第2話

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 そのとき僕は15歳で、メラニーは11歳だった。

 にっと悪戯っぽい笑みを浮かべて見上げられた瞬間、鳩尾に手を当てられじわじわと重みを加えられるような、そんな錯覚を覚えた。

 可愛らしい、という形容にはそぐわない肉の削げた顔立ち。

 落ちくぼんだ、睨むような三白眼。

 男の子のようにざっくりと短い髪。

 この日のために買ったと思われる真新しい、似合わないワンピースに包まれた痩せぎすの身体。

 その貧相で野生児じみた風体とは不釣り合いに、彼女の周りに匂いとも体温ともつかぬ何か懐かしいようなものが渦巻いているような気がした。


「父ちゃんと、グレ兄がいるとうれしい」

 食卓で、明るく目を輝かせて彼女はそう言うなり、皿の上の熱いベイクドポテトをスプーンでざくっと割った。上にかかったチーズが糸を引く。

まだ、新しくできた母と4つ歳の離れた妹の存在には慣れない。

 継母は、ぱっと見には美しい女だった。ただ時折、何とも言えない卑しい、小狡い表情をすることがある。何となくそれが気にくわない。

 父の前では絶対に見せないのだろうが、シミや皺の現れはじめた顔を鏡台の前で矯めつ眇めつし、一時間近くかけて髪の艶を出し、顔にいろいろ塗りたくって顔を作り上げる。

 だから女好きで母に逃げられた父の審美眼は、父自身が吹聴するほど大したものではない、と思う。

 それでも父が選んだ女なら母と呼ばざるを得ないし、その痩せっぽちな連れ子を妹として扱わねばならない。

「何で?」

 向かい合って、胡椒入れのグラインダーをガリガリと回しながら訊ねると妹は、うふぅ、と笑った。

「あのな、ちゃんと飯が食えるんだ」

「え?」

 驚いた。

 メラニーははっと顔を強張らせた。

 まずいことを言ってしまったと思っているのがありありとわかる。

 継母が父と結婚する前、困窮していたということだろうと理解しかけて、違和感を覚えた。

 継母は、この子のように痩せこけてはいない。

 服だって、装身具だってそれなりに持っている。

「この子は偏食で小食なの」と彼女は言うが、メラニーは好き嫌いなくよく食べる。

 口の周りを汚して無心に食べるメラニーの顔と来たら、もうずっと食べ物を与え続けていたいくらいに愛らしい。

 そういうとき、継母は優しくメラニーを窘め、作法を教えるのだが、そこには何か親子の情と言ったものとは違う何か刺々しいものを感じる。それはあまり好ましい眺めではなかった。だから血の繋がらない僕はさっさと席を立つことにしている。

 自分が腹を痛めた子を諭すというのはこんなに愛を感じさせない冷たいものなのだろうか?

 少なくとも僕の母親はそういう感じではなかったと記憶している。

「父さんや僕がいないときは食べられないの?」

 妹の顔を見守りながら訊ねると、妹はほこほこと柔らかい馬鈴薯を細い喉に飲みこんでしまってから小さく答えた。

「私みたいなのは飯食っちゃだめだって」

「何で?」

「私が汚いメスガキだからって」

「え?汚くないけど」

「大きくなったらもっといやらしくて臭くなるって」

 あの、メラニーに接するときに継母から感じる違和感は、幾重にも包んだ疎ましさによるものだ、とその時はじめて気づいた。

 キッチンから継母の声が飛んだ。

「グレン、そろそろバスの時間でしょう?メラニーに構ってないでさっさと行ってらっしゃい」


 ある日、学校から帰ってくると継母は部屋で外出の支度をしていて、メラニーはソファで絵本を読んでいた。

 もう絵本を好む年齢は過ぎかけているのだが、彼女は僕のお古の絵本を引っぱり出して貪るように読む。

 何かに飢えていたように。

「何読んでるの?」

 背後に立って上から覗くと、妹は頭をぐっと後ろに引いて仰のけになり、あの笑顔でにっと笑った。

 彼女の手元のページを見ると、小さな山羊、少し大きな山羊、そしてとても大きな山羊が踊るような足どりでどこかへ向かって歩いている。

 この草食の割に狡猾で獰猛な偶蹄目の三匹がたらふく草が食べられる新天地を目指して旅をするという北欧の昔話だ。

「この話、僕もよく読んでたよ」

 この絵本を見ること自体、何年振りだろうか。

 昔はこの大きな山羊を誰より強く優しいと思っていた父に、少し大きな山羊をいつも笑顔で快活な母に、小さな山羊を自分に擬えていたものだ。

でも実際の家族はそうではなかった。

 父の女癖に悩まされぼろ雑巾のように疲れていた母は、父の同僚と男女の仲になり、家を出て行った。

 それでも父はけろりとしたものだった。

 ちゃんと稼いで家族に金銭的不自由をさせていなければ、何をしようと勝手だというのが彼の信条だった。それを咎め立てする人間がいなくなり、ひょっとしたら嬉しくすらあったのかもしれない。そして当然のように、ハウスキーパーとシッターに家と息子を丸投げしてしょっちゅうよそに泊まってくるようになった。

