しあわせの場所

江山菰

第1話

 春の始まりとはいえ、まだ肌寒い。

 西から斜めに大気を照らす光が柔らかく橙色を帯び、東の空はもう群青色に、これから冷たい夜がやってくることを穏やかに告げている。

 小さな街区公園の錆びたフェンスの脇に、この近所にある学校のタグをつけた鞄が二つ並んで置かれていた。

 一つは、見るからに高級品だ。柔らかな滑革の艶に、大事に使われていることが見て取れる。

 もう一つは廉価なキャンバスの頭陀袋で、裁ち端から繊維が毛羽立ち、上に乗ったり投げたりしているのであろう、だいぶくたびれている。

「今日ね、わたし図書室の鍵当番だったんだけどね、」

 小鳥のように小柄で金髪の少女がうきうきと話している。

 空の色の瞳は楽しげに輝き、全身で歌を歌っているかのように快活だった。

 ペンキが剥げて地塗りが覗き、不快な軋みを上げるブランコが動く。

 そして、彼女が着ている愛らしいワンピースの裾も空気を孕んでふんわりと揺れる

「……鍵失くしちゃって、ずっと探してもどこにもなくって、泣きそうだったの。でもねリノが私が鍵失くさないようにって自分のポケットに入れて、それ忘れてサッカーやってたの!」

 彼女はクラスメイトの男子の名を出すと、非難の口調ながらうっとりと空を見上げた。

 彼女の器量なら、きっとどんな男子でも「おつきあい」したいだろう。

 しかし彼女が選んだのは、成績がよく運動神経抜群ではあるのだが、まるで肉襦袢でもつけているかのように筋肉に塗れて大きな図体をし、ミドルスクールの生徒と言っても誰も信じないほどいかつい顔の少年だった。

 彼は老けた…魁偉な容貌にも関わらず、いつもこのアリスという少女が困っていると助け、からかわれると庇い、アリスに話しかけられるとゲルマン民族特有の白い肌を真っ赤にする純朴な少年だった。男気もあるので人気もある。

 その二人がごく最近「カレシ」「カノジョ」の間柄になったのだ。

 ヴィルジニもリノも浮かれっぱなしで、休み時間はこそこそくすくすと 学校の物陰で他愛無く話をし、登下校も手を繋いでという仲睦まじさだった。

 コイビト同士とはいえもちろん、彼らは対になったぬいぐるみのようにただ相手がいるだけで嬉しくてたまらない子供らしさで、会話の内容もおままごとのように微笑ましいものだった。

「ねえ、ひどいと思わない?」

「……」

 隣のブランコに腰を下ろしているのは、痩せぎすで大柄な少女だった。

 高くも低くもない細い鼻梁に切れ長の目、黒鳶色のくせのない髪、キャラメル色の肌に散る雀斑が様々な人種の混血であることを示していた。

「ねえったら」

「…ん」

 髪はバサバサと艶がなく襟足より少し長いあたりで無造作に切られ、自分でカットしたのか毛先が全く整っていない。

 地味なシャツとズボンを身に着け、少女というより少年のようだった。

「……ねえ、メラニー、具合が悪いんじゃないの」

 漕いでいたブランコを止め、隣のブランコの座板に腰かけたまま黙りこくる「親友」にアリスは気掛かりそうに尋ねる。

「……何でもねえよ」

 数年前に母親が出ていき、優しかった継父が地下鉄のプラットホームから落ちて轢死した。

 そんなメラニーを、アリスが心配するのは当然の成り行きだった。

 どんな悲痛な出来事も、時の流れの前には朽ちていくものだ。まして、これから人生の長い旅路を歩いていく子どもならなおさら、毎日の輝きが辛い思い出を包み込んでいく。

 養父の死から、ずっと沈みがちだったメラニーもだんだんと年齢相応に笑うようになってきていた。

 以前と変わらず、だはははと品性の欠片もない笑い声を上げてクラスの丸坊主をからかい、ギリシャ系の呑気な女子を賭け事まがいの手遊びでカモにし、昼食を行儀悪く口に抛りこむ。アリスは少なからず安堵していた。

 ことに先週の土曜日はメラニーのバースデーパーティで、メラニーは本当に楽しそうだった。

 なのに、この月曜日から、メラニーと呼ばれた少女はひどく顔色が悪かった。日がな一日、生気のない顔でぼんやりと机の傷を眺め、休み時間は周りの少女たちから逃げるように、カーペットが敷かれた図書室の本棚の陰に蹲っている。

