第5話

 作之進は先月のデートを思い出した。

 春休み最後の日曜日だった。小雨の降る鬱陶しい菜種梅雨が一週間続き、久しぶりに空一面が晴れ渡った朝、作之進は夕子に電話した。午後のデートに誘い、二人の家から丁度中間の距離にある市電の電停で待ち合わせた。

 一張羅の青紫のボタンダウンシャツとベージュのコットンパンツ姿の作之進が先に来て、待つこと二十分。

 夕子は国道沿いの歩道を駈けてきた。

 ピンクのポロシャツにブルージーンズを着、片手に白のハンドバッグを提げている。

 息を切らせながら傍へ来た夕子は、一回転するやバックハンドブローで作之進の背中を叩いた。

 女子としては大柄な体躯から繰り出されたバックハンドブローはかなりこたえたが、作之進は何食わぬ顔で応じた。

「二十分遅刻だよ」

 夕子はいたずらっぽく笑った。

「忍耐を養う訓練になって良かったわね」

「何という自己正当化」

「事実でしょ」

 夕子は右膝で作之進の尻を蹴ってきた。作之進はステップバックしてかわした。

 市電が来た。二人の前で扉が開き、十数人のグループ客が降りるのを最後まで待ってから、二人は乗車した。

 市電の中は晴れの日曜日とあって、多くの若者や子供たちで混雑している。二人は運転席の後ろへ歩いていき、吊り革につかまった。

 話はしなかった。時折、隣に立った夕子の茶髪のショートヘアーから微かに柑橘系のシャンプーの匂いがした。

 三つ目の電停で二人は降りた。

 国道沿いに真っ直ぐ歩き、市道に入り、商店街を通り抜け、二十分ほどで目的地の湖公園に到着した。

 市のレジャースポットの公園は瓢箪型をしていて、湖面は二百平方キロメートルの面積がある。湖の周囲に張り巡らされた芝生の上で、日向ぼっこをする家族連れやキャッチボールをする大学生、サッカーに興ずる小中学生、アベックの若者たち、その他大勢の行楽客で賑わっている。

 春の青い光と若草匂う優しい微風の中、二人は貸しボート乗り場まで歩いていき、ボートを借りた。

 作之進がオールを漕ぎ、夕子は向かいに座った。作之進はボートを湖の中央まで進ませ、そこで停止した。周りには三艘のボートが浮かんでいる。三艘とも若いアベックの二人乗りだ。

 作之進はオールから手を放し、シャツの胸ポケットからタバコ型チョコレートのパッケージを取り出し、一本を抜き取り、口にくわえた。夕子が風紀担当教師を思わせる分別顔で言った。「おやめなさい。肺がんになるわよ」

「タバコを喫っても喫わなくても、肺がんになる人はなるし、ならない人はならない」

「タバコを喫う人は肺がんになる確率が高いんだって」

「他の人はがんになっても、おれはならない。がんにならない秘訣はがんを意識しないこと。タバコを喫ってもがんを意識しなければ、がんになる確率は低下する。逆に言えば、タバコを喫わなくても、がんを意識する生活を続けていると、がんになる確率は高くなる」

「それって神秘主義の考え方に近いように感じるのだけど、科学的根拠はあるのかしら?」

「分からない。たぶん、ないと思う」

「山田君、あなたって本当、楽天的なのね」夕子は頬杖をつき、不思議そうに作之進の顔を眺めた。「科学的根拠のない考え方をより所にしてタバコを喫うのは、危険じゃないかしら」

「そうかもしれない。でも例えそうであっても、もうすぐ万能細胞で簡単に肺細胞を作れる日がやってくる。そうなったら、肺なんか幾らでも取り替えが利く」

「もう、ああ言えば、こう言う山田君なんだから」

 夕子は作之進の胸ポケットからチョコレートのパッケージを取り出し、一本を口にくわえ、目を瞠った。

「何、これ?」

「引っかかったな」作之進は膝を叩いて、大笑いした。

「こいつ!」夕子は作之進につかみかかり。軽く首を絞めた。作之進は夕子の背中に両手を回し抱きしめた。

 夕子は両手で作之進を押し返した。

 二人はボートを降り、売店でポップコーンとカルピスソーダを買った。水際のコンクリートベンチに座り、傍で若い男がルアー・フィッシングをしているのを見物した。

 春の柔らかい日差しが心地良く、傍の栴檀の巨木にとまった数匹のウグイスが優しくさえずり、なんとなしに眠気さえする昼下がり、作之進はこのひと時と、この一瞬、一瞬が永久に続きそうな錯覚に捉われた。

