第10話 6年

 6年前——俺がまだ小学5年生だった頃。

 この家には俺の他に3人の家族が住んでいた。


 当時小学3年生だった妹の夏帆、そして父さんに母さん。

 決して裕福とは呼べなくとも、俺はあの頃の日常がとても好きだった。


 家族4人で囲む夕食のテーブル。その中心にあるのは全て母さんが作ってくれた美味しい料理たちだ。

 バリエーション豊富なその中でも、俺が特に好きだったのは、ふわとろの卵が特徴的なオムライス。おそらくそれは夏帆も同じだったと思う。


「お母さん。俺がケチャップかける」

「あら。それじゃお願いしようかしら」


 俺はよく、出来上がったオムライスにケチャップをかける係を率先して引き受けていた。

 父さんのオムライスには文字を書いてみたり、夏帆のオムライスにはフルネームで名前を書いてみたり。

 そして母さんのオムライスには絵を描いてみたり——。


「はいこれ。お母さん」

「ありがとう。春は絵が上手なのね」


 オムライスの上に描かれた俺の絵を、母さんはいつも笑顔で褒めてくれた。

 俺はそれが嬉しくて『毎日オムライスになればいいのに』とさえ思っていたほどだ。


 明日も明後日もそのまた明日も、母さんの作るオムライスに俺がケチャップをかけてみんなに喜んでもらう。

 俺はそうして家族全員でずっと笑って過ごしていたかった。


 なのに——。


「あれ? お母さんは?」

「お母さんな、入院することになったんだ」


 ある日。母さんが突然入院した。

 原因は軽い病気で、少し入院したら治る。俺は父さんにそう聞かされていた。

 すぐにまたみんなで笑って過ごせる日が来る。俺はそう信じていたのだ。


 しかし母さんは1ヶ月経っても2ヶ月経っても家には戻ってこなかった。

 それどころかお見舞いに行くたびに母さんの具合が悪くなっていくのだ。

 手足は痩せ細り髪は抜け、心なしか話す声にも前のような元気が感じられない。

 気がつけば母さんは、ベットから身体を起き上がらせることも困難なほどに衰弱すいじゃくしていた。


「お母さん大丈夫?」

「大丈夫よ。春は優しいのね」


 それでも母さんは俺が心配顔を浮かべると、優しく手を握りしめてくれた。


 ——大丈夫大丈夫。


 母さんがそうしてくれると、なんだかすごく落ち着いた。大丈夫な気がしてきた。

 また以前のように4人でオムライスが食べれる日が来る。そう信じることができた。


 しかし——。


 ある日俺は聞いてしまった。


「おそらくもう、長くはないかと……」

「そうですか……」


 たまたま俺が病院内を歩き回っていた時、父さんと白衣を着た病院の先生が何やら話しをしていたのだ。

 深刻そうな2人の表情に興味を惹かれ、俺は隠れてその会話を覗いていた。


「残念ですが……おそらくもって1ヶ月かと……」

「1ヶ月……ですか……」

「はい……。手は尽くしたのですが……我々の力不足で……」

「いえ、先生方は全力で頑張ってくださいました。私はとても感謝しています」


 1ヶ月——。


 すぐに良くなると聞かされていた母さんは、あとたったそれだけの時間で死んでしまう。

 それを聞いた瞬間、俺の頭は真っ白になった。

 今まで描いていた夢や妄想が一瞬にして白く塗りつぶされてしまったのだ。


 受け止めきれなかった。

 大好きな母さんが、あと1ヶ月で自分の前からいなくなってしまう。

 あんなにも大丈夫と言っていた母さんが、俺を置いてどこか遠くへ行ってしまう。

 もう家族4人でオムライスを食べることもきっと——。


 凄く怖かった。怖くて怖くてどうすることもできなかった。

 病室で母さんと楽しそうに話している夏帆にも伝えることはできない。父さんにそれが事実なのか聞くこともできない。俺が母さんの病気を治してあげることももちろんできない。


