第17話 後悔
俺が家に着いたのは午後6時前のこと。
本来より3時間以上も早い帰宅だった。
玄関の扉を開け、荒く靴を脱ぎ捨てた俺は、そのまま無言で家へと上がる。
すると1階のリビングの電気がついていることに気がついた。
「そっか……ちょうど夕飯か」
ドアの内側からは何やらガサガサと音がするので、おそらく夏帆が夕飯の準備をしているのだろう。
本来ならば俺も手伝ってやりたいのだが、今はそういう気分になれない。
そして何より、受験を控えた妹に余計な心配をかけたくはない。
「すまん。夏帆」
そう小さく呟いた俺は、リビングの前を通り過ぎて2階へと上がろうとした。
その時——。
ガチャッとリビングの扉が開き、中からエプロン姿の夏帆が出て来た。
俺は少しの気まずさを覚えつつも、無言でその場に立ち止まる。
「何で兄貴が家にいるの? 今日からバイトじゃないの?」
「あ、ああ。まあ色々あってな」
夏帆の問いに俺はかなり歯切れの悪い返事を返した。
これではバイトで何かあったことがバレバレだ。
——間違いなく何か突っ込まれる。
俺はとっさに、今日起きた出来事の言い訳を考え始めた。
体調不良で帰らしてもらったとか。初日だから説明だけで終わったとか。
思いつく限りの理由を、頭の中に思い浮かべる。
しかし——。
「ふーん。まあ何でもいいけど」
あろうことか夏帆は、それ以上俺に何も聞いては来なかった。
それどころか、手に持っていたおたまでリビングの方を指し示し、
「夕飯。もうできてる」
「お、おう……」
「どうせ何も食べてないんでしょ? 早く着替えて来て」
そう俺に言ってくれたのだ。
予想外すぎる展開に、俺の脳はもう機能していない。
ただ突っ立ったまま、夏帆をじっと見つめているだけだった。
「何ぼーっとしてんの。さっさとして」
「あ、ああ。すまん」
そう一言呟くと、夏帆は再びリビングの中へと入って行った。
俺はその後ろ姿を、静かに眺めているだけ。
——一体どうしたってんだよ……。
夏帆のその優しさがなぜか心にしみる。
そして自然と思ってしまう。
——何やってんだ俺は……。
本来支える立場にいるはずの俺が、逆に妹に気を使われてしまった。
それは兄貴として少しの
いつもは当たりの強い妹からの優しさ。
どこか昔の夏帆を思い出すかのようで、自然と乱れた心が穏やかになる。
「ダメだな。俺も」
俺はそう小さく呟き、階段を駆け上がった。
もちろんまだ、自分の気持ちの整理はできていない。
この後どうしたらいいのかなんてわからない。
でも——。
夏帆のおかげで少し気が楽になったような気がする。
切り替えるきっかけができたような気がする。
だからこそ俺は振り返らないといけない。
一度後悔した過去を無駄にしないためにも。
——嫌——
『キーンコーンカーンコーン』
記憶に残る1日から一晩明け、時刻はもう放課後。
「そんじゃな春。また明日な」
「おう。またな」
チャイムがなるのと同時に、クラスの奴らは各々の準備に取り掛かる。
三宅もまた、この後にあるサッカー部の練習に備え、荷物を抱えて部室へと向かった。
「六月くん。今日バイトはないの?」
席に着いたままの俺にそう尋ねてきたのは、隣の席の冬坂白羽。
2人にはまだ昨日のことを話していないので、そう尋ねてくるのも当然のことだ。
「まあな。お前こそ、もう帰るのか?」
「今日は少し用事があって。すぐに帰らなくちゃならないのよ」
「そうか。気をつけてな」
俺がそう声をかけると、冬坂は少し驚いたような表情になり、
「あなたがそんなこと言うなんて珍しいわね」
「何が」
「その、 "気をつけて" とか」
「別に普通だろ。お前は俺をなんだと思ってんだよ」
「ふふっ。なんでもないわよ」
俺をからかうように笑った冬坂は、机に置いてあった荷物を肩にかけた。
「それじゃ、そろそろ行くわね」
「おう。じゃあな」
「ええ。さよなら」
そうして冬坂も教室を後にしたのだった。
気づけばクラスで残っているのは、俺を含め数人だけ。
ゲームをしている奴もいれば、永遠とだべっている奴らもいる。
おそらくこの中のほとんどが、目標もなくただダラダラと日常を過ごしている奴らなのだろう。
悲しことに、今の俺もその中の一員にすぎない。
再びバイトをするとは言え、俺には消えない前科がある。
またあのファミレスで働かせてもらえるわけがない。
「帰って他の場所探すか……」
小さくそう呟き、俺が席を立ち上がろうとした瞬間——。
「ねえ」
背後からそう声をかけられ、俺はとっさに後ろを振り向いた。
するとそこには、昨日一緒に働いた大里美咲の姿があったのだ。
予想外の事態に、俺は喉を詰まらすように沈黙した。
「あんたさ、何やってんの?」
「な……えっ……?」
「なんで仕事投げ出して帰ったのかって聞いてんの」
「い、いや……え……?」
状況の整理ができない。
頭の中は様々な思考が渦巻いてぐちゃぐちゃ。
そこに唐突と気まずさが重なって、俺の口からはまともな言葉が出てこない。
——てかなんで大里は、わざわざ俺に声をかけてきたんだ!?