「なんでもなくないよ。ずっとメラニー具合悪そうだよ? 髪も切っちゃったし」

 この問いは、ここ数日学校でもずっと繰り返してきた。

「……」

「ねえ、具合悪かったら言ってよ。メラニーのお兄さん、帰りが遅いんでしょ?うちのお母さんに頼めば、病院にすぐ連れて行ってもらえるよ」

 とはいえ、午後6時を過ぎ一般診療所は閉まっている。

「本当に、何でもねえよ」

 徐々に暖かい色の光は弱まり、薄い闇が拡がってくる。

 メラニーは、泣きそうになりながら、ここにずっといたい、と思っていた。

 だがそれを、この子どもであることを当たり前に享受している少女に悟られるのは嫌だった。

「ほんとに?」

「うん」

 ぴょんとブランコから降りたアリスは、メラニーの背後に回るときゅっと抱きついた。

「だったら元気出してよ。メラニーがそんな風だとつまんないよ」

「……」

 その瞬間メラニーの身体がぎくりと強張った。

「???」

 メラニーは荒々しい手つきで、可憐な友人の手を振り払う。

「……? どうしたの?」

 傷付いたような声を上げるアリスにメラニーがさらにうなだれる。

 真ん中から分けた長い前髪が顔にかかり、メラニーの表情は見えない。

 今までこんなことはなかった。

 メラニーはいつもアリスにふざけて抱きついてきたし、アリスもメラニーに甘えてしなだれかかってきた。

「……ごめん」

 小さく呟く声。

 違う。

 謝ってほしいのではない。

 どうして、いつもの愉快で優しい彼女ではなくなってしまったのか。

 それが訊きたいのだ。

 アリスは、気の毒な友人の支えになろうという気負いが空回りする軋みに、少し苛立った声でメラニーを詰った。

「ごめん、じゃないよ! わたしは、どうしてって訊いたの! わたしはメラニーのシンユウでしょ?」

 少女は「シンユウ」の白い小さな顔を見て、すぐに目を伏せ顔を背けた。

「私は」

 メラニーが何か言おうとしたとき、怒りを含んだ男の声が遠く重なった。

「メラニー!」

 白いシャツの上に黒いセーターを着けた長身の男が急ぎ足で近づいてくる。

「ここにいたのか! 探したよ!」

 それは大学に通っているメラニーの兄だった。

 テュルク系の血が多く入ったドイツ出身の両親を持つ彼は、父の後添いの連れ子であるメラニーとは当然全く似ていない。

 メラニーより一段暗いトーンの肌と黒髪、青みを帯びた黒っぽい目。

 面長な顔の輪郭に鷲鼻、自信無さげな下がり眉。

 背が高く、肩幅も広い。

 同年代の子供から見てもかなり小柄なアリスの目からはまるで巨人のように見える。

 身体のサイズはまるっきり大人なのだが、彼は顔をじっと見詰められたりなどするとアリスのような子供に対してさえおどおどと落ち着きを失くす。

 しかしそれはただ人に凝視されることが苦手というだけのことのようで、アリスがメラニーの家に遊びに行くと笑顔で迎えいれ、菓子や飲み物をいそいそと出してくれる。

 そんな兄を、メラニーは足で小突いたり、タックルして転ばそうとしたり、やりたい放題だった。

「アリスと二人じゃつまんねえんだよグレ兄も一緒にやろうぜ」とメラニーがせがむと彼はゲームに加わったりもし、血の繋がらない妹の友人に何くれとなく気を配ってくれる。

 兄弟姉妹のいないアリスは、何をしても怒らない優しい兄を持つメラニーが羨ましかった。

「あ、こんにちは、グレン」

「こんばんは、アリス」

 もう遅い時間であることを皮肉に込め、メラニーの兄は妹の親友に挨拶した。

 メラニーがのろのろとぶらんこの座板から腰を上げ、グレンは、妹のキャンバス地の鞄を拾い上げた。

「もうこんな時間だ。君も早く帰らないと」

 言葉は柔らかく好意的だったが、今まで見たことのない非難の眼差しを浴びせられ、アリスはたじろいだ。

「あの、メラニーがずっと元気がなくて、具合が悪いんじゃないかって……心配だったから」

「そっか。ありがとう。でも、それだったらなおさら、メラニーを早く帰すべきだよね」

「……ごめんなさい」

 メラニーがアリスを庇った。

「グレ兄、アリスは悪くねえから」

 黄昏の光は消えてしまった。

 アリスは自分の鞄を肩に掛け、すべてが陰の色にくすむ住宅街の舗道をメラニーとグレンが歩いていくのを眺めた。

 グレンがすっかり短くなったメラニーの髪に長い指を通すと、素早く辺りを見回し、屈んで妹の頭にキスをするのが見えた。

――メラニーとグレンって本当に仲がいいんだわ。

――明日は、メラニー、元気になってるといいな。

 二人の後姿が角を曲がり見えなくなると、街路灯が照らす家路をアリスはとことこと辿り始めた。


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