第7話

 作之進は中学三年時を思い出した。

 当時、作之進は鬼山とクラスメートで、共に柔道部に所属していた。中学時代の鬼山は一貫して作之進より背丈が低く、今より遙かに柔弱で優しい顔立ちだった。鬼山が容貌魁偉になったのは、高校に入ってからである。

 柔道の技量は常に作之進が上だった。乱取り稽古や校内紅白戦では作之進が必ず鬼山に勝っていた。同じ柔道部のよしみで仲は悪くなかったが、作之進に投げられたときに見せる鬼山の悔しそうな表情は気になったものだ。

 夏休みの初日。柔道部の朝稽古が終わり学校の道場を後にした作之進は、追いかけてきた鬼山に昼食に誘われた。

 作之進は午後からクラスメート数人と市営プールに泳ぎに行く予定で、正午に彼らと待ち合わせをしていた。昼食はプールの売店でハンバーガーと飲み物を買い、簡単に済ませるつもりだったので、それを話し断った。

 しかし鬼山は引き下がらなかった。校門を出た作之進の後を執拗についてきて、母さんが山田君を招待するように言っている、と同じ言葉を繰り返した。

 プールへ向かうため乗った市電の中でも同じ言葉で懇願され、ついに作之進は根負けした。ケータイで仲間に断りの電話を入れ、次の電停で市電を降り、鬼山の家へ向かった。

 鬼山の家に昼食に招待されるのは、今回が初めてではなく、四月と五月に一度ずつあった。四月が鰻重で、五月は出前の寿司だった。寿司はそれほどでもなかったが、鰻をふんだんに使った鰻重は焼き加減が絶妙で、頬っぺたが落ちそうなほど美味だった。今でもあのときを思い出すと、パブロフの犬みたいに口の中に唾がたまる。

 母の話では鬼山の家は消費者金融を手広く営む資産家で、四十代後半の鬼山の父は当初は目立たなかった質店を、この十年のうちに急速に事業の規模を拡大させ、県内十数カ所に支店を構えるまでになったという。二年前に今の場所に千坪の土地を買い、広壮な邸宅を建てた。

 四月に初めて鬼山の家に呼ばれた作之進は、目を瞠ったものだ。猫の額ほどの庭のついた建て売りの自分の家とは、比べ物にならない大きさだったからだ。

 純日本風の庭とテニスコート、ミニゴルフ場のついた木造二階建てのお城のような家だった。白砂と玉砂利の敷き詰められた広い庭には、大小数十本のソテツを直植えした小高い丘があり、丘の手前には十メートル四方ほどの古石の池が穿たれ、その中には巨大な緋鯉が数匹見えた。

 鬼山の家に着いた作之進は、壁に象牙の飾られた無言の威圧を感じさせる玄関で靴を脱ぎ、BGMにベートーヴェンの「運命」が流れる食堂へ通された。

 山田君、良く来てくれたわね、と鬼山の母は懐かしそうな笑顔で迎えてくれた。レンズの分厚い黒縁メガネをかけた、痩せぎすの教育ママ然とした鬼山の母は、四月に会ったときに何でもはきはきと答える作之進に好印象を持った様子だった。五月もそうだったが、今回も作り物の笑顔ではなく、心底から作之進の来訪を喜んでいるのが自然に感じ取れた。

 作之進は十人が座れる茶褐色にコーティングされたダイニングテーブルの真ん中に鬼山と並んで座り、向かいに鬼山の母と小学六年になる鬼山の妹が座った。鬼山の妹は色黒の鬼山とそっくりの顔立ちだが、性格は鬼山より明るく、にこにこ笑顔を絶やさない愛嬌のある子だ。

 出前のチャーシュー麺と八宝菜を食べながら作之進は、訊かれるままにクラスのことや部活のこと、高校受験、将来の夢を話した。自分は成長期が過ぎたからこれ以上身長は伸びないが、成長期がこれからの鬼山は身長が伸びるから、柔道の技量も今以上に進歩すると言ったら、母と妹は嬉しそうな笑みを見せた。

 食事を終えると、二階の八畳洋間の鬼山の部屋で、母親が淹れてくれたキリマンジャロ・コーヒーを飲みながら、様々な話をした。

 鬼山は進学について自分は県立の普通高校に行きたいのだが、両親は他県の私立進学校を受験しろと言ってきかない、それで困っていると、ロダンの「考える人」のポーズを取りながら打ち明けた。

