第4話
作之進は歓声と拍手を浴びながら、試合場を出た。
丸山は人垣の中で横たわっていたが、数分後、意識を回復し、立ち上がり、仲間の元へ戻っていった。
作之進は中村の隣に座り、スポーツバッグからタオルを取り出し、顔と首の汗を拭った。副審をしていた監督がいかつい顔を、嬉しそうににこにこさせながらやってくる。
「良くやった。ベスト・ハイキックだ」
「オス」作之進は頭を下げた。
「今の調子を持続しろ。優勝を狙えるぞ」
「オス」
「中村も今の調子を持続しろ」
「オス」
「二人で決勝戦をやれ」
「オス」
「頼むぞ」
今年不惑の四十歳を迎える監督は試合場へ戻っていった。
監督は三年前に体育の教師として、第二高校に転任してきた。並の体格だが、大学時代、空手部の主将をしていた経歴から赴任校では空手部を任されることが多く、第二高校でも空手部の監督に就任した。学内ではこわもてでならし、表立って口答えする生徒は一人もいない。顔が何となく仏教のダルマさんと似ているため作之進たちはダルマのあだ名を奉り、陰でそう呼んでいた。
作之進はタオルを首にかけ、スポーツバッグから自家製ウコン茶の一リットル入りペットボトルを取り出し、一合ほど飲み干した。
順調に勝ち進めば、準決勝で鬼山と対戦する中村が溜め息をつき、愚痴をこぼした。
「良く言ってくれるよ。二人で決勝をやれだって。二人で決勝をやるためには、おれが鬼山に勝たなければならないのを、知って言っているのかな?」
「監督のことだから、鬼山が強敵だとは良く分かっている。単なる激励だ。真に受ける必要はない。要はベストを尽くせば良いという話だ」
「お前は明鏡止水の心境を会得しているから、落ち着いていられるが、修業不足のおれはそうは行かん。居ても立っても寝てもいられない気分だ」
中村は床に両拳をつき、拳立て伏せを始めた。
「そうだ。それがいい。気分が落ち着かないときは、身体を動かすに限る」
作之進は拳立ての回数を数え始めた。百回を超えたところで中村の巨大な鷲鼻の先から汗が滴り始め、それがすぐに大粒の汗に変わっていった。中村は二百三十回で力尽きた。床にうつ伏せになったまま汗みずくになった顔で、作之進を見上げた。
「お前が言った通りだ。汗を流したら、ちょっとだが、気分がすっきりした」
「そうだろう。おれは嘘は言わん」
鬼山と対戦相手の名前がアナウンスされ、一回戦最後の試合が始まろうとしている。
鬼山は膝の屈伸運動をしながら、作之進を見ていた。作之進も鬼山を見た。鬼山は見合った後、再びくすっと笑い、視線をはずした。
作之進は身体中が熱くなった。
「あの野郎、ぶっとばしてやる」
思わず拳で床を叩いた。
中村が鬼山から作之進へ視線を戻し、苦笑いした。
「かっかするな。あいつのドツボにはまる。お前を挑発している。あいつの作戦に乗せられるな」
「それは分かっているが、腹が立つ。単細胞だからな」
「堪えろ」中村は弟を気遣う兄のような眼差しで作之進を見詰めた。「単細胞なのはお前の良いところだが、欠点でもある。あいつはお前の性格を分かってやっている。乗せられたら負けだぞ」
「お前の指摘は正しい。肝に銘じておく」
鬼山が試合場に入った。所定の位置に立ち、対戦相手と向かい合った。頭ひとつ分鬼山の方が背が高い。
主審の「始め」の声で試合が始まった。
鬼山は再び「おりゃー」と、窓ガラスが割れそうなほどの気合いを発した。歩幅を前後に狭く取り、両掌を開き、肩の高さで前に突き出した、前回と同じ前羽の構えである。
対する商業高の谷崎は一歩、二歩と後退し、組手立ちの構えを取った。丸縁メガネをかけた優等生顔の谷崎は青ざめ、ひきつった顔で、見ていて気の毒なくらいだ。虎に睨まれた子鹿のように怯えている。自分から間合いを詰めることはせず、鬼山が少しでも前進する気配を見せると、脱兎の勢いで場外へ逃れた。
鬼山が前に出て、谷崎が場外へ逃れる展開が五度繰り返され、主審から谷崎に注意が与えられた。観客席から逃げ腰の谷崎にやじが飛んだ。
「谷崎、スカートをはいて出直せ!」
