第16話 厭忌

 それからしばらくして、事件は起きた。


『ピーンポーン』


 俺が食事後のテーブルを片していると、店内にオーダーコールが鳴り響く。


「大里は……」


 彼女は今、レジでお客さんの対応をしている真っ最中。

 つまりここは、俺が今やっている仕事を止めて向かうしかない。


「えーっと、場所は……」


 店内に表示されるテーブル番号を確認し、素早くお客さんの元へと向かう。

 本来俺はそうしなければならないはずだった——。


「ん?」


 しかし、その表示を見た俺が真っ先に抱えたのは、緊張などではなく疑念。

 どうしてそうなったのだろうという、少しばかりの違和感だった。


「6番テーブルって……さっきのとこだよな」


 表示されていた番号は6番。

 つまりは先ほど俺が注文を取りに向かった、4人家族が座っているテーブルだ。


「追加の注文か?」


 一度はそう思った俺だったが、よくよく考えるとそれはないと断言できた。

 なぜならつい先ほど、結構な量の料理を注文していたからだ。


 主食とも呼べる料理を人数分に加え、フライドポテトなどのサイドメニューも多数。普通これだけ頼めば、お腹もかなり満腹になると思うのだが——。


「水か」


 結果的に結びついた思考はこれだった。

 ご飯を食べれば必然と喉が乾くし、うちの店ではお水も店員が提供することになっている。おそらくは間違いないだろう。

 そう思った俺は、水の入ったボトルを持ってお客さんの元へと向かった。


「お呼びでしょうか」

「あのー、一つお聞きしてもいいですか?」

「は、はい。どうされましたか?」


 何やらお客さんの様子がおかしい。

 子ども2人は身体を揺さぶったりしてずっと駄々をこねているし、お父さんは険しい顔で腕を組んで、激しめの貧乏ゆすりをしている。

 さらに俺に問いかけてくるお母さんの表情は、落ち着いていながらもどこかイラついているような、そんな表情にも見えた。


「あのー……何かお困りでしょうか?」

「お困りというか……注文した料理はあとどれくらいで来ますか?」

「り、料理ですか!?」

「はい」


 確かに言われてみれば、まだ注文した料理がテーブルに一品も並んでいない。

 しかもテーブルは先ほどと変わらず綺麗なままなので、すでに食事を済ませて片付け終えた後とかでもない。


 これは一体——。


「ママー。僕お腹すいたよー」

「ちょっと待ってね。今店員さんに聞いてるから」

「うん、わかったー」

「この通り息子も待ちくたびれてます。注文してもう30分ぐらいは経ったと思うんですけど、さすがに遅すぎませんか?」

「し、少々お待ちください! すぐに確認してまいります!」


 そう吐き捨てた俺は、慌てて厨房へと向かった。

 料理を作っているのは店長だ。注文はしっかり取ったはずだし、間違いがあるなら俺のわけがない——。


「店長! 料理まだですか!?」

「んー? 料理ー?」


 厨房に駆け込むなり俺は、荒い声で店長にそう尋ねる。

 しかし店長は、現在料理をしておらず、俺の言った言葉の意味がわからないといった表情をしていた。


「料理ですよ! お客様の!」

「料理って言われてもー……。今のところ厨房には何の注文も入ってないよー?」

「えっ!? 何の注文も入ってないって……それ本当ですか!?」

「うん。現に僕料理作ってないしー」


 それは最もな意見だと思った。

 お客さんからの注文がなければ、厨房にいる店長の仕事もなくなる。

 確かに今の店長は、先ほどと比べて少し暇そうに見えた。


「で、でも、今お客様から注文した料理が届いてないって言われて……」

「えー? それって何番テーブルのお客様ー?」

「6番テーブルです」


 すると店長は、壁についている機械のようなもので、何かを確認し始めた。


「今確認してみたけど、やっぱり6番テーブルのお客様からの注文はないねー」

「そ、そんな……」


 一体どうなってしまったというのだ。

 俺は間違いなくお客様の注文を聞いた。間違いがないことも確認したし、完璧に仕事をこなしていた。


 ——なのになぜ、厨房にその注文が届いていない。


 俺はふとケツポケットにしまっていたハンディーを手に取り、その蓋を開いた。


 すると——。


「嘘だろ……」


 その声を最後に、俺の思考は完全に停止した。

 真実なのかすらわからなかった。


「んー? どうしたの六月くんー」

「店長……。もしかしてですけど……このボタン……」


 ボソボソと絞り出すようにそう呟きつつ、俺はハンディーの画面を店長へと向ける。

 するとその画面を見た店長は、化け物でも目の当たりにしたかのような表情になり、


「えー!? まさか六月くん送信ボタン押さないままポケットにしまっちゃったの!?」


 と、驚きの声を漏らした。


 その反応からしてガチ。どうやら俺は、相当シャレにならないことをやらかしてしまったらしい。

 そう思った瞬間、全身からブアッと冷や汗が湧き上がってきた。


「その送信ボタンを押さないと、厨房に注文のデータが送られてこないんだよー!」

「てことはつまり……。注文を聞いていないも同然ってことですか……?」

「そうなっちゃうよー!」


 何てことだ。

 あの時完璧にこなしていたと思っていた仕事は、ちっとも完璧なんかじゃなかった。むしろ最悪だ。それまでしっかりできていたことを、最後の最後で台無しにしてしまったのだから。