一番の疑問はそこだった。
途中で仕事を投げ出した俺なんかに——ましてや嫌いであろう俺なんかに、なぜ大里は声をかけてきたんだ。
考えてみてもさっぱり訳がわからない。
「はぁ……。ちょっと顔貸して」
「えっ? 俺?」
「そうに決まってんでしょ! バカなこと言ってないで早くして」
「お、おう……」
そうして俺は大里に言われるがまま、彼女の後ろをついていった。
——嫌——
「な、なあ……どこまで行く気だよ……」
「…………」
やがて俺が連れてこられたのは学校の屋上。
野外で部活をする奴らの声が響き渡る中、大里は無言で立ち止まった。
そしておもむろに振り向いて、その鋭い視線を俺に向ける。
「私言ったよね? あんたにこの仕事できんのって。できないならやめといたほうがいいんじゃないのって」
「あ、ああ」
「それでもあんたはやるって言って始めたんでしょ? それなのに途中で投げ出して帰るとかどういう神経してるわけ?」
「す、すまん……」
「すまんじゃなくて!」
すると大里は一際大きい声を発した。
それには俺も、少しばかり驚いてしまう。
「ホントあんたってムカつく。そうやっていつも自分を守って被害者ズラして、何もできないのに強がってさ。ろくに人とも関わってこなかったくせに、他人のことだけは達観するような目で見る。いかにも『自分は1人ですよ』みたいな一匹オオカミ気取りも虫唾が走るくらいキモいし。昨日みたいな態度取ったら店にどれほどの迷惑がかかるかとか何も考えてないし。そういうとこ本当にうざいし、ムカつくし、本当嫌いだし——」
聞いているうちにふと共感してしまう。納得してしまう。
尖っているはずの彼女の言葉が、胸の内に響いてしまう。
それはきっと、俺自身もそう思ってしまっていたから。
自分の悪い部分に蓋をして、目を背け続けてきたからだ。
それがきっと俺の弱さなのだと思う。
昔から変わらない無力さなのだと思う。
だからこそ俺は隠し続けてきた。
何もできなかった過去を思い出さないためにも、目に入らないようにしてきたのだ。
そんな自分を隠すためにしていた蓋を、大里は今、叩き割ろうとしてくれている。「もうそんな物はいらない」って、俺の背中を押してくれているのだ。
「——たかが一回失敗したくらいで何? 次でそのミスを取り返せばよくない? 帳消しにはできないかもしれないけど、いくらでも乗り越えることはできるじゃん。じゃあなんであんたはそうしないの? 自分の弱さを隠そうとしてるからじゃないの? 自分の弱い部分から目を逸らして、都合の悪い過去を振り返りたくないだけでしょ? そういうのホントにくだらないしいらない」
大里は紛れもない本音を俺にぶつけてくれている。
どうしようもない俺なんかと真剣に向き合ってくれている。
それに気づいた瞬間、心が急に軽くなったのがわかった。
今なら弱い自分と向き合えるような気がした——。
「本当そうだよな……お前の言う通りだ」
「そう思うならもう一回やってみれば? 別に私は止めないし、笑いもしない」
そう呟いた大里は、少し含みのある表情になり、
「まああんたにその勇気があればの話だけど」
背中を押すようにそう言ってくれた。
俺を嫌っているあの大里がだ。
流石の俺も、ここまでされて黙ってはいられない。
自然と胸の内から思いが湧き上がってくる。
「……わるい大里。ちょっと今から行くとこできたわ」
「あっそ。勝手にすれば」
「ああ。そうさせてもらう」
そうして俺は走り出した。
行き先は言わずともわかるだろう。
いかなければいけないと思った。じゃなきゃ必ず後悔すると思った。
後悔に後悔を重ねることこそが、この世の中で一番愚かな選択だ。
ならば俺は走るしかない。後悔を後悔で終わらせないためにも。
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