彼と妹②

「妹が縁づいた先がわかったんだよ。今度の日曜日に付きあってくれないか?」

 彼が僕らの顔を見るが早いかそう言って駆け寄ってきたのは秋が深まって本郷通りの銀杏並木が黄金色に輝く季節だった。


 妹が住んでいるという場所は亀戸に近い場末の街だった。床屋の裏になった棟割長屋の一軒で、見つけるのに暇どらなかった。昼間だというのに妙にしんとした長屋で日差しが差し込むことを諦めたようなひんやりとした土地だった。


 家を見るなりほとんど駈け出すようになった彼とは反対に僕の隣を歩いていた龍之介は足を止めた。


「やめた」

「やめた?ここまで来て帰るって言うのかい?」

「君がついていけばそれで十分だろう」

 龍之介の気ままな振る舞いにはこの頃にはだいぶ慣れては来ていたものの僕らは彼に選ばれた「立会人」のようなものだ。その義務をやすやすと放棄していいわけがない。


「だから、君は行けばいい」

 子供のような瞳でじっと龍之介が僕を見た。何かを恐れているような妙に白い顔をしていた。無理に触れたらパリンと音を立てて壊れそうだった。


「おーい!何をしているんだい?早く来いよー」

 彼の焦れた声が飛んできた。

「わかった」


 僕は龍之介とも彼にともつかない返事をして長屋に向かった。龍之介が来ないことに彼は特に不思議がる様子も見せなかった。それほど彼の頭は目の前の長屋の中にいる妹のことでいっぱいであるようだった。


「主人も留守にしている時間で何のお構いもできませんで」


 造作の悪い家の中には幼子に乳房を含ませた細君、彼の妹の他に人影は無かった。彼の妹は彼よりもずっと大人じみていた。のみならず、切れの長い目尻のほかはほとんど彼に似ていなかった。


「可愛いなぁ。いくつだい?」

「去年生まれました」

「結婚したのも去年だろ?」

「いいえ」


 彼は何かにぶつかるように一生懸命に話しかけていた。が、彼の妹は子供をあやしながら、愛想の良い対応をするだけだった。僕は番茶の渋のついた茶碗を手にしたまま、勝手口の外を塞いだ煉瓦塀の苔を眺めていた。塀の向こうにはわずかに日が差しているのが見えるもののこちら側はしんと冷えたままだった。


「兄さんはどんな人?」

「どんな人って・・・本を読むのが好きですね」

「どんな本?」

 彼の顔が輝いた。


「どんなって・・・講談本や何かですけれども」

 妹は他にどんな答えようがあるのかわからないというようにほんの少しだけ困ったように眉を寄せた。実際その家の窓の下には古机が1つ据えてあった。古机の上には何冊かの本も、講談本なども載っていたのであろう。しかし、僕の記憶にはあいにく本のことは残っていない。ただ僕は筆立の中に孔雀の羽が二本ばかり鮮やかに挿してあったのを覚えている。


「じゃァ、また遊びに来る。兄さんによろしく」

 彼はそう言って妹の抱く小さな姪っ子に指を伸ばした。彼女の抱く幼子の小さな手が彼の指を追うように動く。彼の妹は幼子の動きをとめるように抱え直し、乳房を含ませたまま、しとやかに僕らに挨拶した。

「さようですか? ではみなさんによろしく。どうもお下駄も直しませんで」

 長屋を出ると道の向こうで日差しに目を細めて立っている龍之介が目に入った。背の高い龍之介の頬にはわずかに日差しがさしており、黒髪がつややかに輝いていた。それを見て僕はようやく息ができるようになった気がした。


 僕たちは日の暮れに近い町を歩いて行った。僕らはいい合わせたように彼の妹にあった気持ちを口にしなかった。彼は、ただ道に沿った建仁寺垣に指を触れながら、こんなことを僕に言っただけだった。

「こうやってずんずん歩いていると、妙に指が震えるもんだね。まるでエレキでもかかってくるようだ」


 この日を境に僕たちの秋が過ぎ去り、彼の木漏れ日のような温かな笑顔はゆっくりと陰りをみせていくことになる。

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