「店長。どうかしました?」

「ああー大里さん。今ね、六月くんがちょっとミスしちゃったみたいで……」

「はぁ!? ミスって何を!?」

「お客様からの注文を送信するの忘れてたみたいで、クレームを入れられちゃったんだよー」

「送信するの忘れたって……。それじゃ注文聞いてないのと一緒じゃないですか! どうするんですか!」


 厨房へと戻ってきた大里が、俺がやってしまったミスを知り声を荒げる。

 当然のことだ。まだ料理を作ってすらいない上、すでに30分以上もお客さんを待たせているのだから。


「お、落ち着いて大里さんー……。とりあえずお客様には僕から謝罪を入れておくからー」

「お、俺も行きます」

「うん、そうした方がいいねー。それじゃ大里さん、お店のことは頼んだよー」

「はっ!? 頼んだって……私料理の仕方とかわからないんですけど!」

「大丈夫ー。今はこれといって注文はないからー」

「で、でも……!」


 そうして俺と店長は、お客さんの元へと急いだ。



 ——嫌——



「この度は大変申し訳ありませんでした!」「この度は大変申し訳ありませんでしたー!」


 お客さんに包み隠さず事情を説明した後、俺と店長は揃って頭を下げていた。


「つまり……私たちの注文は忘れられていたと?」

「はいー、本当に申し訳ございませんー。今回の件は全て私の責任ですー」


 さらに店長は、一切の迷いを見せずそう言って退ける。

 本来ならば俺が取るべき責任を、店長自ら肩代わりしてくれたのだ。


「責任? それなら注文を取りに来たこの人が取るべきでしょう?」

「彼はまだ新人で、今日からここで働き始めたばかりなんですー。ですので彼がやってしまったことの責任は、店長である私の方にありますー」

「新人……。そうですか」


 鋭く尖った視線を向けられ、一度は目を逸らしそうになるも、俺は何とかお客さんの視線から目を背けなかった。


「ですが、私たちが待った時間はどうするおつもりですか?」

「はいー。注文していただいた料理はすぐにでもお持ちいたしますのでー」

「すぐにって、どれくらいですか?」

「10分少々いただけたらとー……」

「10分……」


 すると女性のお客さんは、勢いよくその場を立ち上がり、


「いい加減にしてください! こっちはもう30分以上も待たされてるんですよ!? それなのにあと10分も待てだなんて、バカにしているにもほどがあります!」

「お、おいママ……いくら何でもそこまでは……」

「あなたは黙っていてください!」

「は、はい……」


 お父さんが止めようとしても、それを聞く様子は全くなく、女性はさらに顔をこわばらせ、


「いいですか! 私たちはお腹を空かしてここへ来てるんです! なのにいくら待っても注文した料理が来ない。普通に考えたらおかしいでしょう!」

「で、ですからー……あと10分ほどお待ちいただけますとー……」

「10分だなんて、もうそんなに待てません!」

「お、お客様ー? ど、どちらへー?」

「帰ります!」


 そう言うと女性は、おもむろに荷物を背負い、


「ほら、帰るわよ」

「帰るったって……夕飯はどうするんだよ……」

「そんなの途中で買って帰ればいいんです。あなたも早くしなさい」

「は、はい……」


 半ば強引に家族を連れて、テーブル席を後にした。


 ——これはまずいな……。


 その間俺は、一方的なお客さんの態度に圧倒されているだけ。

 謝罪することも、引きとめることもできない。ただ見ているだけだ。


「て、店長……。俺はどうしたら……」

「んー、せめて店の入り口までお見送りして差し上げてー」

「わ、わかりました」

「ちゃんと頭を下げるんだよー」


 店長に言われるがまま、俺はお客さんの後をついていくようにして、入り口まで歩いた。

 そしてお客さんが店から出ようとしたその時——ふと思った。


 ——やはり俺の口からもちゃんとした謝罪をするべきだ。


 先ほど店長と揃って頭を下げたことには下げたが、それだけでは足りない気がする。

 今日から入ったばかりの新人とはいえど、俺とてもう高校生だ。