 その挙句連れてきたのが、お化粧オバケの継母と、この骨と皮ばかりの身体に目ばかりぎろぎろ光る妹だ。

 そして父は家庭人ぶってこの家に帰ってくるようになった。

 父をこの家に誘引しているのは、自分ではなく継母と妹であることに目くじら立てるほど子供ではないが、やはり面白くない。

「あのな、この大きいのはとうちゃんでこっちはかあちゃんで、この小っちゃいのはグレ兄」

 彼女は幼かった頃の自分と同じように、一頭一頭山羊を指差してみせた。

「僕、もうお父さんより背が高くなっちゃってるのにちび山羊なの?」

 そういうと、メラニーは真剣な顔で考え込んだ、一番大きな山羊に、親を差し置いて息子を配役することに少々抵抗があるらしい。

 鹿爪らしく、徐々に唇が尖ってくる。

「このちびは、メラニーだよ」

 色褪せた寂しいことをいろいろと思い出しながら、僕は妹の頭を撫でた。

「違う。私はこれ」

 それは、橋の下で通るものを喰らおうと待ち構えている醜い化物だった。目を爛々と光らせ、白く鋭い牙を剥きだし不吉な口を開けている。

「え? これ?」

「うん」

「どうしてそう思うの?」

「私は橋の下がお似合いだから」

 それはどういうことか尋ねると、メラニーは2年前、この近所を流れる川の上流にある町で橋から落ちたことがあるからだと答えた。

「どうして落ちたの?」

「わかんねえ」

 きっと足が届かないほどに身を乗り出して川を覗き込んでいたり、欄干に上って歩いたりしていたんだろう。そういうことがしたくなる年頃だ。 わからなくはないが、命と引き換えにしてまでやりたいものでもない。

 そう、片付けようとした。

「……あんまり覚えてねえんだ。身体がふわってなって、川が近くに見えて、気が付いたら母ちゃんが泣いてて救急車とかレスキュー隊とかの人がいっぱい来てた」

「ケガは?」

「頭打って、肩が抜けた。でも大丈夫だって」

 妹はへへ、と笑顔で右肩をぐるぐると回して見せた後、絵本に目を落としぽつりと言った。

「馬鹿でどうしようもないガキだからくたばらなかったんだって」

「それ、お母さんが言ったの?」

「うん。だから馬鹿でよかったって思う」

 泣いていたという母親が、助かった娘にそういうことを言うものだろうか?

 心配のあまり口走ったのだと解釈しようとしたが、どういう気でそんなことを言ったにせよ、この小さな娘が酷く傷ついたのは変らない。

 背筋に氷柱でも突き入れられたような気分で、ソファの前に回りメラニーの隣に座った。

 僕が腰を下ろした振動で、軽いメラニーの身体は小さく揺れた。

「でも、メラニーは馬鹿じゃないよ」

 メラニーの太腿に、真新しい内出血のどす黒いシミを見つける。よく見ると、太腿や肋の浮いた胸元にも黄色くなった痕跡が残っている。今まで長いズボンを履いていたので気が付かなかったが、向暑のこの時期、短いズボンに変えたので初めて気が付いた。

「これは?」

「転んでぶつけた」

「本当に?何でこんなにたくさん?」

 メラニーは口をしばらくへの字に引き結んだあと、もう一度、自分が転んだのだと言い張った。

 その口調も表情も何だかとても弱々しく、しかし縋るような必死さがあった。

「メラニーは、お母さんが好きなの?」

「うん。こんな馬鹿で汚くて臭い子、面倒見てくれるの母ちゃんだけだって」

 その答えに、何だかたまらなく悲しくなって、骨がごつごつしている小さな身体をぎゅっと抱き寄せた。

 絵本がソファから滑り落ちる。

 メラニーはぎくりと身体を硬くし、首を後ろに引いてひどく驚いたような、困っているような顔をした。

「グレ兄、私、臭くて汚いんだぞ」

「メラニーは汚くなんかない。石鹸のいい匂いがする」

「本当か?」

「嘘じゃないよ」

 メラニーの薄いTシャツと、自分が素肌に着たオックスフォードのシャツ。

 その二枚の布を通して、彼女の身体は温かい。

 じっとしているとメラニーの身体から緊張が解けていくのがわかった。

 さらさらとした鳶色の髪を撫でてやると、遠慮がちに、頭の重みを僅かばかり胸に預けてくる。

 その頭にそっと頬を寄せると、耳の後ろから後頭部へかけて、髪に隠れて見えなかった大きな傷跡が見えた。

 髪を掻き分けて、それを見ようとすると、メラニーの手が伸びてきて制止するように指を掴んで、真っ黒な瞳孔をマホガニー色の虹彩が囲んだ目で物問いたげに僕の顔を見上げた。

