第3話

 作之進は空手部員の溜まり場に戻った。

 中村の隣に腰を下ろし、テニスシューズをスポーツバッグにしまった。靴は玄関に置きっ放しにしても良いのだが、玄関に置くと、誰かが履いていくのか紛失する確率が高いのだ。これまで紛失が何度もあり、作之進も部員たちも靴は身近に置くと申し合わせている。

「帰ってくるのが遅いから、自殺でもしたのじゃないかと心配したぞ」中村が作之進の横顔をじっと見詰め、冗談めかして言った。

「心配させて悪かった。吹っ切れたよ。もう白鳥のことなんかどうでもいい。明鏡止水の心境だ」

「簡単に白鳥夕子を吹っ切れるかな?」

「ああ、おれのこころは、一点の曇りもない澄み切った状態だ」

「本当か?」中村はにやにやした。「おれは小心だから、あやかりたいよ」

「走って練習してこい。思い切り突き、蹴りを出して、汗を流してこい。そうしたら澄み切った状態になれる」

「そうしたいところだが、もう遅い。出番が来たようだ」

 中村は立ち上がり、膝の屈伸運動を始めた。中村は上背こそ百六十センチしかないが、肩幅が異様に広く、ぱっと見た目には、身長と横幅が同じ位に見える戦車型の体型をしている。強烈な中段突きと重いローキックが得意技だ。

「勝てる相手だ。落ち着いていけ」

「そのつもりだ」

 中村はやや緊張した表情で答えた。

 アナウンス役の女子高生により中村と城南高の斉藤の名前が呼ばれ、二人は試合場に上がった。

「中村先輩! 一発でお願いします」

「彼女が応援に来てるぞ。いいところを見せろよ」

 応援組のチームメートが次々に檄を飛ばした。

 主審の合図で試合が始まった。

 相手の斉藤は中肉中背、両拳で顔面をカバーした組手立ちで構え、軽くステップを踏み、前後に動き始めた。対する中村は両拳を胸の前に軽く突き出し、腰を低く落とした前屈立ちの構えを取った。

 中村が動かないのを見てとった斉藤が、大きく踏み込み、左ハイキックを放った。中村は右手でガードした。斉藤は続けて右ハイキックを出した。

 中村は半歩踏み込んでハイキックをかわし、右の中段突きを打った。

 斉藤が「うっ」と息を詰まらせ、身体をくの字に折った。

 すかさず主審の右手が上がった。

「技有り!」

 試合が再開された。

 中村は技有りを取って気が楽になったのか、積極的に前に出始める。突きのワン・ツーからローキックのコンビネーションで相手を圧倒し始めた。

 中村の猛攻で斉藤が場外に逃れる場面が繰り返され、試合時間の三分が終わった。判定の結果は技有りを取った中村に軍配が上がった。

 中村は試合に勝ち、緊張から解放され、嬉しそうだ。笑顔で戻ってくる。

「中村、彼女に手を振ってやれよ」応援の同級生が向かいの二階席を指差した。

 作之進が二階席へ目をやると、中村の交際相手が嬉しそうに満面の笑みで拍手している。第二高校の二年生で、容姿は十人並みだが、いつもにこにこ笑顔を絶やさない気立ての良い子だ。中村は二階席に向かい、両手を大きく振り、作之進の隣に腰を下ろした。

「技有りをもう一つ取って、一本勝ちするところを見たかったぞ」

「ローキックの良いのが入ったんだが、相手が前に出てこないと無理だ」

 中村はスポーツバッグの中からグリーンのスポーツタオルとスポーツドリンクのペットボトルを取り出した。タオルで顔と身体の汗を拭き、一リットルのペットボトルを一息で飲み干した。

 個人戦は市内の八校から二人ずつ十六人の選手が参加して、トーナメント形式で行われる。既に四試合が終わり、作之進が出場する第六試合が近づいてきた。

 作之進は身体の中でアドレナリンが多量に分泌され、脈拍が上がり、背筋の毛穴が開いたのを感覚的に自覚していた。闘う前はいつもそうだ。楽しいものではない。どちらかと言えば、逃げ出したい気分が強い。

 この感覚を初めて経験したのは、中学二年のときだった。当時、学校を仕切っていた不良グループに些細なことで因縁をつけられ、グループの一人と一対一の決闘をする羽目に追い込まれた。

 授業が終わり、逃げ出したいと臆する自分を叱咤しながら、決闘場所の学校裏の河原へ向かった。その途中、この感覚を初めて経験した。

 決闘は当時柔道をやっていた作之進の絞め技が決まり、快勝だった。しかし、作之進が男を落とした直後、審判役と見届け人と称して、男についてきていた仲間たちが襲いかかってきた。

