第4話


 ある日、バードフィーダーに食べ残しのシリアルを入れに行ったメラニーの後についてテラスから庭に出ようとした僕を、継母が手招きした。

 今日も香水が生臭くて閉口する。

「グレン、ちょっとそこの額を見て。そう、その栗色の馬の」

 シルクスクリーンの大きな絵を、彼女は目で指し示した。

「あんまりじろじろ見ないでね。その右の縁から黒い平べったいものがちょっと見えてるの、わかる?」

「それがどうしたの」

 化粧に隙のない女は怪鳥のような、耳障りな声で笑う。

「盗撮用のカメラよ。あなたの部屋にも、私たちの寝室にもあるわ」

 僕はぽかんとした。

「調べてみたけど、この機種は音声は拾わないタイプだから話す分には大丈夫よ」

「……」

 言葉を失くしている僕に、彼女は言った。

「あなたのお父さんがちまちま置いたみたいね。私が外すとアレだから、よかったら実子のあなたが外してくれないかしら?」

 彼女は、探るような目で今一つ打ち解けようとしない義理の息子を見つめた。

「これはね、多分私とあなたを見張るためのものよ。どういう意味か分かる?」

「……防犯用ってこと?」

「違うわ。私とあなたを見張るものだって言ったでしょう?」

 継母はマニキュアを塗ったばかりの爪を、仕上がりを確かめるように顔の前にかざした。

「彼は、邪魔者を追い出したがってるのよ」

「それは僕のこと?」

「あなたと私、両方」

「え?」

「彼ね、離婚したがってるの」

 僕は、またか、という顔をしたのだろう。

 実際そう思っていた。

 そういうごたごたは夫婦でやって欲しい。僕を巻き込まないで欲しい。

「とにかくね、もし離婚するにしても、慰謝料を減額されるのは真っ平なの。ああほんと、カメラに気づいてからいろいろと窮屈。交渉ネタにされるのもつまらないから、我慢して『母親』やってるんだけど疲れるわ」

 もう、この女は僕に隠すつもりもないのだ。

 メラニーは折檻をしなくなった母に、素直に喜んでいる。

 邪魔者同士という気安さで、聞きたくないことばかり勝手に喋りかけてくるこの女を、ここで殴ったらどんなにすっきりするだろう。

 苛々している僕の前で、継母はゆっくり目を伏せ、そして少し虚ろな口調で言った。

「……ねえ、グレン。これでも私ね、彼と結婚するとき、きっと幸せになれると思ってたのよ。何もかもうまく行く、ってね」

 それは、きっと彼女の本当の気持ちだったのだろう。

 細い手足に光を浴びて、芝生にまばらに生えた雑草の花をメラニーが摘んでいるのを、彼女と僕は眺めた。


 その夜、僕は盗撮・盗聴用機器が発する微弱電波を拾う発見器をネットで購入し、届いたその日に見つけられる限り全部のカメラを外して、叩き壊して捨てた。

 僕の表情をカメラ越しに見た父はどう思ったのかわからないが、何も言わず僕と目も合わせようとすらしなかった。


 一年が過ぎた。無論、家の中には冷え切った空気しかない。

 僕はハイスクールの最終学年に進級し、継母は粘っているなと思いきや意外とあっさり離婚して出て行った。

 彼女の、父への捨て台詞はこうだ。

「お幸せに」

 父は「ああ」とも「うう」とも聞こえる声で応え、二度目の離婚にも恬淡としたものだった。

 彼女が腹を痛めて産み、虐め、支配していた娘は、涙を流して俯いていた。

 そして玄関前に停めた車へ荷物を運ぶ手伝いをしていた僕の耳元で、継母は囁いた。

「私の娘をよろしく、グレン。あの子は不思議と男に好かれるのよ、不っ細工なのにね」

 僕が黙っていると彼女は赤く塗った唇を歪めて微笑んだ。

「でも今になって思えば、メラニーがいてくれてよかったわ。さようなら」

 女は父が買い与えた高級車に乗って、家を後にした。

 このとき、僕は知らなかったが父は継母に法外な慰謝料を渡し、財産を分与していた。

 継母という女は性質こそ悪いが、賢かった。


 継母がいなくなってまた一年が過ぎた。

 メラニーはずいぶん背が伸びた。タンポポの根っこのようだった体つきも、慎ましやかではあったが女性らしさを帯びてきた。

 彼女はミドルスクールでも順調に成績を上げていた。元々賢い子なのだ。

 日中はハウスキーパーが家のことを取り仕切り、夕食まで作り置きしてから帰るのだが、彼女は朝早く起きて朝食を作り、気が向いたときだけ僕の分までずっしり重いランチボックスを用意する。

