自然と嬉しさが湧き上がってくる。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて。口がぽかんと空いているのが自分でもわかる。
「ああー、箸箸」
床に転げ落ちていた箸に気づき、俺はすかさずそれを拾った。
それくらい今の一言は、俺の心にズバッと刺さったのだ。
「しかし……あの夏帆が……」
母さんをなくしてから、別人のように変わってしまった夏帆。
そんな夏帆が、ようやく昔のような明るさを取り戻しつつある。
それに気づけただけで、俺は自分のことのように喜ばしく思えた。
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