 自分の意思で謝罪ができなければ、自立したとはいえない。


 そう思った俺は、緊張を喉の奥に流し込み、ゆっくりと口を開く。


「あ、あの! 先ほどは大変申し訳ありませんでした!」


 頭を下げていても、帰ろうとしていたお客さんが俺の声で立ち止まったのがわかった。

 そして何やらこちらに近づいて来て、


「ここの店の評判、本当だったんですね」

「えっ?」

「ろくな従業員がいない最低なファミレスだって。単なる噂だと思ってたのだけど——」


 そう言うとお客さんは俺に背を向け、さげすむように一言吐き捨てた。


「もう二度とこんなお店には来ませんから」


 二度と来ない——。


 一番言って欲しくない言葉だった。

 お店として、一度来たお客さんにまた来てもらえることこそが喜びであり、それはやがてお店の発展にも繋がっていく。


 しかし二度と来ないと言われてしまっては、もうそれ以上どうすることもできない。いくら自分で反省しようが、もうお客さんが来ないのだから、意味がなくなってしまうのだ。


 やってしまった。

 俺は初バイトにしてとんでもないミスをしてしまった。

 お客さんを待たせるだけ待たせた挙句、結局料理を提供できないまま帰宅。

 お店の信頼も失い、おまけに店長にまで頭を下げさせてしまう。


 最低だ。最低の行為だ。

 こんな最低な奴が、このままここでバイトを続けていいわけがない。

 お店にも迷惑がかかるし、何より俺自身がそれを許すことができない。

 こんな最低なバイトは今すぐにでもやめた方がいい——。


「む、六月くんー、どうだったー?」


 お客さんを見送った俺に、店長がそう尋ねてくる。


 ——わかってんのに聞くなよ。


 そんな最低な思考さえも、今の俺からは浮かび上がってきた。


「もう二度と来ないらしいです」

「そ、そっかー。まあ仕方ないねー。今日が初めてのバイトだし、あんまり気を落とさないでねー」

「仕方ないって何ですか……」

「え、えー? ど、どうしたの六月くんー?」


 なぜかはわからない。

 わからないのだが、今の店長の一言には凄く虫唾むしずが走った。

 今日が初めてだから仕方ないとか。気を落とさないでとか。

 普通に考えたらおかしい。


 現にさっきの客は、もう二度と来ないと断言したんだ。

 そもそも客がいなければ何も始まらないこの店にとって、その大事な客に二度と来ないと言わせた従業員など、使えないただのゴミも同然。

 本来ならばもっと罰を与えられなければならない。


 それなのに——。


「仕方ないって何ですか。気を落とさないでって何ですか」

「む、六月くんー……? 具合でも悪いー?」


 ——何言ってんだこのおっさんは。


 本当に従業員のことをわかっていない。すこぶるムカつく。

 無意味に長い語尾もムカつく。無駄に優しいその態度もムカつく。

 そしてそんな店長にムカついている自分にもムカつく——。


 ムカついてムカついてムカついて……。

 結局最低な俺が吐いた言葉は——。


「すみません。今日は帰ります」

「えっ……?」


 戸惑う店長になど構いもせず、俺は逃げるようにして店を出た。

 まだ明るい空の下、がむしゃらに駅までの道を走る。

 その間幾度となく蘇ってしまう。


『もう二度とこんなお店には来ませんから』


 蘇るたびに、胸が引き裂かれるように痛む。

 本当に俺は最低だ。生きる価値もないクズ野郎だ。

 自分の価値を改めて認識する。


 そしてふと気がついてしまう。


 ——また俺は逃げ出してしまった。


 あれだけ後悔して、もう二度としないと決めていたことを、俺はまた平然とやってしまったのだと。


 それに気がついた瞬間、またあの感情が胸の内から湧き上がってくる。

 そして全身を包み込むように広がり、無視することができないくらいべっとりとまとわりつく。


 俺は自分が大嫌いだ——。

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