 飢えの記憶があるせいか、メラニーの作る料理はやたらと多い。

「グレ兄はでっかいからたくさん食え」

「もう無理だってば」

 やっとの思いで空にした僕の皿にまた、ポレンタをべしゃっとのせてくる。

 ポレンタと言ってもインスタントのものだが、メラニーは一度に何パック分も作る。

「たくさん作ったから遠慮すんな」

「遠慮じゃないって。メラニーが食べてよ」

 スプーンに乗せて差し出すと、メラニーがテーブルに身を乗り出してぱくんと大口を開け、僕が手に持っているスプーンを口に咥えたまま、にっと笑う。

 こういうやり取りが楽しくてたまらなかった。

 母親という重石がなくなり、やっと子供らしくあることに慣れたメラニーは、僕とフライングディスクを飛ばしたりビデオゲームを一緒にやったりする。突然飛びついてきて、首に手をかけてぶら下がったりもする。

 時々はふざけて、あるいは腹を立てて、僕を叩いたり蹴ったりもしてくるがそこは少し手加減しているようで、痛くはない。

 僕は、彼女がだんだん僕に馴れてきたのが嬉しかった。

 メラニーがおどおどしながら、友人を家に連れてきてもいいかと尋ねてきた時も、「いいよ」と即答し、ドリンクや菓子を山ほど用意して待った。

 うちの近所の豪勢な屋敷に住む金髪の小柄な少女や、物凄い勢いでスナックを平らげる栗色のポニーテールの子、たまにいかにも悪童という顔つきの丸坊主の少年がやってきたが、どの子も子どもらしく素直だった。