「男らしく勝負しろ!」
谷崎はうんうんとうなずいていたが、試合が再開されると、相変わらず逃げに終始した。鬼山が攻撃を仕掛ける度に場外へ逃れ、時間切れになった。
判定の結果はもちろん鬼山の勝ちである。鬼山は一礼した後、作之進をちらりと見、胸を張り、悠然とした王者の風格で退場していった。
「第二の山田も強いが、鬼山の優勝で決まりだな」作之進の後ろで誰かが言った。
「ああ、鬼山が一馬身以上リードしている。あいつの優勝で決まりだ」誰かが答えた。
中村が後ろを振り返り、食ってかかった。
「おい! 失礼なことを言うな。おれたちが負けるとでも思っているのか?」
作之進は後ろを見た。
商業高の生徒だ。二人とも中学生のような幼い顔をしている。たぶんひと月前に入学した新入生だろう。二人は取って食わんばかりの中村の剣幕に恐れをなし、「申し訳ありません。空手のことは良く分からないんです」と平謝りに謝り、退散していった。
「おれたちも舐められたものだな」中村が憤懣やるかたない様子でつぶやいた。
「おれたちがここにいることを知っていて、言ったんじゃない。そうカッカするな」作之進は立ち上がった。会場を出、ロビー横のトイレに向かった。
トイレは満員で列ができている。列に並んで待つこと数分、小便器の前に立ち、一物を取り出した。以前、大事の前に一物が縮こまる男は大人物ではない、と小説で読んだ記憶がある。作之進は一物を仔細に点検した。小学校時代から平均以上に大きいと言われた作之進の一物は、萎縮した様子もなく、平常通りだったので、ひと安心する。ゆっくり放尿した後、手を洗い、トイレを出た。
ロビーの自動販売機でスポーツドリンクのペットボトルを買い、階段から二階に上がった。二階の観客席は応援の生徒と父兄でほぼ埋まり、通路も立ち見の人間で混雑している。作之進は階段入口の壁にもたれ、ペットボトルのふたを開け、二口、三口飲んだ。甘い! 液体が胃ではなく、喉から胸にかけて、瞬く間に細胞に吸収される感覚があった。体調が良い証拠だ。
ペットボトルのふたを閉め、何げなしに観客席を見た作之進の目に、衝撃の光景が飛び込んだ。
一階の作之進たちの溜まり場の丁度、真上だった。二階の観客席の通路。そこに作之進の交際相手白鳥夕子と、鬼山の姿があった。
鬼山は空手着姿で首にきざな真っ赤なスポーツタオルをかけ、夕子は白のポロシャツにライトグリーンのミニスカート姿で、右手に作之進とのデートに良く持参していた白のハンドバッグを提げている。ミニスカートからしなやかに伸びた白く形の良い脚がまぶしかった。その脚は周囲の男たちの視線も引いている様子だ。隣の暴力団風の二人組がちらちらと、盗み見している。
二人は楽しげに歓談していた。時折、夕子が鬼山の肩を叩き、笑い崩れた。鬼山は仁王のようなこわい顔を菩薩のようなやさしい顔に変え、にこにこ笑っている。
作之進の胸の中で嫉妬の黒い風が吹き始めた。その風は次第に勢力を強め、台風のような猛烈な暴風雨に変わっていった。作之進は自分の顔が醜く変わっていくのを意識していた。悪鬼、夜叉、羅刹のように。
作之進はとてもではないが、この場に居たたまれなくなった。一階に下り、仲間たちの元へ戻った。
鬼山が言ったことは、はったり、策略ではなかった。事実だった。その事実が作之進のこころを、象に踏まれた鶏の卵のように押しつぶしていた。公園で得られた明鏡止水の心境は、跡形もなく粉々に砕け散り、鏡の欠片さえ残ってはいない。
やはり夕子はおれという交際相手がありながら、鬼山とデートしていたのだ。鬼山との交際も受け入れたのだ。おれには応援に行けないと断っておきながら、この場に姿を見せたのが何よりの証拠だ。
たいした女だ。おれと鬼山、ふたまたかけるとは。あの様子だと、おれには許さなかったキスを鬼山には許しているかもしれない。
作之進の胸の中で白鳥夕子に対する不信と怒りが募っていった。
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