 作之進は自分も県立の普通高校を志望しているが、お前が真剣に地元の県立高校を望んでいるなら、親が何と言おうと自分の人生なんだから、家出してでも絶対に自分の意志を通すべきだとアドバイスした。

 鬼山は勇気づけられた様子だった。瞳を輝かせ、ありがとうやっぱり山田に打ち明けて良かった、お前と同じ柔道部でクラスメートで良かった、と涙ぐみながら作之進の手を握った。

 部屋のドアがノックされ、鬼山が返事すると、両手にトレイを持った鬼山の妹が入ってきた。妹は茶目っ気たっぷりに笑い、山田君の大好きなおやつです、とチーズケーキを二皿勉強机に置き出ていった。五月に来たときに出されたチーズケーキを、作之進が美味しいと言ったのを鬼山の母は覚えていたらしい。

「母さんは山田のことを気に入っているみたいだ。デパ地下まで行って買ってきたそうだ」

 鬼山はチーズケーキを摘み、かぶりついた。

「これはありがたい。お前のお袋さんは本当、気がきくな」

 作之進もチーズケーキを手に取り、ほおばった。口の中で上品な味が弾け、チーズの香りが鼻へ抜けた。五月に食べたチーズケーキより美味だと思った。

 鬼山の部屋には、男性アイドルグループと米国人男優のポスターと写真が張られていた。普通は女のポスター張るよな、と作之進は思った。作之進の部屋には、女性アイドルの水着ポスターが張られている。

 作之進が冗談めかして、お前、男が好きなのかと尋ねると、鬼山は狼狽した様子で妹がファンクラブに入っていて、手に入る写真、ポスターは全て集め、雑誌の記事も目に入るものは欠かさずスクラップしている、このポスターと写真は妹に部屋に張るよう頼み込まれて、仕方なく張っているのだと弁解した。

 二人はクラスの女生徒の品評会もした。

 鬼山はクラスに魅力を感じるような女子は一人もいない、強いて言えば、隣のクラスの生徒会長で秀才の杉山佳織に魅力を感じると言った。

 作之進は密かに白鳥夕子にこころ引かれるのだが、白鳥は面食いみたいだから、おれが白鳥と付き合う可能性は万に一つもないだろうと話した。

 鬼山は自分の親と白鳥の親が知り合いだから、その縁で力になれるかもしれない、仲を取り持つキュービッドになろうかと申し出た。作之進はお前の気持ちは嬉しい、将来お前に頼むこともあるかもしれない、しかし今は自分の力で何とかしたいから、おれが頼むまで見守っていてくれと答えた。

 作之進と鬼山の仲は、この日から急速に親密なものになった。互いの家を行き来する回数が増え、学校ではもちろん、休日も共に過ごすようになった。

 しかし作之進と鬼山の友情は、ある事件を契機に破綻する。

 それは三学期が始まり数日が過ぎた日だった。二学期の終わりごろから白鳥の机の中や靴箱の中に、差出人不明の嫌がらせめいたラブレターが頻繁に置かれるようになり、白鳥がそれを公開したことで、クラス中が犯人捜しに躍起になった時期だった。

 その日、登校した作之進に隣の席の級友がお前、悪い噂が立っているぞと耳打ちした。どういう意味だと尋ね返す作之進にその級友は、白鳥へのラブレターはお前が犯人だともっぱらの噂だと言った。

 作之進が改めてクラスを見回してみると、皆何となくよそよそしく、作之進と視線を合わそうとはせず、避けるようなそぶりがあった。

 身に覚えのない濡れ衣に作之進は激昂した。

 昼休み、教室で最も早耳の女生徒二人を音楽室に呼び出し、どこから自分の名前が出てきたのか問いただした。二人は鬼山君が犯人は山田だよ、白鳥のことを好きだから、と言っていたと答えた。

 作之進は早速鬼山を屋上に呼び出し、追及した。場合によっては鉄拳制裁を加えるつもりで。

 鬼山は作之進の怒ったヘラクレスのような剣幕に、最初は恐れおののき、否定した。しかし、嘘だと後で分かったら容赦しない、正直に言えば、絶対に何もしないと請け合うと、「そう言った。ラブレターもおれが書いた。おれは勉強でも柔道でもお前に勝ったことは一度もない。それが悔しい。悔しいし、お前が憎かった。お前に近づいたのはお前の弱点を探るためだ」と告白した。

 それ以来、作之進は鬼山との交際をやめた。

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