 僕は彼らをもてなし、メラニーが年齢相応にクラスメイト達と楽しく過ごしていることを心から喜びながら、とても寂しかった。

 いつかメラニーにもボーイフレンドが出来てこの家を出ていくこともあるのだろうかと思うと、大袈裟でも何でもなく、本当に泣きたくなった。


 ある晩のことだった。

 僕は部屋で卒業試験の勉強をしていた。

 グレンなら特に勉強しなくても合格できる、と教師や友人たちに言われたが、やはり落ち着かないのだ。

 夜の静謐の中、メラニーがバスルームに出たり入ったりする音が聞こえている。寝支度を整えているのだろう。

 過去、卒試で出題されたという複雑な微積の問題を解き終えたとき、パタパタと走る足音がドアの外に響いた。

 ドアノブががちゃがちゃと音を立てる。鍵をかけてはいないのに、この扉を開けようとしているものの動揺がそのままそこに伝わってきていた。

 僕はペンを置き、立ちあがってドアを開けた。

 そこにいたのはメラニーだった。

 彼女は開いた隙間からさっと入ると、がたがた震えながらドアを閉めて鍵をかけようとした。

 パニック状態で、いつもなら簡単にできることがうまくいかない。

 庭でカエルを踏んづけた時以上に、彼女は恐慌の真っただ中だった。

「メラニー、どうしたの」

 鍵を閉めてやりながら訊ねたそのとき、吐き気を催すような臭いがメラニーから立ち昇っているのに気付いた。

 腐った水に塩素系の漂白剤を混ぜたような、強い忌避感情を掻き立てる臭い。

 メラニーは僕のベッドのヘッドボードに転がるように駆け寄ると、そこにあったダストボックスに背中を痙攣させて、吐いた。

 傍らのティッシュを何枚も引きだして顔の下半分を覆い、捨てる。それを何度か繰り返した後、静かに泣きだした。

 僕は、何があったかをもう察してしまった。

 ドアの外で、スリッパを履いた足が立ち止まる。

 しばらく、父は僕の部屋の前に立っていた。

 三人とも息を殺し、黙っていた。

 二分ほど経っただろうか。

 父は何も言わず自分の寝室へと通り過ぎていった。

 父の寝室のドアが閉まる音の後、メラニーがわななきながら言った。

「グレ兄ごめん」

 メラニーの口からはおぞましい臭いがした。

 僕の生命の由来である液体の臭いだ。

 僕はショックで言葉が出なかった。

「ごめん」

 もう一度メラニーは僕に謝った。

「……何で謝るんだ」

 頭の芯が痺れたような、今ここで起こっていることが現実感を伴わないTVショーか何かのような感覚。

「父ちゃんが……口に入れて、飲んだら、グレ兄をずっとここに住まわせてやるって」

「は?」

「大学へ行く金も出してやるって」

 恐怖で、次に怒りで僕は自分の眼が吊り上がるのを感じた。

「でも、飲めなくて……ごめん……ごめんグレ兄」

「そんなのどうでもいいんだよ! この家を出たっていい! 学費だって自分で働くから!」

「グレ兄、この家が大好きだって言ってたから」

「馬鹿!」

 僕は初めてメラニーを怒鳴った。

「違う!違うんだよ!!」

 メラニーは竦み上がった。

 僕は怯えきっているメラニーを質問攻めにした。

 そして彼女は怒鳴られるの怖さに、言葉を詰まらせながら答えた。


 継母が自分を父に売って出て行ってしまったこと。

 父に身体を触られていたこと。

 手で奉仕させられていたこと。

 今夜、初めて口を使われたこと。


 僕は「家」に執着していた自分を殴り殺したくなった。

 もうとうに、この家は自分の拠りどころでも、メラニーを護る場所でもなくなっていた。

 僕にとっては、メラニーがいるところが「家」で、そこで僕は彼女を護って、頼られて暮らしたかった。

 ただそれだけだ。

 僕が「この家が大好きだ」と言ったのは、「メラニーが大好きだ」と言ったつもりだった。


 父は翌朝早朝に、誰にも顔を合わせないまま家を出て、帰ってこなかった。

 三日後、僕が学校の廊下を歩いていると、校内放送で僕の名が呼ばれた。

 校長室へ行くと、慈悲深い顔をした禿げ頭の初老の男が僕を待っていた。

 その男は、警察のバッジと身分証を店、僕に父らしき男が人ごみでごった返す地下鉄の駅でプラットホームから落ち轢死したことを告げて、本人確認を求めてきた。

 僕は眩暈を起こして、その場にへたり込んだ。

 父が死んだということよりも、警察への恐怖で。


 僕は、僕もよく利用するその駅の防犯カメラの位置とその死角、画像の切り替え周期を知っていた。


 警察署で、検死も何もあったものではない肉塊が入った段ボールを見せられ、汚らしい時計を形見として渡された。

 僕は、魚のはらわたや肉屋で売られている臓物類を想起して、目を背けた。首筋あたりの毛が逆立つのを感じた。

 警察の人々は、口々に慰めの言葉を述べ、フューネラルホーム(葬儀場)と、メラニーの通うミドルスクールにも連絡を取ってくれた。

 黒服の葬儀場職員四名がすぐにやってきて、二名が段ボールを持っていった。これでなんとか、メラニーにこれを見せずに済む。残りの二名は葬儀の段取りと様々な葬儀プランの説明をし、僕に選択させた。「状態が状態なので」という彼らの勧めるまま、僕はヴィジテーションとフューネラルを同時に行うプランを選び、さっさと終わらせることにした。

 一通りのことが済むと、僕は警察の車両に乗せられてメラニーの通うミドルスクールへ連れて行かれた。

 メラニーは既に帰り支度を済ませて僕を待っていた。

 じろじろと見つめてくる生徒たちの中を僕は悲しい顔でメラニーの肩を抱いて歩き、パトロールカーで家まで送ってもらった。

 家に戻って喪服を引っぱり出し着てみると実に窮屈で、つんつるてんだ。

 メラニーに至っては喪服自体持っていない。

「メラニー、服、買いに行こうか」

 メラニーは黙ってうなずいた。

 僕はまるでデートでもするような気分だった。


 喪主というのはなかなかの激務だった。

 家族の死におけるこざこざとしたことをてきぱきと行うフューネラルコーディネイターの手腕には舌を巻いた。

 父の勤務していた会社から人事課の社員がやってきて見舞金や退職金の振り込みについて説明された。

 さらに、生命保険、遺産相続や相続税の手続きについてプロの士業連中を斡旋され、僕は反対する理由もなく委託した。

 ハイティーンは得てして、大人たちが馬鹿で分からず屋に見えるものなのだが、皮肉なことに、父の死が僕にまだ自分が子どもであることを痛感させた。

 ただ僕が勉強しかできない世間知らずだというだけの話なのだが。


 何もかもが落ち着いてから、僕はメラニーが淹れたコーヒーに砂糖とミルクを入れながらしみじみ言った。

「僕達、二人きりになっちゃったんだね」

 キッチンの流しの前に立ち、僕に背を向けていたメラニーの頭が前へ傾いだ。

「なあ、グレ兄」

「ん」

「あのとき、私が……」

 メラニーの声は震えていた。

「全部我慢してたら、父ちゃんは死ななかったかなあ」

 その言葉を聞いて、僕は即座に否定した。

「違うよ。メラニーは全然悪くない」

「父ちゃんは、私のこと好きだって言ってた」

 それを優しさと履き違えてでもいるのか、この娘は。

 僕は頭の奥がかっと熱くなった。

「うるさい!」

 メラニーが洟を啜りだし、音のない嗚咽に細い肩が揺れた。

「だって……父ちゃんいないのに……これからどうすんだよ」

 メラニーは、不安なのだ。可哀そうに。

「ごめん」

 僕はすぐに謝った。

「父さんがいなくなっても大丈夫。お金も十分あるし、大学に行きながら僕も働くよ」

「……」

「僕はただ、メラニーに自分のせいだなんて言わないで欲しいんだ。君は何にも悪いことはしていない」

 そうだ、メラニーは被害者なのだから。

 僕はメラニーを背後から抱き、そっと頬ずりした。

「もう、大丈夫。僕がずっと一緒にいるから」

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