第6話

「作! 出番だぞ。お前、呆けた顔して何考えてんだ?」

 中村が作之進の背中をばしっと叩いた。

 準々決勝の作之進の試合が始まろうとしている。しかし、空手の勝ち負けなどどうでも良いと思っている。

 作之進は立ち上がり、膝の屈伸運動をした。

「おれはもう試合なんかどうでもいい。家に帰りたい」

 中村は舌打ちした。

「しっかりしろ。鬼山に何か言われたのか?」

 作之進は二階で夕子と鬼山を見かけたと話した。

「だから鬼山が言ったことは、おれの調子を狂わせるための策略でも何でもなかった。事実を言っただけだ。白鳥は鬼山との交際を承諾した」

「本人に確認したのか?」

「確認するまでもない。あの親しげな光景を見れば、誰でも分かる」

「諦めるのは事実を確認してからでも遅くはない。それまでは投げやりになるな。高校最後の大会だぞ。後々、後悔するような試合はするな」

 作之進と対戦相手の名前がアナウンスされ、作之進は試合場へ向かった。

「いいか、余計なことは忘れろ。無のこころで行け!」背後で中村が叫んだ。

 無のこころになれたら、どんなにか楽だろうと作之進は思った。試合場に入り、中央の所定の位置に立った。

 相手は工業高三年の川島。鬼山と同じ位の上背があり、懐は深いが、俊敏な動きに欠け、突きも蹴りもそれほどの威力はない。作之進がいつもの闘い方で普通に闘えば、勝てる相手だ。

 川島と相対して立った作之進の目に再び衝撃の光景が飛び込んできた。川島の後方の観客席に夕子と鬼山が並んで立っている。

 夕子は作之進と目が合った瞬間、にっこり笑み、片手を振った。唇の動きからがんばってと言っているように見える。隣の鬼山はきざな真っ赤なスポーツタオルを首に巻き、薄笑いを浮かべている。

 作之進のこころに立ったさざ波は、怒涛の兆しを見せながら今のところ異様な静けさを保っていた。

 鬼山の応援に来たら、昔の彼氏の試合が始まったので、知らない顔もできず、義理で応援してやるということか? 勝手に応援してくれ。おれはお前に応援されようが、されまいがベストを尽くすだけだ。お前と鬼山が付き合おうが、付き合うまいが、そんなことはもうどうでもいい。おれはお前のことなんか忘れて、自分にできるベストの闘いをするだけだ。自分に言い聞かせた。

 主審の「始め」の合図で試合が始まった。

 作之進は相手が構える前に両拳で顔面をカバーし、一気に間合いを詰めた。突きのワン・ツーから得意の左ハイキックを放った。意表をつかれた川島は後ろへ下がり、場外へ逃れた。両者中央へ戻り、試合が続行された。

 作之進は今度も一気に前に出た。川島が出した牽制の左前蹴りを左手で払い、右ハイキックを放った。川島はスエーバックでハイキックをかわし、一回転した作之進に膝蹴りを合わせた。

 右手でブロックしたが、遅かった。川島の右膝が作之進の顎を捉えた。

 顎から後頭部へかけて重い衝撃が走り、作之進は片膝をついた。一瞬、気が遠くなりかけたが、首を振り、堪えた。

 主審の右手が上がった。

「技有り!」

「いいぞ! 川島。その調子だ」

「優勝狙えるぞ。第二の山田なんかぶっ飛ばしてやれ」

 作之進の耳に工業高応援団の気合いの入った歓声が、地響きのような耳鳴りになって聞こえてくる。

「はい、立って!」主審が作之進を促した。

 作之進は立ち上がり、川島と相対した。力みすぎていると思った。こころに立ったさざ波が、身体の柔軟性を失わせ、必要以上に五体に力が入りすぎているのだ。

 主審の合図で試合が再開され、作之進は遮二無二前に出た。先に技有りを取られたから消極的な試合運びでは、判定負けになるのは目に見えている。攻撃しかなかった。ワン・ツーからローキック、ハイキックを雨あられと繰り出した。自分の闘志が空回りしているのは分かっていたが、それしかなかった。

 試合終盤、揉み合いの中、作之進が無我夢中で繰り出した右のボディーブローが、川島のみぞおちに決まり、作之進は技有りを取り返した。試合は続行されたが、ほどなく時間切れとなり、勝敗は判定に持ち込まれた。