 若い男は立て続けに二匹のブラックバスを釣り上げた。一匹は体長五十センチほどの大型だった。男は二匹とも放流した。それを見ていた夕子が不満そうにぽつりと漏らした。

「持って帰って食べれば良いのに」

「ルアー・フィッシングはキャッチ・アンド・リリースが基本だから。それにブラックバスは持ち帰って食べても、それほど美味しいものじゃない」

 若い男はキャストを繰り返しながら遠くへ離れて行った。二人の半径五十メートル以内には誰もいなくなった。

 作之進は夕子の背中に左腕を回した。

 去年の八月に付き合い始めてから一度もキスをしたことがない。今日こそは大願を成就するつもりだ。

 作之進は左手で夕子の左肩を優しくつかみ、軽く撫でた。夕子は放心した顔で湖面を眺めている。

 作之進が抱きしめようとしたとき、夕子は突然、顔をそむけ、立ち上がった。

「山田君、今度はわたしに付き合ってちょうだい」

「どこ行く?」

「ついていらっしゃい」

 夕子は出口へ歩き始めた。作之進は立ち上がり、後を追った。

 二人は湖公園出口前のバス停からバスに乗り、市の繁華街へ向かった。

 二十分ほどでバスを降り、人の波でごった返すアーケード商店街へ入った。夕子は先に立ち、前から歩いてくる人々を巧みにかわしながら颯爽と歩いていく。

 アーケード街を奥へしばらく歩き、夕子が歩みを止めたのは、今話題のハリウッドSF映画を上映中の映画館の前だった。

 夕子は後ろを振り返り、微笑んだ。

「わたし、前からこの映画観たかったんだ。付き合ってね」

 作之進は財布の中身を計算した。二人分の映画代と帰りの電車代ぎりぎりの持ち合わせだ。「いいけど」と作之進は答えた。

 作之進はチケット売り場へ向かい、二人分の入場券を買おうとしたが、夕子はそれを許さなかった。自分が誘ったのだから自分が払うと言い張り、二人分の入場券を買い、館内に入っていってしまった。

 作之進は何となく嫌な予感がした。この事実が二人の行く末に暗雲をもたらすような、微かな痛みを感じる。フロントで入るべきか考えた。

「早くいらっしゃい!」中から夕子が上気した顔を覗かせ、促した。作之進がためらっていると、夕子は外へ出てきて、「山田君、あなた、もしかしてね」と言った。腕組みをして、作之進の顔をじっと覗き込んだ。「あなた、もしかして、女に奢られるのは男の沽券にかかわるなんて、ちゃちな前時代的な考えの持ち主とは違うと思っているのだけど、もちろん違うわよね?」

「何となく」

「何となく何?」

「悪い気がする」

 夕子はにっこり微笑んだ。「気にしない。気にしない。わたしがいいって言ってるんだから。行きましょう」夕子は作之進の手を取り、歩き始めた。作之進は半ば強引に館内に入れられてしまった。

 夕子は途中から観るのはつまらないから終わるまで待って、最初から観ようと言った。作之進は承諾した。

 二人はロビーのベンチに並んで座り、映画が終わるのを待った。ロビーには他に十二人の待ち人がいた。二十代のカップル二組に、他は全員丸刈り頭の中学生である。向かいのベンチに座ったリーダー格のニキビ面の中学生が時折、夕子の顔をちらちらと盗み見していた。二十分ほどで映画が終わり、扉が開き、場内から観客が吐き出されてきた。

 観客の大半が退出した後、夕子は立ち上がり、自動販売機で缶ジュースを二本買った。一本を作之進に渡し、作之進の左腕に右腕を回し、場内へ向かった。

 観客席の九割ほどは空いていた。二人は中央の最も観やすい席に座った。

「終わるまで待ったのは、正解だったわね」

 夕子は缶ジュースのプルトップを開け、ジュースを飲んだ。作之進は夕子の白く艶かしい喉が嚥下に合わせ、リズミカルに鼓動するのを、見詰めた。

 場内が暗くなり、予告編が始まった。三本の予告編がコマ送りのようにあっという間に終わり、続けて本編が上映されたが、十分も経たないうちに作之進は、抗しがたい眠気に襲われ、寝入ってしまった。

 作之進が目を覚ましたのは、映画が終わり、場内が明るくなってからだった。夕子は不満そうに言った。

「なけなしのお小遣いを奮発して、奢ってあげたのに」   

 作之進は両手を天井に突き上げ、大きく欠伸をした。

「今日は明け方まで本を読んで、三時間しか寝てないから我慢できなかった」

「何を読んでいたの?」

「ヘミングウェイの『武器よさらば』」

「その本読み終わったら、わたしに貸してくれる?」

「いいよ。その代わりという訳じゃないけど、もう一度映画観ようよ」

「もう、山田君ったら」

「君の厚意を無駄にしたくないんだ。お願い」作之進は両手を合わせ、拝んだ。

 夕子は帰りが遅くなると嫌がったが、最後は作之進に拝み倒され、承諾した。係員がやってきて、退出するよう催促したが、夕子が理由を説明すると、仕方ないですね、と言い残し引き下がっていった。

 映画が始まり、作之進はワンシーンの見落としもするまいと観賞に臨んだが、再び中盤の三十分ほどを寝入ってしまい、夕子に肘でつつかれ、覚醒した。

「わたしの厚意を無にするつもり?」

 夕子は作之進の耳元に口を寄せ、ささやいた。

 映画館で眠気を催すのに気づいたのは、中学一年のときだった。何故かは分からないが、映画館に入ると、睡眠が足りていても決まって睡魔に襲われるのだ。家のテレビやパソコンで映画を観るときは、眠くならないのに、映画館の客席に身を置き、照明が消え、暗くなると、天井の四隅にいると思われる意地の悪い睡魔が舞い降りてきて、作之進の瞼を強引に閉じてしまう。

 映画が終わったのは、午後七時を過ぎていた。作之進は夕子を自宅まで送っていった。アーケード商店街前から市電に乗り、商業高校前電停で降り、十分ほど歩いた。

 夕子は作之進が映画館で寝たことを、それほど怒ってはいない様子だった。映画館を出たときから仲の良い恋人同士のように作之進と腕を組んで歩き、電車の中でも腕を離そうとはしなかった。そして今、商業高校のグラウンド沿いに暗がりの中を、腕を組んで歩きながら、夕子は楽しそうに見えた。

 作之進はほとんど人通りのない小道を歩きながら、左腕が時折、夕子の小ぶりの右の乳房に触れるのを、左腕が棒になるほど意識していた。

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