 俺はどうすることもできなくて1人でそれを抱え込んだ。

 そして次第に笑顔を向けてくれる母さんにも笑顔で答えてあげることができなくなっていた。


 あの時の俺は、生まれて初めて自分の無力さを噛み締めたのだ。

 自分の無力さを噛み締めて、母さんを救ってあげることを諦めていたのかもしれない。

 もう前のような日常は戻ってこないと、勝手に決めつけてしまっていたのかもしれない——。


 そして——。


 母さんが亡くなったのはそれからちょうど1週間後のことだった。

 原因は乳がん。それが発覚した頃にはもうすでに手遅れだったらしい。


 あまりにも唐突で悲しい別れ。

 そのはずなのに、あの時の俺は一瞬たりとも泣くことはなかった。

 夏帆の泣き顔を見ても。父さんが涙をこらえている姿を見ても。俺の瞳からは涙一滴すら湧いてこない。


 やがて親族で開かれた葬式に出席し、俺は別れの言葉を読んだ。

 しかしなぜか涙は出てこない。

 あまりにもすらすら読んだせいか、終いには「いいスピーチね。上手だったわ」と親戚のおばちゃんから褒められるほどだった。


 それくらい、自分の中には何も残っていない。

 母さんをなくしても悲しくなれない、喪失感さえも感じないただ真っ白なだけの人間。


 それがあの時の俺だった——。



 ——嫌——



「もう6年か……」


 俺は自室のベットで仰向けに寝転びながらポツリと呟く。

 思い返せばこの6年は凄くあっという間だった。

 ただひたすら無力を噛み締めながら生きたせいか、特にこれといって記憶に残る思い出もない。文字通りの白紙だ。


 やがて中学に上がった俺だったが、心のしこりは一向に取れる気配を見せず、気づけば俺の周りには友達がいなかった。

 あれだけ笑顔が似合っていた夏帆からは笑顔が消え、母さんをなくし1人で家族を支えることになった父さんは、毎日かなり疲れた様子で家に帰ってきていた。


 それでも父さんは泣き言を一切言わず、男手一つで俺たち兄妹を育ててくれた。

 仕事が大変なのにもかかわらず、以前母さんが請け負っていた家事も全て父さんがこなし、俺たちの前では笑顔を絶やそうとはしなかった。

 そのおかげもあって俺が高校に上がる頃には、心のしこりもだいぶ小さく落ち着き、昔のように笑える機会も増えてきていた。


 そんな時だった——。


 今まで俺たち兄妹をずっとそばで支えてくれていた父さんに、転勤の話が舞い込んできたのだ。

 行き先は長崎。東北地方に住んでいる俺たちにとっては未開の地とも呼べる遠方だった。

 

 俺たちを置いて九州になど行けないと、始めこそその話を断ろうとした父さんだったが、俺ももう高校生だ。

 父さんはたった1人でも一生懸命俺たちを育ててくれたし、俺たちもそろそろ自立しないと行けない頃だろう。それに家事に追われながら仕事をするより、転勤して仕事だけに集中した方がいい。

 そう思った俺が父さんにそのことを伝えると、「春がそう言うなら」と長崎への転勤を決意した。


 そして俺が高校に入学するのを境に、俺たち兄妹と父さんは別々に暮らすことになったわけだが、なんだかんだで特に大きな問題もなくここまで来ることができた。


 高校生になったということでアルバイトを始めようとした俺だったが、父さんはそれを認めてはくれなかった。

 というのも、それは決して否定的な意味を込めたものではなく、「お金を稼ぐのは父さんに任せて、春は夏帆のことを見守ってやっててくれ」という父さんの優しい配慮だった。


 今まではそれに甘えてきた俺だったが、よくよく考えれば俺たちの生活費を父さん1人でまかなうのは相当な苦労だろう。

 別々に暮らしているからわからないが、今父さんがどんな生活をしているのかとても気になる。

 もしかしたら自分は我慢をして、俺たちに仕送りしてくれているのかも——。


「ちょっと電話してみるか」


 そう思った俺は、少ない連絡先の中から父さんの携帯番号に電話をかけた。

 プルルルルという音が数回鳴った後、『はい』と記憶に新しい声が聞こえて来る。


「父さん。俺だよ」

『おお春。元気だったか?』

「俺は変わらず元気。父さんは?」

『俺も元気でやってる』

「そっか。それなら良かった」

『夏帆はどうだ?』

「夏帆も変わらず元気だよ。相変わらず俺には当たりが強いけど」

『そうか。それなら心配ないな』


 嬉しそうに笑った父さんは、


『そういえば今日、夏帆の誕生日だろう。何かプレゼントはあげたのか?』

「ああ、プレゼントなら渡したよ。あとステーキも食った」

『そうかそうか。本当なら父さんからもプレゼントをあげたいんだが、なかなかな……』

「気にしなくていいよ。父さんは仕事頑張ってんだから」


 父さんは優しい。会話をするたびにそう思う。

 おそらく向こうでもずっと俺たちのことを心配してくれているのだろう。

 だったら尚更、これ以上父さんの優しさに甘えては行けない気がする。

 俺も父さんのためにできることをしなくては——。

 