 正直、魅力的だとかきれいだとか、そう言った言葉には縁遠いと思っていた妹がふと今まで見たどの女性よりも可愛らしく思えた。

「あのね、メラニー」

「……」

「僕はメラニーのお兄さんなんだし、嫌なこととか辛いことがあったらいつでも言うんだよ?」

「……」

「僕ができることは何でもしてあげるからね」

 メラニーは大それた願いを口にするかのように少し逡巡した。

「じゃあ、遊んでくれるか」


 そのとき、襟足あたりにちりちりするような嫌な感覚があった。

 例えるなら、鋭い刃物でそっとうなじを撫でるような、悪意に満ちた不快な視線。

 知らず知らず、眉根に力が入る。

 きっと、メラニーの母親に違いない。

 あの卑しい女狐。

 どんな醜い顔で、こっちを覗いているんだろう。

 睨み返してやるつもりで素早く振り向いた。


 そこにいたのは父だった。


「何をしている」

 扉のノブに手をかけて立ち、怒り、というには冷ややかな憤怒の表情を浮かべている。

 何故だかひどく、見られてはならないところを見られたような気がした。

 もう一度、声を低く、脅すように父は言った。

「何をしている」

 理不尽な怒りと非難の眼差しは、全く知らない他人のもののようだった。

 言い訳を口にしながら、僕の口調は自然と上ずる。

「メラニーに昔の怪我のことを聞いてたんだ」

 父はメラニーを見つめた。

「メラニー、グレンから離れなさい」

 メラニーは小鳥が飛び立つように腕をすり抜けて立ち上がった。叱られ慣れている面持ちで項垂れている。

「何か、変なことをされたんじゃないだろうな?」

 尖った男の口調に妹はかぶりを振り、父はメラニーの肩を抱いて自分の身体の後ろに庇った。

「グレン、お前は自分の部屋に行け」

 やたらと高圧的な、小学生を叱るような言い草。

 自分の息子が自分の体格をとっくの昔に追い越してしまっていることを忘れているのだろうか。

 メラニーの細い骨ばった肩に置かれた指の短い、汗でいつも湿った男の手。

 優位にあるオスの威嚇のパフォーマンス。

 何故か、頭の中が静まり返るような、冷めた気持ちになった。

 こうして見ると、父はただの、頬がたるんでビール腹の醜悪な中年男だった。


 僕は自分の部屋へ行った。

 自分の匂いが染み付いたベッドに横になり、幼い頃、両親とはしゃぎながら天井に貼った蛍光シールの星座を目でなぞる。

「グレンは12月30日生まれだから山羊座…これだな」

「この三角のが山羊?変なの」

 それは天球儀の星々とは随分ずれていて、歪つで、しかし幸せというものがここに在った何よりの証だった。

 しかし、そんな日々は戻ってこない、と感傷的になったのももう昔のことだ。

 灯りを消した後の暗闇に浮かび上がるライム色に弱々しく光った星座の群れは、今では特に何の感慨も覚えないものになってしまっていたが、無性にメラニーに見せてやりたくなった。


 翌日、父は帰ってくるなり、大きなクラフト封筒をリビングで本を読んでいた僕の胸に叩きつけた。

「来学期から、お前はここに行け」

 それは、同じ州の中でもかなり離れた街にある全寮制ハイスクールの編入手続書類だった。

 来たるべきときが来たような気がした。

「ここは名門だし、何より俺の母校だ。ここの寮ならお前もきっと落ち着いて勉強できるだろう」

 いつもこの男はぎくしゃくとした会話を数分すれば義務は果たしたとばかりに踵を返し、同じ空間にいることを避けている。本当はだいぶ前から息子を家から出したがっていたが面倒くささが勝り、顔を合わせないようにするにとどまっていた。

 皮肉なことに、その父親の無関心のおかげで僕はこの家を帰るべき場所として暮らし続けることができていたのだ。

「どうして急に?」

 間抜けな質問だと自分でも思った。だが、他にこの場にこれ以上ぴったりな言葉が見つからなかった。

 父はしばらく黙って、頭の中で話す筋道をおさらいしているようだった。

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