 主審、副審合わせて五名による判定の結果は、両者技有り一つずつのイーブンながら、攻めに終始した作之進の積極姿勢が評価され、作之進の勝ちと決まった。

 第二高校応援団の歓声と喝采の中、作之進の目に夕子が嬉しそうに拍手している姿が見えた。鬼山は色黒のこわい顔に相変わらず薄笑いを浮かべている。

 作之進は川島と握手した後、試合場を出、チームメートの元へ戻った。

「作! お前らしくないぞ。どこか具合いでも悪いのか?」

 監督が訝しげな表情で作之進の五分刈り頭を撫でた。

「オス! たまたま川島の膝が入っただけです」

「そうか。次は油断するな」

「オス!」

「オス! お疲れ様です」新入りの一年部員がオシボリを差し出した。あどけない顔に緊張と恐れと憧れの入り混じった複雑な笑みを浮かべている。

 作之進は礼を言って、オシボリを受け取り、顔と首の汗を拭い、中村の隣に腰を下ろした。

「川島はお前なら楽に勝てる相手だぞ。明鏡止水のこころはどうした?」

「おれは宮本武蔵にはなれないし、柳生十兵衛や山岡鉄舟にもなれない。そのことが骨身に沁みて分かった。明鏡は砕け散って、跡形もない。今のおれにできることは、調子が悪いなら悪いなりにがむしゃらに前に出ることだけだ」

 中村は作之進の横顔を覗き込み、耳元でささやいた。「白鳥のことが気になるか?」

「分からん。忘れようとしたが、身体が硬くなった」

「オス。失礼します」

 作之進は後ろから肩を叩かれた。振り返ると、オシボリを持ってきた新入りの一年部員が立っている。

「何?」

「オス。あちらで女の人が呼んでおられます」

 一年部員は会場の正面入口を指差した。作之進が目をやると、行き交う生徒や父兄に交じり、夕子が入口右横の側壁に背中を預け、一人で立っているのが見えた。夕子は片手を上げ、合図を送ってきた。作之進は立ち上がり、夕子の傍へ歩いていった。

 夕子はにっこり笑い、右手でVサインを突き出した。

「大勝利、おめでとう」

「何とか勝つには勝てたけどな」

 作之進は切なくなった気分を抑え、鼻で笑った。「模擬試験はどうした?」

 夕子はばつが悪そうな顔をした。

「パスしちゃった」

「どうして?」

「鬼山君に応援を頼まれちゃって」

「おれの誘いは断って、鬼山の頼みは受けたのか? 白鳥の気持ちは良く分かったよ。もう白鳥のことは何とも思っていない」

 夕子の雪のように白い頬にほんのりと赤みがさした。「山田君。あなた何か勘違いしているわ」

「せいぜい鬼山を応援してやってくれ。あいつは白鳥に応援されたら、ハッスルして優勝するかもしれない」

 作之進は踵を返した。夕子が呼び止めたが、作之進は無視して、悠然と胸を張り、仲間たちの元へ戻った。

 試合場では準々決勝の鬼山の試合が始まろうとしていた。作之進は中村の隣に腰を下ろした。

 試合はあっけなく終わった。観客の肝をひしぐほどの鬼山の一本勝ちである。試合開始と同時に相手選手が飛び込んできたところへ、長身の鬼山が天を突かんばかりの膝蹴りをカウンターで合わせたのである。

 鬼山の膝に腹部を深く抉られた相手は、もんどりうって倒れた。床の上をのた打ち回って苦悶した。その凄惨な光景に会場が静まり返ったほどだった。観戦していた選手たちは、誰もが鬼山との対戦は避けたいと思ったはずだ。

 作之進とて例外ではなかった。鬼山が去年より段違いにレベルアップしているのが分かった。高校最後の大会で、もちろん優勝はしたい。しかし鬼山との対戦は避けたい。複雑な気持ちだった。夕子が鬼山の応援に来ているのも、砂を噛んだ気分にさせた。

 鬼山は試合場を出るとき、薄い笑みを浮かべ、作之進を見た。作之進も見返した。鬼山の笑みは自分の優勝を信じて疑わない勝者の笑みに見えた。

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