 地面に寝た状態で絞め技をかけていた作之進は、体勢を整える暇もなく、袋叩きにされた。めった打ちに殴られ、気を失いかけながらも何故か自分が笑っていたのを、はっきり覚えている。

 赤い夕日に照らされた河原道を、痛む身体を引きずるようにして家へ向かいながら、自分が殻を破り、ひと回り成長したのを実感していた。

 中学三年のとき、学校を代表して英語弁論大会に出場したときもそうだった。

 会場の控え室で自分の出番を待っているとき、同じ感覚を経験した。逃げ出したい気持ちを堪えているうちに脈拍が上がり、背筋の汗腺が開くのを自覚した。

 結果は入賞こそならなかったが、普段以上に落ち着いて発表でき、聴衆の顔色や会場の雰囲気を冷静に観察できた体験が嬉しかった。

 高校で空手部に入り、対外試合のときはいつも同じ感覚を経験した。否、一度だけこの感覚を味わう暇もなく、試合に出た。前夜、クラスメート数人と朝方まで賭けトランプに興じ、試合会場に遅刻したのだ。

 試合会場で道衣に着替えた途端、試合が始まり、心身をハイテンションに高める余裕もなく、マニュアル自動車をスタート直後にいきなりトップギアにシフトチェンジしたような状態で、相手と闘った。気の抜けた試合運びに終始し、不完全燃焼のまま負けてしまった。

 だから作之進は、試合前の胸の鼓動が高鳴り、掌に汗を握り、背筋の毛穴が開く感覚と逃げ出したくなる気分は、心身の調整のため、絶対に必要なものだと分かっている。

 第五試合が終わり、作之進と相手選手の名前がアナウンスされた。

「ぶっとばしてこい」中村が言った。

「完全燃焼するだけだ」

 作之進は立ち上がった。

「作、楽勝だぞ」

「第二の強さを思い知らせてやれ」

 チームメートの声援を背中に受けながら作之進は、膝の屈伸運動を入念に行い、股割りをやってから試合場に入った。

 試合場中央の所定の位置に立つと、正面の観客席に鬼山の姿が見えた。両腕を胸の前に組み、お手並み拝見とでも言いたげな、薄い笑みを浮かべている。

 作之進は鬼山を睨みつけた。

 鬼山は数秒見合った後、くすっと笑い、視線をはずした。腹が立ったが、目前の闘いに全力投球しなければならない。深呼吸を二回して、気持ちを切り替えた。

 相手は第一工業高の主将、丸山。蹴りはほとんど使わず、上段と中段の突きのワン・ツーだけで猛進してくる猪武者タイプである。

 去年の九州大会で対戦した。作之進が横の動きを多用して、丸山を翻弄、判定勝ちしている。体格は中村と同じ戦車型だが、中村より背が高く、横幅が細い。

 相対して立った丸山は、作之進を睨みつけてきた。作之進も相手の顔を見た。試合前のセレモニーみたいなものだが、こちらから目線をはずすと、それに力を得て、普段以上の力を発揮するタイプがいる。だから、絶対に自分からは目線をはずさない。

 作之進は親兄弟祖父母の敵でも見るような丸山の敵愾心に燃えた瞳を、淡々と静かに見詰め続けた。

 試合での目付けは相手の目ではなく、喉か胸に置く。目に置くと相手の精神状態に影響される場合があるので、マイペースで闘うために目は見ない。しかし、試合前は違う。相手が睨んできたら、こちらも睨み返す。

 二人の睨み合いに両校の応援席から、どよめきと歓声が沸き起こった。

 主審は二人の顔を何度も交互に見比べ、歓声が十分に静まったところで、始めの合図を出した。

 作之進は両拳で顔面をカバーした組手立ちで構え、歩幅を狭く取り、前後左右に軽くステップを踏んだ。

 丸山は両拳を胸の前に出した、腰の低い前屈立ちで、一気に間合いを詰めてきた。作之進は右横に跳び、間合いをはずした。

 丸山は体勢を立て直し、再び前に出てくる。大きく踏み込みざま、牽制の右上段突きから強烈な左中段突きを繰り出した。

 作之進は場外に逃れ、突きをかわした。

 両者中央に戻り、闘いが開始される。

 丸山が前に出、作之進が場外に押し出される、同じ展開が五度繰り返された。

「判定になったら、やばいぞ。一本決めろ!」

 中村の焦りを含んだ叱声が耳に入った。

 作之進はかわすのをやめた。

 中央に戻り、向かい合った。ステップは踏まず、静止した状態で心気を澄ます。

 丸山が右の牽制突きで踏み込んできた。作之進は真っ白な更地の心境で右ハイキックを放った。

 丸山の牽制の突きが鼻先をかすめ、作之進のハイキックは丸山の顎を打ち抜いていた。

 丸山は床の上に大の字に倒れた。

 主審の右手が上がった。

「一本!」

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