「そうだ父さん。話があるんだけど」

『ん? どうした?』

「やっぱり俺バイトするよ。これ以上父さんばかりに負担はかけれない」

『バイトするって……父さん言ったろ? 春は夏帆のことを見守ってやっててくれって』

「もちろん夏帆のことは今まで通り見守る。でもそれじゃ父さんのことは誰が守る?」

『それは……』

「父さん。俺たちにはもう父さんしかいないんだ。母さんが死んで父さんまでいなくなったら俺たちはどう立ち直ればいい?」


 ——もし父さんが死んでしまったら。


 それを考えるだけでも胸が押しつぶされるように痛んだ。

 何もできなかったあの時と一緒だと思うと、俺には我慢ならなかった。

 

「父さんが俺たちのことを心配してくれてるくらい、俺も父さんのことを心配してるんだ。もう子どもじゃないんだし、夏帆を見守りながらだってバイトの一つくらいできる」

『んん……』


 俺がそう伝えると、父さんはしばらく黙り込んだ。

 そして一つ長いため息をついた後、


『わかった。春がそう言うなら好きにしなさい』

「てことは……バイトしていいってこと?」

『ああ。でも無理はするなよ? 春にだって学校があるんだ。バイトとうまく両立できるようによく考えてやりなさい』

「わかった。ありがとう父さん」

『それにもし父さんが春たちを残してくたばったら、天国の母さんに叱られそうだしな』


 終いに父さんはそんな冗談を言ってみせた。

 電話越しに聞こえてくる父さんの笑い声がどこか懐かしく、楽しかった昔の記憶を蘇らせてくれる。

 それは俺にとってかけがえのない思い出であり、これからもずっと守っていかなくてはならない宝だ。


 だからこそ俺はバイトをする。

 働いてお金を稼いで少しでも父さんの負担を減らして、天国の母さんに心配をかけないようにしなくてはならない。俺たちが大丈夫な姿を見せなくてはならない。


「それじゃ父さん、仕事頑張って」

『ああ、春こそ勉強頑張れよ。それと、夏帆に誕生日おめでとうって伝えといてくれ』

「わかった。おやすみ父さん」

『おう、おやすみ』


 そうして俺は父さんとの電話を終えた。

 プープープーとケータイから流れる音を聞いて、少しの名残惜しさも感じる。


 ——父さんとこうして会話をしたのはいつ以来だろう。


 思い返せばここ最近、父さんとまともに連絡を取っていなかった。

 仕事の負担を考えて、こちらからはできるだけ電話をかけないようにしていたのだ。


「今度からはちょこちょこ連絡するようにするか」


 おそらく父さんは俺たちのことを第一に考えてくれている。

 そんな父さんに心配をかけないためにも、近況報告というものをこまめにしてあげた方が、なんの懸念もなく仕事に打ち込むことができるだろう。

 それに俺自身、父さんと話している時間は結構好きだ。


「そうだ。夏帆」


 俺は思い出すかのようにベットから起き上がり、部屋を出た。

 そして夏帆の部屋の前に立ち、父さんから頼まれた言葉を伝える。


「夏帆。起きてるか?」

「うん」

「今父さんと電話したんだけど、誕生日おめでとうってさ」

「うん」

「父さんも元気でやってるみたいだから、心配すんな」

「うん」


 それだけを伝えて俺は早々に部屋へと戻った。

 おそらく勉強しているだろうから、これ以上邪魔をするわけにもいかない。


「よし、俺も頑張るか」


 そう小さく呟いた俺はベットではなく机に腰を下ろし、アルバイトを募集しているところがないかをケータイで調べることにした。


 根暗でコミュ力が低い俺なんかを雇ってくれるところがあるのかはわからない。

 それでも俺は頑張ろうと思えたのだ。冬坂と会って。夏帆の喜ぶ顔を見て。久しぶりに父さんと電話して。

 

 この気持ちを忘れないうちに行動に移したい。

 そう思いながら俺は、募集されているアルバイトの掲示板をじっくりと眺めた。

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